初夏のこと

「お前は、運がいい」

 気配に気付いていても、うなだれたままであったヴィールヒは、やっと顔を上げた。これだけの動作すら、辛くなっていた。しかし自分のどこに運がいいと言われる要素があるのかということに興味が向いたのだ。

「サヴェフが、王家の軍を、退けたぞ」

 ロッシが、このナシーヤの地で豊富に産出し、加工されている鉄で作られた格子越しに顔を歪める。ヴィールヒはこの前までそのロッシをあれほど憎み、鎖に繋がれたままでもその喉笛に喰らい付きそうな勢いであったものだが、今はそういうわけにはゆかぬ。それがサヴェフの名を聞いて、表情に少し変化を見せた。

「あいつめ、やりおる。ニコの軍に痛撃を与えておいて、取引をしおった」

 ヴィールヒは、

 ——取引?

 と心の中だけで声を発した。

「ニコにも、体面がある。いっかいの賊ごときにその軍を乱されたとあれば、奴の勢いにも陰りが出て、足を取られるか分かったものではないからな。秘密裏の取引は、自然なことであるな」

 ロッシが、何故そのようなことをヴィールヒに言うのかは分からない。

「取引とは、今後、街や村での略奪は一切せぬこと。王家に従属し、必要があれば傭兵団としてその招聘しょうへいに応じること。月に一度、使者を迎え入れ、査察を受けることについて、証文を書いたそうだ」

 サヴェフが王家の軍を退けたにも関わらず、その取引内容は王家の軍にとっていささか有利が過ぎる内容である。ちなみに証文とは日本の古いそれに似ていて、裏に大精霊アーニマの名と姿の記された紙に、誓い事を書く。ひとたびそれをした以上、それを破るというのは大精霊に背くということなるから、あらゆる文書の中で最大の効力を発揮する。

「その引き換えに奴が望んだものが、お前だ」

 ヴィールヒは、天井から墜ちる星の数をずっと数えて過ごしている。それが、また滴り墜ちるのを、このとき感じた。

「明日、サヴェフのもとへ向けお前を護送する」

 ロッシは、それだけ言うと、背を向けて薄暗い闇の中に消えていった。


 ひとつ。また、星が墜ちた。それが、ヴィールヒの額に当たり、小さく弾けた。

 ヴィールヒは、瞬きもせず、闇の奥を見つめている。そのまま微動だにせず同じ闇に向かい合っていると、不意にそれがぱっと払われた。

「出ろ」

 牢番が槍を突きつけ、手枷を外す。

 赤黒い痕のついた手首は、見る影もなく痩せてしまっていた。

 彼にはそれを数えることが出来なかったが、彼がいわれなくここに囚われてから、じつに二年が経過していた。

 別の手枷に付け替えられ、そこから連なる鎖を引かれ、ヴィールヒは歩きはじめた。歩くということがこれほどに苦痛を伴うものかとそのとき思った。だが、一歩歩く度に、地獄よりも酷いこの地下牢から、遠ざかってゆくのだ。だから、彼としてはその苦痛を喜びと捉えざるを得ないだろう。


 地獄というものを引き合いに出したついでに、ナシーヤにおける地獄について解説しておく。他の宗教同様、アーニマ教——今となってはその名は記録の中のみのものとなり、現在のこの地にある国においてはプロテスタントに属するキリスト教徒とイスラム教徒が多くを占めている——にも地獄はある。地獄というのが適切かどうかは分からぬが、彼らは死後、一様に大精霊アーニマの補佐を務める精霊達により、その行いや人となりについて取り調べられる。そして、適合性が高いと認められた者のみ、大精霊の羽根のひとつとなり、この地を守護する役割を与えられる。そうでない者は、いわゆる地獄行きとなるのであるが、仏教における地獄のような過酷な労働や苦痛を強制されるようなものではなく、彼らにとっての地獄とは、無である。ひとたび無となれば、存在そのものが認められず、大精霊の御手による守護を受ける地——すなわち全地上——から存在ごと抹消されることになるのだ。彼らにとって、これほど恐ろしいことはない。だから、彼らはその墓に真名を刻む。死した後、精霊に対する査問の際に名乗るために。彼らの生きた証を、精霊に示すために。そして、彼らがたとえ査問により無に帰しても、彼らを知る者のみは彼らのことを忘れず、その存在の証明とするために。

 彼らが死後どうなるのかということについては、概ね、このようなものである。その意味では、ヴィールヒが放り込まれていたこの地下牢は、無よりも酷かった。無ならば、少なくともそれを無と感じるヴィールヒも、そこには居ないことになる。だが、ヴィールヒは、確かに二年もの間、ここに居た。居て、虚無と退屈と苦痛を感じ続けていた。それを地獄と形容するため、敢えて回り道をしたことを断っておく。



 そのが、途切れた。途切れて、足の裏の心地が変わった。別にそれを快いとも思わない。ただ、変わった、と思ったのだ。

 足の裏でそれを感じたのは、ヴィールヒがあまりに長い間、昼も夜もない穴蔵に閉じこもっていたために、眼を開けられないでいるからである。だが、彼は思った。今は昼、風の匂いからして、初夏であろうと。

 そして、彼の肌を、また星が叩いた。あの牢は出たはずなのにどうして、とヴィールヒは一瞬、尻のあたりが寒くなるような感覚に襲われたが、すぐにそれは治まった。

 晴れているのに、雨が降っているのだ。

 そう思った。



 戦いがあったのが、この年の二月。サヴェフやザハールらは、まだなお人を春へと行かせまいとしつこく縋ってくる冬の空に剣を閃かせ、王家の軍に対して激烈な攻撃を行った。まず奇策。イリヤの陽動、ベアトリーシャの罠、それで王家の軍の肝を砕いた。立ち直ろうとするそれを更に打ち砕いたのは、ザハール。はじめ、たった一騎で王家の軍に突撃し、さんざんに掻き乱した。王家の軍と言えども人の集まりで、彼らの中には内心、自分達がなぜこの森の賊の討伐に出なければならぬのだ、という不満があった。そういう雑な仕事は、地方軍にやらせればよい、というわけである。さらに、彼らは驕っていた。自分達はこの天地で最強の軍であり、いっかいの賊ごとき、旗を見ただけで野鼠のように逃げ散るしかないのだと。

 それが、まずかった。そうやって彼らが驕れば驕るほど、ベアトリーシャの火術による罠に対しても、ザハールの予想外の武に対しても、まさか、という思いが先に立ってしまい、対応することが出来なかったのだ。そして、サヴェフが率いて東より戻ってきた隊により陣の動きを封殺され、壊走寸前まで持ち込まれた。


 史記にあるこのときのザハールの働きの信憑性については、議論は尽きないところである。果たして、一人の人間が、何千――このとき展開していた王家の軍は、少なくとも三千と思われる――もの軍勢を押し返すことなど、出来るものかという論が、最近は多い。筆者に言わせれば、それはどうでもよい。あくまで史記の描写はそれを編んだ者がその時点で知っていたであり、その真偽を確かめる術は、現代においては勿論、この史記が編まれた時点においても既に失われていたのだ。だから、これを編んだ者が、ザハールが一人で数千の敵を押し返した。と聞けば、そう書かざるを得ないし、筆者も史記にそうある以上、ここでザハールの武勇を称えざるを得ない。

 敢えて考察するならば、として挙げたのが、王家の軍にとって想定外のことが起き、かつ彼らは驕っていたとする上の理屈である。

 まあ、それはよい。


 唸りを上げて暴れ狂うザハールを見て、誰からともなく森の賊がその戦いに参加した。たちまち乱戦となり、あたりは叫びで溢れた。そして、東から横槍を入れたサヴェフ。賊が街に繰り出すときに乗る老いた馬に跨って駆け、指揮者であるニコが副官として連れていたザンチノと渡り合った。その勝負は互角であったが、このとき、サヴェフとニコは言葉を交わしたのだという。以下、史記に記された原文を直訳する。


「賊の男よ。貴殿は何故、このような戦いをするか」

 サヴェフ、答えて曰く、

「貴殿らが突如として、攻めてきた故。ならば問う、軍の男よ。貴殿は何故、事無くして事を立て、ゆえなくして我等を攻めるか」

 ニコ、応じてなお笑う。

「貴殿らが、賊であるからだ」

 サヴェフ、更にそれを笑う。

「笑止、笑止。我等は賊にはあらず。賊ならば賊として、理を踏み付け義を泥へ捨て、己の生きるために生きておらねばなるまい」

「それを、貴殿らはせぬと申すか」

「せぬ。我等は、かの先王暗殺のおり、故なくして囚われたグロードゥカのヴィールヒがため、今ここにある。我等があり、刃を執り、貴殿らと今相対すは、それがため」

 ニコ、剣を下げ、問う。

「それを阻むならば、王家の軍であろうとも、貴殿らは歯を剥くと申すのだな」

 サヴェフ、即ち答える。

「いかにも」


 こういうやり取りが、あったという。以下は筆者の言葉で引き続き描く。

 それを聞いたニコは、これは参った、と言わんばかりに額に手を当て、笑ってしまった。

「お前は、馬鹿なのだ。どこの世に、己の意地のために我々に歯向かい、戦う者がいるのだ」

 サヴェフは、ニコが戦いをやめようとしていることを十分に察しながら、剣を更に高く掲げた。

「ここに。正しきを阻み、曲げ、理由もなく人を捕らえ、裁くような国ならば、こちらから願い下げ。我らは、今まさに、そのために戦っているのだ」

「ちょっと、待て」

 ニコが手を挙げ、サヴェフの言葉を制止した。

「頭を冷やそう、戦士よ」

 と、ここでニコはサヴェフに対し、賊という言葉を使うのを止めた。

「俺には、色々事情がある。ただの賊ならまだしも、お前達を放っておくことで、お前達が国家に弓引こうとする叛乱の芽にならぬものかということを恐れ、やってきた。それがどうだ。お前達は、自らが正しいと信じることのためなら、叛乱すら起こすと言うではないか」

「いかにも」

 若いサヴェフが、重々しく頷く。

「ならば、俺は、それを止めなければならない。まずは、この戦いだ。俺には、お前達よりも抱える事情が大きい。今、失敗をするわけにはゆかぬのだ」

「ほう」

 サヴェフは、そこではじめて剣を下ろした。無論、彼は今自らが相対しているのが丞相ニコであることを分かっている。それが、この戦いを止めなければならぬ、と言うのだ。内心、しめた、と思ったことであろう。サヴェフ自身が思っていたこの戦いの終着点は、王家の軍か森の軍のどちらかが滅ぶまで戦うことではなく、まさしくここにあったからだ。

「その事情とやらは、知らぬ。我らは、正しきを行うのみ」

 あえて、そう突き放すようなことを言った。もう、このときは既に、ニコはサヴェフを一個の士として扱っている。士とは、対等である。

「まあ、そう言うな。お前、名は?」

「サヴェフ」

 それを聞いて、ニコは、少し沈黙した。にわかに、雲が彼の上を横切ったからだ。

「そうか。ヴィールヒの解放を、望むか。では、サヴェフ。お前は、ヴィールヒを解き放った後、何を望む?」

 サヴェフは、笑って答えなかった。この二人のやり取りは、戦場の喧騒の中に穿たれた穴の中心で行われた。二人を取り巻く周囲の者は、それをじっと見守っている。

「よし、サヴェフよ。話を、進めよう。戦い以外の話を。それは、形の上での話だ。俺は、自らの立場と、それを崩そうとする者の思い通りにはさせぬ。お前は、ヴィールヒを解き放ち、為すべきを為す。それを目指そうではないか」

 こういう呼吸は、この時代ならではのものである。一国の丞相が一介の無頼の士に向かって、取引をするというのである。しかも、対等の者として。

 そこで取り交わされたのが、ヴィールヒ自身がロッシから聞かされた約定の内容である。戦いが終わってから二月余りが経過しているから、約定の内容やその細かな取り決めなどについての交渉があれこれと行われたのだろう。


 ともかく、ナシーヤ暦四八三年四月、ヴィールヒは、その身を天にさらした。

 彼がそう思った通り、風の匂いも、粘りつくような雨の具合も、初夏だった。

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