眠りの狭間

 ヴィールヒ。

 天井から滴り落ちる滴の音を、聴いている。


 眠っているのかどうか分からぬような、ぼんやりとした頭だが、最近では、誰かがやって来ることが、未然に分かるようになった。風の流れが、そのときだけ、変わるのだ。


 天井の滴がよそよそしげに騒ぎ出すとき、決まって誰かがやって来る。

 ゆっくりと、羽根が一枚、風に流されて彼の眼の前を舞うことがある。それは、透き通った銀で、ときに青い。それを眼で追おうとすると、消えてしまう。


 その次に何が起こるのかは、決まっていた。羽根が消えた代わりに役人がやってきて、毎日、毎日、同じ質問をされる。


 王を殺したのは、お前か。何故、殺したのだ。

 それから、身体をひどく責められる。謂れのないことでこのような仕打ちを受けるわけだから、日に日に、彼の心は蝕まれていった。


 腕に繋がれ、端を土壁に埋められた鎖を引き抜こうとする力も、すぐに失われた。

 ただ、天井から落ちる滴の音を、聴いている。

 はじめの頃は、その数を数えてみたりもしたが、虚しくなって、すぐにやめた。いや、今となっては、数えることすら出来なくなった。



 ここに入れられて、何日が経ったのか。

 流れてくる風の匂いや、肌に触れる湿り気や温度の感覚から、まだ夏の中にいることは分かる。そういう、曖昧な時間の中で、その時間が動いていることを示すたった一つのものが、天井から落ちる滴の音であった。それは、何かを語り掛けるようでもあり、歌を歌うようでもあった。



 また、人がやってきた。

 いつもの獄吏ごくりだ。いつもの、と言っても、毎日同じ人間が来るわけではない。誰が来ても、ヴィールヒには同じことであるということだ。

「ヴィールヒ」

 聴き慣れたような、はじめて聴くような声。

「さあ、話をしよう」

 ふと、ヴィールヒはうなだれた顔を上げた。


 何かが、違う。

 いつもの獄吏ではない。

 薄暗い光の中に浮かび上がるその影に、見覚えがあった。

 鎖。悲鳴のような音を立て、軋む。

「こ、こいつ」

 声を持つその影が、怯えたような声を上げた。

「まだ、こんな力が」

「─―さぬ」

 ヴィールヒの声は、掠れてしまっている。

「─―るさぬ」

 それに、どんどん力が蘇ってくる。

「許さぬ」

 鎖は悲鳴を上げながら、なお軋む。

「ロッシ」

 ヴィールヒは、その影の名を叫んだ。

「俺を、めたな。よくも、今俺の前に、現れることが出来たな」


 あの武芸大会の日、ヴィールヒとサヴェフが矢を放ったとして声を挙げた、宰相ロッシの姿が、側につく衛兵に庇われ、灯りの中に浮かび上がった。

「悪く思うな、ヴィールヒ」

 鉄の格子の向こうのヴィールヒに対して、二人の衛兵を盾のようにしてはじめて、ロッシは安堵してものが言えるらしい。

「全ては、国のため」

「ほざけ。なんの謂れがあって、俺は今こうしている。何故、俺が王を殺める。言ってみろ、ロッシ」

調に手間取っていて、済まんな」

 粘着質な笑みを浮かべる格子の向こうの初老の男に向かって、ヴィールヒは咆哮した。

「そう、喚くな。なにも、お前が王を殺したと、断じたわけではないのだ」

「ならば、今すぐ俺を解き放て」

「それは、出来ん」

「ならば─―」

 生々しい手応えと共に、ヴィールヒの自由を奪い続けている鎖が、その主人の求めに従い、壁から抜け出ようと動いた。

「自らを解き放ち、貴様の喉笛を食いちぎり、己の正しさを示すのみ」

 鎖は、なお悲鳴を上げている。

 ヴィールヒが眼の前のに向かって、疲れ、痩せ、傷ついた身体を、いや、魂を燃やしているのに、天井の滴が共鳴している。驚き、恐れる衛兵が持つ灯火を吸い込むそれは、きらきらと紅く光っていて、ヴィールヒを覆う天蓋に満ちている。


 その全て紅で染められた星が、墜ちてくる。いや、墜ちたと思ったのは、腕にめられた鉄の輪が、鎖に引かれて肉を食い破り、流れた血であった。

「おい、何をしている。やめさせろ」

 ロッシの声が、土の天井に響く。

 衛兵どもが我を取り戻し、鉄の格子の向こうに棒を差し入れ、ヴィールヒの身体のあちこちを滅多やたらと突いた。


 それで、ヴィールヒは大人しくなった。

 地に転がり、風を切るような激しい息をしながら、ロッシを睨み付けている。

「まるで、獣ではないか」

 ロッシは、牢から離れた。

「もっと、弱らせろ。まだ、こいつの心には力がありすぎるようだ」

 そういう声が、遠ざかってゆく。

「まったく。何という男だ。しかし、だからこそ──」

 そこで、声は途切れ、ヴィールヒの世界はまた静かになった。



 ひとつ。ひとつ。ひとつ。

 数を数え上げることなく、時は流れてゆく。

 いや、この場合、墜ちてゆく。

 痛みはない。それを感じる力も、もうない。

 ただ、かろうじて己が生きていることを知らしめるかのように己の荒い息があるのみであった。


 殴られ、腫れ上がったまぶたの奥に光る刃物のような眼が、ゆっくりと閉じようとしている。眠りに落ちるその刹那、彼は見た。



 天を覆う、暗い雲。

 そこを蛇行する、一匹の龍。

 大地には、光を透かし、銀にも見える青へと変える大いなる翼を備えた、大精霊。

 この神話は、この時代においては事実と信じられていたふしがあるから、信心深いか否かに関わらず、人はこういう夢をよく見る。

 大精霊は、いかっていた。

 その手に持つ槍を、天空に突き上げた。

 ぱっと、羽根が散る。

 龍は苦しみ、嘆き、涙を流した。

 ぽつり、ぽつりとヴィールヒの頬を叩くそれは、血であった。



 なんの謂れがあって。

 大精霊は、なんの謂れがあって、龍を苦しめるのか。

 龍は、なんの謂れがあって、人を苦しめるのか。

 そこで、ふと思った。

 大精霊は、なんの謂れがあって、人を助けるのか。

 人は、なんの謂れがあって、精霊と龍の戦いによって起きる激しい閃光を見上げ、その轟きにおののき、身を隠すのか。



 では、ヴィールヒ自身の怒りは、誰が晴らすのか。

 ヴィールヒの誇りは、誰が取り戻すのか。

 その答えに辿りつく前に、彼の思考は閉じ、眠った。

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