第一部 創世の龍鱗

第一章 空、未だ黒し

その名はヴィールヒ

「どうした!そんなものか!」

 ヴィールヒは、木の棒でもって拵えた槍を、相手の眉間に向けた。

「ま、まいった」

 額から血を流した相手は尻餅をつき、ヴィールヒの突風のような攻撃に対して許しを乞うた。

「久しぶりに会ったと思えば、サヴェフ。腕が落ちたではないか」

 ヴィールヒは、槍の構えを解いた。

「お、おまえが、強すぎるのだ」

 サヴェフと呼ばれた、髪の黄色い若い男は、息が上がってしまっている。ひどい汗が、髪と同じ色の髭から垂れ落ちた。 

 夏が近い頃の夜だから蒸し暑いのもあるが、石で組まれた舞台の上に立つ二人をあかあかと照らす大きな篝火と、なにより、ヴィールヒが放つ強烈な気が、そうさせるのだろう。


「勝者、ヴィールヒ」

 王の枯れた声が響く。

 これは、殺し合いではない。いわば、スポーツだ。この頃、このナシーヤ王国においては、諸地域を治める君主が複数おり、それらを統べる者として、王が定められていた。

 すべて中央から任じられた者が、与えられた地を治める後年の国家パトリアエとは違う。

 君主と王の関係は、たとえば戦国時代における大名と帝の関係よりもやや濃密で、江戸時代における大名と征夷大将軍の関係よりもかなり希薄であった。

 よって、各地域の君主は、自らの都合でもって、勝手に他の地域を攻め、その勢力を伸ばしたり、攻められた報復のため攻め返すといったような争いが、この五百年ほどの間止まらない。



 五百年ほども前と言えば、彼らにとっては歴史ではなく、もはや神話の世界である。

 ちょうどその頃、争う人の心に誘われたのか、ウラガーンという悪しき龍が現れ、河を溢れさせ、人や家畜、作物を押し流し、悪戯をした。

 それを見た大精霊アーニマが、あるときは堤防を築き、あるときは高台とそれに適した作物の苗をもたらし、人を守る。両者は互いに出会う度に戦い、血を流し、雨を降らせ、風を呼んだ。

 後年の我々からすれば、ウラガーンとは自然の驚異を象徴しており、アーニマとは人の叡知を象徴しているということは誰でも分かる。

 しかし、彼らにとっての歴史とは神話であり、神話とは、であった。

 大精霊アーニマは、今、人々の心の中の悪しきものを、洗い流そうとしているという。祈りを捧げることで、人の心は、少しずつ、洗われてゆくらしい。

 しかし、既に述べた通り、人はこの史記が始まる五百年も前の時代と変わらず、戦い、血を流し続けている。



 今の王は、大精霊アーニマに、その争いを治める術を授かったという。

 そのうちの一つが、今ヴィールヒが戦い、勝ち抜いている、年に一度の武術大会であった。

 戦いばかりをする諸地域の、腕自慢の者や、高名な戦士を年に一度集めて、をさせる。その順位によって、その年の序列が決まるのだ。

 序列といっても、高い序列にある地域が儲かるわけではない。この時代、地域の収入は、あくまで自らの治める土地から上がる税である。だから、序列とは、誇りであり、おれはあいつよりも偉い、という満足であった。

 今の王の代になって、たしかに、血と殺戮によって渇きを癒やす獣であった者どもが、誇りと自信のために戦うようになっている。それでも、争いは絶えることはないが、たとえばこの武術大会が始まる前の頃よりは、ずっと少ない。


 剣の形に拵えた棒を拾い、額を押さえながら、サヴェフは引き下がった。実戦であれば、ヴィールヒの槍の穂先が、深々とそこに突き立ち、頭が熟れた果物のように弾けていたことであろう。


 ヴィールヒの槍と言えば、「精霊の怒り」グロムという名で知られている。ある戦場で、ヴィールヒはその槍を手にした。

 戦いがやんだとき、誰かに呼ばれたような気がして、そちらを向いた。そのとき、一筋の雷光が、天と地を繋いだ。

 あまりにまばゆい光に、ヴィールヒが思わず眼を閉じ、そしてまた開くと、雷が落ちたところに、血の曇りも脂の汚れも、泥の汚れの一点もない槍があったのだという。

 おそらく、これは、若くしてグロードゥカ地方で最強の武を持つと言われるヴィールヒのことを、誰かが誇張して言い出したか、史記を編んだ者による創作に過ぎないのだろうが、彼の持つ槍がそれほどに鋭く、その技の冴えは並ぶものがなかったということを表していることは間違いない。


 それは、この武術大会で、もう後に続いてヴィールヒに挑む者がなくなったことでも分かる。つまり、優勝したのだ。

 まとわりつくような初夏の夜の中、舞台の上のヴィールヒと、離れたところで立ち上がり、両手を胸の前に組む精霊への祈りの姿勢を取る王だけが、篝に照らされている。

 あとは、闇。闇そのものがどよめき、ヴィールヒに喝采を浴びせた。

 あれこそ、神武。

 大精霊の加護を、あの若者は受けている。

 手にする槍は、雷が化けたものらしい。

 遠く離れた相手でも、一突きで串刺しにするそうだ。

 そんな声が、混じり合った。

 闇が祝福するのに対して、彼は木の槍をくるりと旋回させて自らの後ろに置き、両手を胸の前で組むことで、答えた。

 眼を閉じ、頭を垂れる。


 そのまま、闇の喧騒を、歓声を、聞いている。

 ふと。

 耳のところに、水が触った。

 歌?

 いや、違う。

 雨だ。

 不思議と、闇は、静かになった。

 無意識に、ヴィールヒは、眼を開いた。


 視界の先で、微笑みながら、自らに対して称賛の言葉を述べるはずの王が仰け反るのを見た。

 その胸に、矢が吸い込まれるのも。

 王は倒れ、周囲の者が騒ぎだした。

「これは、なんとしたことだ!」

 先程まで戦っていたサヴェフが、駆け寄ってくる。

「わからぬ。矢か」

「くそっ」

 二人は、王へと駆け寄った。

「待て!」

 強い声でそれを制したのは、王の側近、宰相ロッシだ。

「ロッシ様」

 二人は、その前に片膝をついた。

「サヴェフ。貴様、王を殺したな」

「なんですって」

「見たのだ。俺は。貴様が、闇の中で弓を引き絞り、王を射るのを」

 衛兵が、サヴェフが控えていた場所を探ると、なるほど、短弓たんきゅうが見つかった。

「あろうことか、王を殺すなど。精霊の意思に叛くか」

「お待ちを。私は、王を殺してなど」

 サヴェフが、思いもしない濡れ衣に膝を震わせた。

「分かったぞ。お前のいる、ユジノヤルスクの君主の差し金だな」


 サヴェフは、ユジノヤルスクという地域で生まれ育ち、そこの戦士であった。すぐ隣の、グロードゥカ地域で生まれたヴィールヒとは、戦場で何度か相対したほか、こうして年に一度の武術大会で、言葉を交わす仲だ。

 この三年、毎年、今十七歳になるヴィールヒが優勝、それに次ぐのが十九歳のサヴェフという結果に終わっていて、毎年、サヴェフが雪辱を誓うというのが恒例になっている。

「ははん、なるほど、グロードゥカとユジノヤルスクが結託し、王の治世を、覆さんとするか」

 ロッシが、ヴィールヒに眼をやった。

「お待ちを。我らに、疑いを着せなさるか。あらぬ疑いを」

 ヴィールヒの眼は、怒りに燃えている。

「そう、これは、あくまで疑いだ。だから、詳しく調べねばならぬ。大人しくせよ」

 衛兵が、わっと二人を取り押さえた。サヴェフが抵抗を示すのを、ヴィールヒは制した。

「よせ、サヴェフ。抗えば、疑いを認めることになるぞ」

 次々と折り重なる槍に、二人は身を委ねた。


 先ほど、ヴィールヒの頬を打った雨は、天から次々と降り、地を、人を濡らした。

 この時代、雨は凶兆とされている。雨を司るウラガーンが、泣いていると言うのだ。

 ウラガーンが悲しみ、怒り、涙を流せば、たちまち河は溢れ、人に災厄をもたらす。

 その点、雷は違った。ヴィールヒの持つ槍が、雷に由来があるとされ、精霊の名を冠するように、雷とは、雨を降らせるウラガーンに対する、大精霊の怒りであるとされていた。

 雨が降り、雷が鳴り、それが落ちるとき、天では、大精霊と悪しき龍が、戦っているのだという。



 牢へ。

 眼を覚ましたヴィールヒは、空を見上げた。

 星がある。

 その星がひとつ、墜ちてきた。

 いや、滴だ。

 空だと思ったのは、土牢の天井。

 星だと思ったのは、僅かな火の光を受けて煌めく、染み出てきた水滴。

 身体は、鎖に繋がれて。

 声を上げても、答えるものはない。

 サヴェフは、どこに。


 ぽつり、ぽつりと、ただ星の墜ちる音を、その発する囁きを、ヴィールヒは聴いていた。

 このとき、ノーミル歴四八一年。

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