ウラガーン史記 墜星の滴
増黒 豊
はじめに
我々は、歴史のことを文字や言葉によって知るわけであるが、無論、それらは人そのものではない。それらは、人の性質や心のありよう、生きる様子などを表すのに有用であるが、必ずしもその人の中心になる核を示すことにはならぬ。歴史とはそういうものであると言ってしまえばそうだが、筆者がそういう曇ったガラスのような理屈を振り回しながら、敢えて文字と言葉というものを用いて彼らのことを描くのは何故だろうかと考えた。考えたが、その答えを導くことに意味を感じる喜びを求めるよりも、今ここでこうして彼らのことを思い、心と魂の振動に身を委ねる快楽の方に眼をやりたがっているということに気付いたわけである。
正直、べつに誰に求められたわけでもないが、敢えて今再び筆を執るのは、筆者もまた、彼らという前例を通じて生きるということについて幾らかのヒントを得ようと目論みつつ、人とは魂を燃焼させたエネルギーを動力としてしか動けぬものであると考えるからである。
長い長いウラガーン史記の、その終わりのときに、この地に墜ちた星屑のようにあらわれた人物の物語を、拙作ウラガーン史記目録において綴ったわけであるが、今から描くのは、その原典たる史記の、冒頭の物語である。
あらためて、筆者の頭の中で、史記を頭から尻まで、見えぬ指でもってなぞってみる。何度繰り返した作業か分からぬが、目に見えるそれと同様、筆者の節ばった短い指が、とん、と止まる箇所に、心でもって印を付ける。
ウラガーン史記とは、おもしろい。その最後において、ウラガーンと呼ばれる集団、いや、存在が現れ、それがこの史記の幕を閉じたことは周知のことであるが、そのはじまりにおいても、史記の綴られる途上においても、しばしばウラガーンという名は登場する。
彼らの神話において、大精霊アーニマと対をなす、人に災厄をもたらすとされる龍。おそらく、この雨の多い地において、太古の時代に雨風を神格化するむきがあり、それが時を経て名を得、意思を持つようになったものであろう。
ウラガーンとは、そういう意味の固有名詞でありながら、同時に、暴れる風、という意味の普通名詞でもある。
たとえば天を天として、地を地として、自己を自己として、他者を他者として、という具合に、人は何かを指し示す必要に駆られたとき、それに名を与える。この地に生きる人が、それを名指しする必要に駆られたのは、必然と言えよう。
歴史の因果か、あるいは人が産み出した幻想か、あるいは、史記を編んだ者の都合によるものかは、わからぬ。
だが、その名を目にする度に、筆者の心は、いち読者として、高揚するような、懐かしむような、ふしぎな気分に覆われる。ひたひたと、内側から湧水が上がってくるかのように、あるいは、ちりちりと、遠火でもって焦がすかのように。
いや、もともと、筆者は、遠くで吹いているその風に、手を伸ばそうとしているのかもしれない。届かぬと知りながら、届くと信じて。
この頃、まだ、パトリアエ王国歴はない。あったのは、まだ古い国が定めた、月の満ち欠けをもとにした、古い暦を用いていた。
その暦を、ノーミル暦という。
古い国というのは、この時点でのこの地には、後世のような緻密な統治機構を持った国家は無く、なんとなく、人の集まりが合わさって出来上がった国家の延長線上にあるものが存在したことを指す。ヨーロッパの封建制度に似ている。古代や中世というには新しく、人の集まりがより強固な結び付きを持って、近世に連なる統治方法を内包するには古い。そういう頃のことである。史記曰く、その古い国家の名をナシーヤという。
河のそばに、人は集まる。河は、肥沃な土壌を育み、農業を発展させる。また、荷を運んだりするにも河の存在は欠かせない。この地域は、その河に合わせ、遥か東と西の地域を結ぶ交易の道の真ん中にあるから、かなり古くから文明はあった。その起源を追うのは他の歴史書や研究書に任せるとして、王都は、東の山脈に始まり、彼らがソーリ海と呼ぶ巨大な塩湖へと注ぐ大河のそばにある。
彼は、そのようなところに、生きていた。
その名は、ヴィールヒ。
彼は、この後、時をかけ、全てを薙ぎ、
それは、さながら、暴れる風。
星は空に瞬き、雲に隠れ、やがて、それは屑となって、降り注ぐ。
今はまだ、風はない。
だから、始めよう。彼らのことを、語ることを。
この指を、はじめの頁に。
この腕を、もう一度、あの風の圧へと。
気が、満ちた。
書くとする。
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