2.

 僕は結局、トーストとサラダだけの朝食をとることにした。


 狭苦しい四畳半で、汚れた畳の上にあぐらをかき、焦げたトーストをもそもそと口の中に詰め込んでいると、なんだかこの世の不条理というものが具現化して僕の上にのし掛かってくるように思われた。


 僕は深い溜息をついた。あまりに深すぎて、なんだか自分の吐いた溜息の中にどこまでも転げ落ちてゆくような気分になった。


 どこで道を間違えたのであろうか。どうして折角の休日をこのように暗澹たる気分で過ごさねばならぬのか。

 僕は立ち上がって部屋の中をうろうろと歩きまわったが、四畳半には歩き回るスペースさえも満足になく、僕はただその場でぐるぐる回っているだけであった。それは僕の人生を非常に端的かつ的確に表していた。


 部屋の中心で回転していると、例の古い卵を捨てていなかったことがそもそもの原因であるような気がしてきた。

 そうだ、すべての元凶はあの古い卵ではないか。あれのせいで温泉卵が作れず、別れた彼女には尖ったきゅうりのように辛辣な言葉を浴びせられ、こうしてあまり素敵でない休日の苦い始まりをサラダと共にシャキシャキ嚙みしめる羽目になったのではないか。


 こうなってくるとなんだか無駄にシャキシャキしたサラダにまで怒りを覚えてしまい、これ以上好き勝手シャキシャキさせておくものかときゅうりを丸呑みしてみた。

 きゅうりの角が喉粘膜にツンツン刺さりながら胃の中へと滑り落ちてゆき、僕は畳の上を転げ回って身悶えした。その拍子に本棚に入りきれず床の上に積み上げてあった猥褻図書と学術書の山が崩れ、僕の上に降り注いだ。猥褻図書も学術書も角が頭に当たれば痛いという点ではすべて同じである。


「コンチクショウ!」


 僕は本の下敷きになって呻いた。

 目の前で微笑んでいる際どい水着の美女から「悪いのは卵ではなくお前ではないのか」「四六時中腐った卵のような匂いを漂わせている汚らしい男が素敵な休日とは片腹痛い」「お前なんぞ食器用洗剤で一日中全身ごしごし丸洗いしておればよいのだ」という囁きが聞こえてきたので、聞かなかったことにして水着美女を破り捨てた。たぷたぷとした胸は無情にも左右に分裂し、ひらひらと床に舞い落ちた。


 起き上がると、体の上に載っていた本たちがばさばさと床に落ちた。たまたま開いていたページを見ると『三つ子の魂百まで――二十余年生きてきてなおそこまでの醜態を晒しているのだから、今後事態が好転することはないであろう。潔く諦めるがよい』とゴシック体で強調されてあった。

 おのれ、教科書までも僕を馬鹿にするというのか。そもそもこれ何の教科書だ。


 僕はぶんぶんと頭を振った。そんなはずはない。僕はこの二十数年間何も恥じることなく――無論、恥じるところが一つもないわけではないし、正直に言えば恥じるところのほうが多いと言っても過言ではないのだが――清廉潔白に生きてきたはずだ。神は僕の清く正しい振る舞いを一切見ていなかったとでもいうのか。昼寝でもしているのですか。


  僕はその教科書をゴミ箱へと放り込んだ。

 それから怒りに任せてトーストにドレッシングをかけ、サラダにバターを塗り、それぞれ一口だけ食べてからこれもゴミ箱へと叩き込んだ。


 そうだ、卵を捨ててしまえばよいのだ。


 突然そんな考えが脳裏を掠めた。

 卵さえ捨ててしまえば僕は幸せになれる。この卵が諸悪の根源である。そうとも、そうに違いない。僕はどこから引っ張り出したのかもわからぬ結論に飛びついた。


 どの程度古いかも定かでない以上、ゴミ箱に捨てるのも躊躇われる。捨てた拍子に割れた卵が腐臭でも放ち始めては、健康で文化的な最低限度の生活が損なわれてしまう。おまけに腐臭の中でも個別に名前まで付けられているほどの悪臭、硫黄で有名な腐卵臭である。部屋の中で火山が噴火したのならまだしも、そんな匂いと共に暮らしていくのは御免被る。


 かくなる上は、中身の見えないビニール袋に詰め、直接ゴミ捨て場に持っていくほかあるまい。

 ついでに猥褻図書も半分ほど捨ててしまうことにした。既に擦り切れるほど読んだ本ばかりで、最近はどれを開いてもジョニーが不服そうにしている。どうにかこうにかなだめすかしつつジョニーと遊んでいても、虚しさは増すばかりである。


 僕は立ち上がり、不透明なゴミ袋を探しまわった。汚い四畳半に積み上がった埃の大半をもう一度空中へと解き放った頃、やっとそれは見つかった。


 さあ行こう。もう一秒たりともこの卵を家の中に置いておきたくはない。

 僕は卵といくつかの猥褻図書をゴミ袋に入れ、立ち上がって外へと通じるドアを開けた。


 そこには既に、誰かが立っていた。

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