温泉卵の日

紫水街(旧:水尾)

1.

 いろいろな見解があるかもしれないが、僕の場合、素敵な休日はなんてことない朝食から始まる。


 トーストとコーヒー、フレンチ・ドレッシングをたっぷりとかけたレタスときゅうりのサラダ、それから温泉卵。僕はテレビのニュース番組を眺めながら、極めてゆっくりとそれを食べる。この儀式をやり遂げることができたなら、いつだってそれは素敵な休日になるのだ。

 逆にこの儀式をやり遂げることができなかった場合、その日はあまりよろしくない出来事が起こる。犬に噛まれた日も、財布を落とした日も、彼女と喧嘩して別れた日も、そういえばこの朝食をとれていなかった。


 だからどうだという話ではない。人生なんて、結局のところそんな偶然の組み合わせなのだ。


 今日は久しぶりの休日だ。

 僕はオーブンの中に、駅前のカフェで買ってきたトーストを入れた。ここのカフェでは店主が焼いたパンも売っていて、それがあまりにも素敵な味をしているものだから、コーヒーよりもパンのほうが売れ行きがよかったりするのだ。

 あとはオーブンのスイッチを押すだけでいい。そうすれば次に目にしたとき、トーストにはカリッと焦げ目が付いているだろう。しかし、まだそれを押すべきタイミングではない。

 それからコーヒーメーカーの中に水とコーヒーの粉を入れ、スイッチを押した。ぶうんという低い唸り声に混じって、水がこぽこぽと音を立てた。

 なんてことない朝食を作るのにもっとも重要なのは、タイミングを外さないことだ。トーストが焼きあがってからコーヒーを淹れ始めると、熱々のコーヒーができた頃にはトーストが冷めてしまっているだろう。何事にも正しい手順というものがあるのだ。


 僕はピアノが調律されているかどうか確かめる腕ききのピアニストのような手つきで、冷蔵庫の中にある卵をそっと取り出した。卵は最後の一個で、悠然とそこにあった。まるで滅んでしまった世界の中で一人、荒野に立っているみたいにして。

 これを使ってしまったら、新しい卵を買いに行かなければならない。僕は行きつけのスーパーマーケットでよく見かける店員の少し太めの足を思い浮かべ、その足の付け根について少し考えを巡らせたりした。


 もしも彼女がいれば「ねえ、またいやらしいこと考えてるでしょう」と頬を抓られたことだろう。彼女はいつだって、僕の考えていることなんて全部お見通しだった。付き合っている頃、僕の頬はいつも右側だけ真っ赤だった。


 彼女の思い出を頭から追い出すために、僕はさっさと温泉卵を作り始めることにした。


 温泉卵を作るというのは、極めて慎重さを要する作業だ。茹で過ぎてしまうと温泉卵にならないし、温泉卵でなければ「なんてことない朝食」とは言えないのだから。

 ゆで卵と温泉卵と半熟卵、その境界はひどく曖昧で、殻を割る前の卵の中身のように不確かなのだ。


 鍋を火にかけ、卵を入れる直前でふと思いとどまった。この卵がいつ買ったものなのかを覚えていないのだ。何日前、それとも何週間前だろうか。これが古い卵であった場合、あまり食べるのは得策でないような気がした。僕はゴミ箱を探した。卵のパックは残っていなかった。最後に卵を買ったのはとてつもなく昔のことであるように思われた。


 迷っているうちに台所からいくつかの音が同時に響き渡った。それは加熱されすぎた鍋の中で沸騰した水がダンスを踊る音であり、電話のベルがけたたましく鳴る音であり、冷蔵庫の扉が開けっ放しになっていることを警告する電子音であった。

 僕は嘆息とともにコンロの火を消し、冷蔵庫の扉を閉め、少し迷ってから受話器を取った。


「もしもし」


「ねえ、今何をしてるの?」


 それが例の彼女だったので、僕は内心ひどく動揺していた。

 なんてことない喧嘩のあと、彼女は出ていった。僕は少し泣いたし、彼女も少し泣いていた。それで終わりだった。いつだってそういうものだ。


「朝ごはんを作ってるんだ」


「朝ごはんを作ってるのね?」


「そう」


 少しの沈黙が流れた。彼女は他の男といるらしかった。受話器の向こうからは誰かの声、食器とナイフが触れ合う音、そしてローリング・ストーンズのCDが彼女と誰か知らない男のために「ブラウン・シュガー」を歌う声が聞こえてきていた。


「どうせ、いつもみたいにトーストとサラダとコーヒーなんでしょう」


「うん。それと、温泉卵もね」


 そして一番重要なのだ。少なくとも、今の僕にとっては。


「素敵な休日はなんてことない朝食から、だっけ?」


「そう」


「馬鹿みたい」


 僕は黙っていた。

 じっとりとした手に受話器が張り付いていた。


「馬鹿みたい」


 彼女はもう一度、注がれた紅茶が冷めるのを待っている猫舌の令嬢みたいにゆっくりと言った。それから電話は切れた。


 僕は受話器を手に、長いことそこに佇んでいた。

 トーストはオーブンの中で焼かれるのをじっと待っていたし、熱々だったはずのコーヒーはポットの中でとうに冷えきっていた。


「やれやれ」


 どうやら、あまり素敵でない休日になりそうだった。

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