第3.5話
【竹虎アスナは恋をする】
「アスナ、軽音部のライブ見に来ない?」
ちょうど科学部と折り紙部が参加した活動報告会があった日の終礼後、アスナの席にやってきた友人は嬉しそうにそう言った。
口元を覆う黒いマスクとお団子にされた金髪、鋭い目、投げやりな喋り方、と初めて会った頃はアスナも彼女を避けてしまっていたのだが、話してみれば友達想いの優しい人物なのである。
「てかあんた、実はいまだに帰宅部っしょ?」
「あ、あはは・・ちょっと、時間なくて」
「は~特待生は勉強大変だもんね。お疲れさん」
よしよし、と頭を撫でられて、アスナは苦笑いをしながら心の中で彼女に謝った。
時間がないのも、特待生であり続けるために勉強が必要なのも嘘ではない。
だが、部活に所属しないのも、彼女に誘われた軽音部の公演を断るつもりなのも、ただアスナにその気がないからだ
「じゃあ今日はやめとくか?」
「うん。ごめんね」
「全然!そんかわり、明日一日私とおんなじファッションしてもらうから」
「え、そ、それはちょっと・・」
「ばーか、冗談じゃん!マジレスされると傷つくわー」
ライブの準備あるから、と教室を後にする友人を見送り、アスナは一人また一人と人が去っていく教室で教科書とノートを取り出した。
中等部の頃は家で勉強していたのだが、最近はこうして無人の教室で済ませてしまうことが多くなった。
ここなら余計なことを考えることなく勉強ができる。
その日の授業の復習と当分の予習、宿題の演習問題を済ませて答え合わせをしていると、あと数問と言うところで赤ペンのインクが切れた。
(確か替えのインクも切らしてるのよね・・)
ちらりと時計を確認する。
下校時刻まではまだまだ時間があるが、確か購買は下校時刻よりも早く閉まるはずだ。
休憩がてら早めに行っておこうとアスナは席を立った。
階段を降りていくと、軽音部のライブの音漏れがどこからか聞こえてきて、罪悪感がつつかれる。
同時に聞こえてきた運動部の掛け声と一緒に、軽く頭を振って追い払い、アスナは購買へ急ぐ。
昨日、夕食を作っていた時のことをアスナは思い出していた。
『姉ちゃんさ、飯作んなくていいから部活でも入ったら?』
仏頂面のまま吐き捨てるようにそう言った二つ違いの弟は、大好きなゲームのソフトを整理していた。
『姉ちゃんの不味い飯食わされるこっちの身にもなってよ』
いつもなら生意気言うなと怒るアスナも、その時だけは何も言えなかった。
整理されて紙袋へと入れられていくゲームソフトの行方を知っていたからだ。
あの程度のものでは大した金額にはならないことを知っているから、そして中学三年生になった弟もきっとそれに気づいているはずだから、アスナは黙ってトマトを八つに切ることしかできない。
「・・しも・・もしもし?」
「あ、え、はい?!」
呼びかける声に反射的に答えたアスナは、思わず裏返った声に口元を抑えた。
見開いた目に映ったのは、人気のない購買部と、レジの向こう側に立って心配そうな目をした購買部の店員。
ぼーっと店員を見つめるアスナに、彼はさらに心配そうな顔で念を押すように言った。
「・・324円です」
その言葉にハッと我に返り、レジに並べられたペンの替え芯に気付くと、アスナは慌てて財布のファスナーに手を掛けた。
店員は替え芯に会計済みのシールを貼りながら、レシートに引っかかって開かないファスナーを無理やり開けようとするアスナをうかがう。
「ん、しょ」
やっと開いた財布から小銭を取り出そうとして、アスナの手が止まった。
財布に入れていた家の鍵が、窓から差し込む夕日に照らされて鈍く光る。
キーホルダー代わりの猫のマスコットが黒ずんだ目でアスナを見ている。
アスナは無言のまま324円を会計用のトレイに乗せ、シールの貼られた替え芯を手に取った。
(忙しいのに失礼しました)
心に浮かんだ言葉を口にすることはなんとなく恥ずかしくて、アスナは目を伏せたまま軽く会釈をしてレジに背を向けた。
「あ、ねえ、ちょっと、君」
響いた声に、私・・?とアスナが振り返ると、店員がレジから身を乗り出してアスナを見ていた。
アスナが首をかしげると、店員は慌てて手を合わせる仕草して、
「ちょっとだけ待っててもらっていい?」
と言って急ぎ足で購買の奥の事務室へと姿を消した。
そしてすぐに戻ってくると、アスナの手に紙袋を握らせる。
「最近凝っててさ。疲れ、取れると思うよ」
アスナが紙袋を開ると、ふわりと爽やかな香りが鼻先をかすめた。
「紅茶・・?」
「フレーバーティー。シトラスとか、アップルとか。
いい匂いでしょ?」
得意げに笑う店員を、アスナは戸惑って見上げることしかできない。
そんなアスナの様子に今度は困ったように頭を掻くと、僕は君のことあんまりしらないけど、と彼は続けた。
「頑張ることは素敵だけど、無茶をするのは違うと思うんだ」
アスナの目がゆっくりと見開かれる。
何か言わなければと口を開くが、浅い呼吸だけが唇の間から漏れるだけで言葉にならない。
「あ、あの」
ぶーぶー、とアスナの声をさえぎって何かの振動音が響く。
店員は慌てた様子でポケットから携帯端末を取り出すと、画面を操作してタイマーを解除した。
「ごめんね、今日はちょっと用事あって、もう閉めちゃうんだ」
そのままアスナをうながして店を出て、店員は「じゃあね」と爽やかに笑う。
「お茶、飲んでね?美味しさは保証するから」
閉店準備のために戻っていく店員の後姿を、アスナはただ茫然と見つめていた。
名前聞けなかった、若い人だな、でもさすがに五つは離れてるかな、付き合ってる人いるのかな、お礼言えてないじゃん、どうしよう。
ぐるぐるとまとまらない考えが頭の中を駆け巡るアスナの前で、購買部の扉が閉まる。
見つめていた背中が扉の向こうに消えるのを見届けて、アスナは長く深く息を吐き出した。
肺から空気が抜けていくごとに、強張っていた肩がすとんと落ちていく。
空いた肺に新しい空気を深く深く吸い込むと、優しい紅茶の香りがアスナの胸を満たした。
***************************
「アスナ、ちょっとあんた、めっちゃ損したよ」
翌朝、教室に姿を現すと同時にそう言いに来た友人は、マスク越しにもニヤニヤと笑っているのがわかるほど嬉しそうだった。
「根古さん、あの購買の貴公子がライブの最後にゲスト出演!
もうあたし、あれだよね。惚れちゃったよね。
てか私らには言っとけってんだよね」
軽音OBらしいよ、と興奮気味にまくし立てる友人の言葉が理解できず、アスナは首をかしげた。
「購買の・・貴公子?」
「え、なに?あんた知んないの?」
アスナの隣の席の椅子に勝手に座り、彼女は身を乗り出して言った。
「購買の店員、根古さん!
サイコーにイケメンで、背高くてスタイルよくって爽やか男児!」
目を見開いたままアスナは昨日紅茶をくれたあの店員を思い出す。
確かに端正な顔をして、背は高くてすらっとしていて、もらった紅茶もとてもおいしかったが。
「女子から大人気!高等部のアイドル!購買の貴公子!」
「高等部の、アイドル・・?」
「そう!今度一緒に見に行こう。サイコーにカッコいいから」
忘れないでよ、と言って自分の席に帰っていく友人を見送ることも忘れて、アスナは呆然と前を見ている。
そしてボッと顔を赤らめると、心の中で叫ぶのだった。
(ライバルだらけじゃない??!!)
前途多難な恋を前にアスナは赤くなった頬を両手で隠す。
が、ふと、昨日感じていた暗い気持ちが吹き飛んでいることに気付いて、ふふ、と笑みを零した。
今日はどの紅茶をもらおうかな、とアスナは戸棚の奥にひっそり隠しておいた紙袋に思いを馳せる。
(今日は、早く家に帰ろう)
微笑みながらそう決めて、アスナは授業の準備を始めた。
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