第9話

「梵士くんに知られたら絶対嫌われちゃうってわかってたから、どうしても言えなかったんですよぅ」

「言ってくれてよかったんだよ。僕が依央さんを嫌いになったりするわけないじゃないか」

 うずくまって嘆く依央さんの肩に手を置く。休憩を終えたニーナが戻ったステージが賑やかなので耳元に口を寄せて話しかけた。

「確かにナコアは滅ぼすべき巨悪だよ。でも親が汚い仕事をしてるからって、子供の依央さんにはなんの罪もないよ。むしろ一刻も早くこの魔物の巣を叩き潰して依央さんを救い出さなければという使命感が湧いた」

「おい。なんなんだ君は」

 何か聞こえるけれど無視する。

「わかった。私も手伝ってうちの事業潰すぅ……」

「お嬢様⁉ なにを言ってるんですか」

 思わぬ新情報で少し混乱した気持ちは、涙ながらの同意を得られて落ち着く。依央さんがそういう気持ちでいるのなら安心だ。

 どっちみちナコアはこの町から消え去らないといけないので、そうすれば依央さんは正真正銘ナコアと無関係になる。お父さんは無職だ。

「えっと……私、着替えますね」

 まだアイドル衣装のままだった依央さんはカーテンで仕切られた衝立ついたての向こうへ姿を隠した。こうなるとさすがに問題を無視できなくなる。なにしろ目の前に回って睨まれている。

「君は一体お嬢様のなんなんだ?」

「僕は依央さんの恋人です。大鍋梵士と言います。お父さんへの挨拶は遅れましたが、どうぞよろしくお願いします」

「いやお父さんではないよ。部下だよ。……ステージを見て事情を確かめに来ただけで、お嬢様が自分の意思で参加したんなら、上司の娘のプライベートに口を出すつもりはない」

 気まずげに物わかりのいいことを言う。さすが会社員だ。私生活にガンガン突っ込んでくる商店街とは組織の捉え方が違う。

「でも君には問題がありそうだから報告はさせてもらう。お嬢様に影響があるといけない」

 そうでもないようだ。まず台本に影響されていることを知らないくせに。

「ホラホラ、いいからアンタは仕事に戻った戻った。我らが商店街の盛り上がりをその目に焼き付けてくるがいい」

 背中を押してテントから追い出すと、入れ替わりに依央さんが衝立ついたてのカーテンから顔を覗かせた。

「もう行った? ハァ……とんでもないところ見られちゃった」

 眉根を寄せた弱り顔。依央さんにとって一番台本を頼りたいのは家族に対してだろうから、そこに近しい父親の会社の人間には素の自分を見せたくないんだろう。

「あ~……パパにどう伝えるんだろう……。まいっちゃうなあ、嫌だなあ」

 取り繕おうとしてパニックになるわけでもなく、落ち込んで愚痴っている。こんな依央さんを初めて見た。

 でも、顔を上げて僕を見た依央さんは〝みんな大好き副島さん〟に戻っていた。

「応援してくれてありがとう梵士くん。とっても貴重な体験ができました」

 誰も傷つけない優しい笑顔のはずなのに、ズキリと胸が痛む。

(それは……嘘だよ。『二度とゴメンだ』くらいのことを言いたいはずなのに)

 台本さえあればなんでもできる依央さんは、けれどもスーパーヒーローになることを望まなかった。目立たず人当たりよく。その結果人気者になっていることさえ狙ってはいなかったはずだ。

 なのにアイドルなんてムリヤリやらされて、「よかった」なんて思うわけがない。

「……いやあ、助かったのは僕だから。僕と商店街と、ニーナ。勝手な都合で大変なことさせて、ゴメンね」

 今からでも不平を聞かせてほしい。謝らせてほしい。

「なにか恩返ししなきゃ。してほしいこと、言ってよ」

 けれどもやっぱり、依央さんは爽やかに笑うのだった。

「梵士くんが喜んでくれるなら、私も嬉しいから」

「……そんなこと言わずに。なんでもいいから」

「じゃあ、ずっと一緒にいてほしいかな……なんて」

 いつもなら、それを言われたら喜んだと思う。でも今は、ただただ虚しい。

「依央さんは……僕に何も求めないんだね」

 好かれたいだけで行動し、好かれるために何者にもなる。本当にそこには依央さんがいるだろうか。僕がいるだろうか。

「人間関係を円滑にするためにマニュアルが必要なのはわかるって確かに言ったよ。こうすれば大丈夫っていう安心が欲しいのもわかるよ。でも、どうして僕にまでそうなの?」

 つかえていたものが外れて言葉が溢れる。

「他の人に気を遣うのと同じように、僕にまで遠慮しないでほしい。嫌なことを言ったら僕が依央さんを嫌いになるなんて、他の奴と一緒にするなよ。僕は依央さんの恋人じゃないのか? どうしてそんなことで不安になるんだ。僕をちゃんと依央さんの〝特別〟にしてよ」

 依央さんが恋人なのは台本ありきなんだから、こんなことは言うのは間違っている。自分の中で大切な部分が揺れている。

「未与子さんは信じてくれたよ? 僕に好かれてるってわかるから、恐くないって」

 この展開は未与子さんも予想していなかっただろう。依央さんは戸惑い顔で時々口を動かすものの、結局は何も言わない。「他の女と比べるな」と怒りたいはずなのに、言わない。言ってくれない。

「依央さんってさ、本当に僕のことが好きなの?」

 ふと沸いた疑問が言葉になって、ハッとした。

 見開いた目から涙がこぼれ、唇が奮えている。台本の範囲なら笑顔、台本を外れたらパニックを起こす。そのどちらとも違う。これもまた素顔なら、こんなものは見たくなかった。

「そんなところから……伝わってないんですね」

 自分がこれほど深くひとを傷つけられるなんて思わなかった。

「違う、こんなこと言うつもりじゃなかったんだ!」

 両手で塞いだ口元から嗚咽を漏らし、よろめきながら外へ出て行こうとする。

 もちろん止めようと思った。けれど、ほんの些細な力に押し退けられてしまった。依央さんが初めて見せた拒絶の意思。

「私、梵士くんに嫌われることしたくないから……来ないで」

 泣き濡れているように見えて、今一番押し隠そうとしているのは〝怒り〟なんじゃないだろうか。

 依央さんから聞いた初めての要求が「来ないで」になってしまった。



 依央さんを追うこともできずテントで呆然としていると、イベントが終わって自然と片付けを手伝わされた。商店街の一員なので断る理由はない。

 ところが箱を持てばひっくり返し、ステージの背景パネルでカメラ屋の木村さんを下敷きにし、ニーナがまだ着替えている最中に衝立ついたてを運び出してしまった。

 なにをするにしても手元に意識が向かない。失敗ばかりしているうちに邪魔者扱いになってテントの隅で座り込むことになった。こんなことなら始めから断ったほうがよかったかもしれない。

「副島さんとのデートは? なんでひとりでいるの」

 気になるのか、ニーナが話しかけてきた。さっき下着姿を大公開してしまったのにちっとも怒っていないらしい。天使か。

「ちょっとな……失敗しちゃって」

「そりゃさっきから見てるからわかるけど」

「いや、そうじゃなくてだな。依央さんを……追いかけるべきだったんだよなあって」

 僕に嫌われる不安で遠慮なんかしてほしくない。恋人にはワガママでもなんでも素直な気持ちをぶつけてほしい。

 なら自分もそう振る舞うべきだった。なのに傷つけた自分が嫌で、そんな自分のまま接するのが怖くて避けた。お互いに落ち着くまで機会を待とうなんてせずに夢中で追いかければよかった。そうしたかった。

「けどできなかった。……なるほどなあ。拒絶されるって、こんなにショックなんだ」

 ニーナは「へえ」と呟き、腰を滑らせて隣に座る。

「そっか。嫌われて逃げられたんだ」

「そうハッキリ言うなよ」

「でもボンジーにはアタシがいるじゃん」

「いない」

「いるでしょうが、ホレ」

 乱暴に首をこねくり回された。

 どんな罰でも受けたい気分なのでされるがままにしていると、不意に優しい笑顔に見つめられる。

「あのね? ボンジーが初めての恋愛でどんなに酷い失敗をしても、どんなに自分を嫌な奴に思えても、アタシがいるよ。……だからさ、安心して行ってきなよ」

 慈しみの眼で見られていると、自分に価値が無いように思えてやさぐれていた心がほぐれていった。

「……お前をフるような男はとんだ大馬鹿野郎だな」

「アタシもそう思う。だから、バカやって来ればいいじゃん」

 感謝は胸の内で留めて、立ち上がる。

 依央さんは今どこにいるのか。彼女が傷ついて安らぎを求める逃げ場所はどこか。心当たりはひとつしかない。



『帰れ』

 マンション入り口のインターホンで部屋番号を呼び出すなり、いきなりこれだった。訪問は予測されていたようだ。声が怒気で満ち満ちている。

『今キミが近くに来たらブン殴りたくなる。だから帰れ』

「……それが依央さんの気持ちなんですよね」

 もしも殴って機嫌が良くなるなら構わないから殴ってもらいたい。でも、相手は怒っているところさえ見せたくない人だ。そんな安易には済まない。

『それがわかっているなら……いいわよ。会ってあげる』

 まったく同じ心境になっていたらしい声の主――未与子さんが少し柔らかくなった口調でそう言うと、エントランスのドアが開いた。

『先に言っておくけど、依央ならいないわよ。話を聞いてきっとキミがここに来るって言ったら慌てて出て行ったわ。あとを追い駆けたくなるかもしれないけど、今はちょっと落ち着きなさい。私もアンタに言いたいことがあるから』

 落ち着くどころか、落ち込んでいる。

 従って中へ入り、部屋の前へ移動する。未与子さんはドアを開けたらもうそこにいた。

「怒ってはいるわよ。いくらキミでもあの子を傷つける奴はゆるさないから」

 仁王立ちと顔つきでそれは伝わっている。

「私は自分の分も幸せになってほしいと思ってあの子に台本書いてるのよ。それなのに何? ナコアに行った? ナメたマネしてくれるじゃないの……」

「あの、別にナメているわけでは」

「私の台本に満足できなくなったんでしょう。同じことよ」

 そういうことになる、んだろうか。

「ああでも、未与子さんだって自分の幸せを諦めなくても――」

「それキミが私に一番言っちゃいけないことだからね⁉」

 より強く怒らせてしまった。

「……すいません」

 なにが「すいません」なのかもわからないまま頭を下げる。

 奥へ進んで居間へ入り、向かい合って座る。昨日よりも距離が近い。

「で、キミはなにがしたかったの」

 単刀直入な質問。ごまかしようがない。

「なんていうか……ワガママを言ってほしかったんですよね。依央さんが他の人と同じ風に、僕にも台本で接するのが寂しかったんです。だから素の依央さんを見せてほしくて」

「それができないから、あの子は台本が必要なんでしょうが」

「でも僕は、依央さんの本性を見せたって嫌いになんてならないんですよ?」

「伝わらなかったのよ。〝この人には自分のありのままの自分を見せてもいい〟と思えるほど、キミはあの子を安心させてやれなかった」

 ガツンと、殴りつけられた気がした。

「ああ……僕、なにやってんだろ。恩返ししたいとか言って、ただムリさせようとしてただけじゃないか」

 今日僕が考えていたことはデートを成立させることと商店街イベントを成功させること。依央さんが喜ぶようなことをひとつでもしただろうか。

「心の奥に踏み込むにはね、愛よりも信頼が必要なのよ。愛と違ってひとりではできないし、時間もかかる。付き合いたてなんだからムリないわ」

 依央さんは「いっしょにいたい」と言ってくれたのに、欲しい答えが出てこないと焦って責めるようなことを言ってしまった。酷い独りよがりだ。

「あの性分であの子が恋人を作るなんて相当ムリがあるってわかるでしょう? それでも我慢できなくて今まで築いたもの全部台無しにする覚悟でキミに告白して、すべてを打ち明けたのよ。半端な気持ちじゃないことだけはわかってあげて」

「……はい」

 うな垂れていたら、未与子さんがお茶を注いでくれた。

「まあ、相手があの子じゃなければキミもそんなには苦労してないのよね。……一方的に怒って悪かったわ。でも私はこの件では公正になんてなれないから」

「いいんです。だから依央さんはここを逃げ場にできてるんですし。……よく考えたら僕がここにいるせいで依央さんから居場所を奪っているんじゃ」

 思わず腰を上げると、未与子さんはパタパタと手を振った。

「そう何度もは来ないわよ。台本頼まれているわけじゃないし」

 何気なく言った一言が胸に突き刺さる。

「台本、頼んでないんですか? 今僕とケンカしてるような状態なのに、それをどうにかしてほしいって、頼まれなかったんですか?」

「……そう言えば変ね」

「どうにかするつもりがないなら、僕はもうフられて……えっ、まさか、一度のつまづきでもう終わり?」

 怒らせてしまったことはショックだったけれど、さすがにそこまで深刻には考えていなかった。頭がぐらんぐらんして気が付けば床に倒れている。

「そう言えばあの子、潔癖ぽいとこあるものねえ……」

 容赦ない追加情報でへこんだ心に更なる圧がかかる。気持ちが顔に出たのか、未与子さんは驚いてフォローを始めた。

「大丈夫! あの子の想いの強さはさっきも言ったでしょう? こんなことであっさり諦めるなら初めから告白なんてしていないわよ」

「……依央さんはタフだもんね」

「そうよ。どうせ明日学校で会えるんだから、話す機会はいくらでもあるでしょう? それより複雑な立場なんだから、私に気を遣わせないでもらいたいわ」

 申し訳ないけれど、今は依央さんのこと以外考えられない。

「……明日の仕込みがあるんで、帰ります」

「そう……。あの子のこと、お願いね」

 未与子さんの心配そうな視線を振り切って、部屋をあとにした。道すがらスマホのアプリを開いて、依央さんにメッセージを打つ。

『僕も依央さんを特別扱いしていなかったと思います。明日、そのことで謝りたいです』

 夜遅くなっても、既読は付かなかった。



 それどころか、翌朝になっても依央さんが現れなかった。弁当販売を手伝ってくれるようになってからは登校時の搬入も助けてくれて、指定した時間ピッタリに「今着いた」を何度もやっていたのに、今日はいない。

(いやあれは善意でやってくれてたんだから、必ず来なきゃいけないわけじゃない。あれは善意で……あ、僕への善意が無くなったから? そういうこと?)

 自分を慰める解釈を言い聞かせようとしたら余計に嫌な推測が立ってしまった。

(学校へ行けば依央さんには会えるんだ! なにも考えずに仕事しよう!)

 一心不乱に台車を押すうちにいつもより早く学校へ着いてしまった。生徒はまばらで、依央さんはまだ来ていないようだ。なのでもう一往復してから職員室で鍵を借りて理科準備室に弁当を運び入れた。

(これで休み時間一回分得したから依央さんと話す時間を作れる……。昼休みは販売に時間取られるし、できればそれまでに気まずいのなくしておきたいもんな)

 この時点で嫌な予感はちょっとしていた。



 空いた休み時間に依央さんと話すつもりでいたのに、校長室に呼び出されてそれもできなくなった。用件は両親が明日には退院するので、今後の営業はどうするのかということだった。当然断ることもできない。

 そういうわけで今日依央さんと顔を会わせるのは昼休みが最初になる、はずだった。

(……来ない!)

 昇降口前に長机を設置して理科準備室から弁当を移し販売の準備を整える。客は既に集まりつつあるけれど、依央さんの姿はなかった。それでも商売は始めないといけない。

 前回はふたりでこなしていた対応をひとりで処理しなくてはいけないのでてんやわんやになる。しかも依央さんが気がかりで仕方がないから集中力は散漫だった。

(もしかして休み? だって一回も見てないし、教室覗いたときもいなかったし、きっとそうだ。未与子さんに家の場所聞いて見舞いに行こう、そうしよう)

 最悪の場合を考えたくない。依央さんとはもう終わっているというパターン。

 頭の中はぐちゃぐちゃなせいで、すぐに手が止まってしまった。

「お釣りは……あれ? これいくらですっけ?」

 手の中の小銭を数えることすらできない。ひとつひとつ指で押さえても、合間に依央さんのことが思い浮かんでボーっとしてしまう。苛立った客から罵声を浴びせられた。

「ご、ごめんなさい!」

 視界が涙で滲む。

(ああ、もうダメだ。依央さんがいなくちゃ、普通のこともできなくなってるんだ)

 依存だろうとなんだろうと、僕が依央さんに向ける気持ちなら悪いこととは思わない。けれどそれは、僕たちがまだ繋がっていればの話だ。

 絶望と混乱の中で不意に横から手が伸びて、掌から小銭がさらわれた。こんなことは前にもあった。

「デラックスボリューム弁当おふたつ、千円お預かりで200円のお釣りになります。ありがとうございましたー」

 誰が来たかは考えなくてもわかる。このスラスラ淀みない物言いは台本で取り繕われた依央さんだ。

「依央さん! 僕、依央さんと話したいことがあって」

「梵士くん。今はお仕事、だよ?」

「ハイ! その通りです!」

 依央さんが来てくれた。それだけで嬉しかった。

「よかった、よかったよぅ……」

 情けないことに涙が止まらないのでそのあともモタモタして、てんでうまくできずほとんど依央さんひとりで働かせるようなことになってしまった。

 それでももうすべての問題が解決した気になっていた。それが早とちりだということは客の波が引けると同時に依央さんがいなくなって、残しておいたハンバーグ弁当を持て余したときに知った。


 昼休みの販売が終われば放課後まで仕事はなくなる。だから自由な最後の休み時間に依央さんの教室を訪ねた。なぜ僕を避けるのか、それを問い質すつもりで。

 でも教室を覗いたとき、疑問の内容は変わってしまった。

 普段と同じようにクラスの女子たちに囲まれている依央さん。その様子がおかしい。いつもなら和やかにおしゃべりしているのに、今は肩を縮ませて机にかぶさるようにして俯いている。

 まるでいじめられているような構図ではあるけれど、依央さんに限ってそれはありえない。なにしろみんな大好き副島さんだ。

 女子たちも僕と同じように戸惑っているようだった。

「副島さん、今日何か変じゃない? 授業中だって……ねえ?」

「うんうん。いつもなら堂々としてるのに、教科書も読めなかったじゃん」

 なにが起こっているのか、僕にはわかる。

(依央さん……台本を捨てたのか)

 素のままの自分で生活しようとしている。僕どころか、誰とだって顔を合わせたくないはずだ。現に友達に話しかけられているだけの状況でも苦しそうな表情で唇を噛んでいる。

(なんてこった。これ、僕のせいか?)

 台本の依央さんを否定した。その結果こうなっている。それは秘密のことだから、当然周囲には理解されない。

「具合悪いの? カレシとうまくいってないとか……?」

「アイツがなんかしたんだ。あの地味な弁当売り」

 僕が不名誉な謂れをしたことに反発したのか、依央さんの顔が上がる。そして、僕と目が合った。ぐっと首が引いて眉が寄る。

 でも、なにも言わない。僕もなにも言えなかった。

 台本のことは他人がいるここでは話せない。もしそうじゃなくても、依央さんになんと声をかければいいかわからなかった。

 彼女が一体なにを考えているのか、さっぱりわからなかった。



 なにも事情は話せないので散々女子たちに責められたあとの放課後、依央さんに近づくこともできずに困り切って転がり込んだ未与子さんの部屋で今日起きたことを説明すると、未与子さんは重々しく頷いた。

「私の台本を卒業しようとしているのね。いつかこうなることを望んでいたのに、まさかこんな嫌な形になるとは思わなかったわ」

 苦い顔で唸る。聞けば依央さんは未与子さんからのメッセージにも応えないらしい。お互い読まれている形跡すらない。

「でも、どうして急に?」

「急じゃないわよ。キミのせいよ。『特別にしてほしい』って言ったんでしょう?」

「うぅっ、やっぱりそこですか」

 はっきり宣言されると罪悪感が増す。

「あの子がキミを特別にする方法はふたつしかない。ひとつは普段素で過ごして、キミにだけ台本で接する。もうひとつは普段を台本で過ごして、キミには素で接する。後者のほうが恋人らしくはあるけど、あの子にそれはできない。なぜってあの子が台本を頼るのは周りによく思われたいからで、あの子が一番よく思われたいのはキミだもの」

 その理屈はわかる。

「じゃあ、依央さんは今のままでいいっていうことですか?」

「そんなはずは、ないんだけどねえ……」

「もしかして、嫌われたのかなあ……?」

 一番考えたくないことを口にすると、未与子さんは軽く笑った。

「それは大丈夫よ。前に言い寄ってくる男どもをやんわり断って遠ざける台本書いたことあるもの。もし嫌われていたらそれが発動してるはずよ」

 みんな大好き副島さんならそういう場面もあるだろうけれど、なんてものを書くんだろう。自分にそれが向けられたらと想像すると恐ろしい。

「逆に言えば、話しかけて返事が台本だったら危険信号ってことか……」

「考え過ぎないの。あの子は誰にもどの台本も読んでいないのよ」

「……どうするつもりなんだろう」

「それが、わからないのよねえ……」

 思考が停滞してきたのところで、手土産を思い出した。

「これよかったら食べてください」

 おかずの大鍋特製、依央さん考案の女子生徒向け弁当。未与子さんは僕が作ったものは食べられるらしいので、カロリーブロックやゼリーばかりの食生活から脱却してもらおうと思って用意して来ていた。

「今日の売れ残りじゃなくて、ちゃんとさっき帰ってから作ったやつだから大丈夫ですよ」

「ええ、そこは心配してないけど……どうして3食分?」

「明日の昼までの分。また明日学校終わったら持ってくるから。あ、ちゃんと冷蔵庫で冷やしておいて、食べる直前にレンジで温めてからお召し上がりください」

 我ながらなかなか気が利いていると思ったのに、未与子さんは大げさなため息をついた。徐々に揚げ物に染めていこうという企みを見抜かれたんだろうか。

「キミねえ、こういうタイミングで私に優しくするのやめなさいよ。……折角自分の中で諦めつけようとしているのに……」

 ブツブツとぼやいて、未与子さんは弁当をキッチンへ運ぶと財布を持って戻ってきた。

「いくら? ひとつ三百円だったかしら」

「お金はいいですよ。未与子さんにはお世話になってるから」

「商売人らしくないことを言うのね。商品は商品、世話は世話で返すべきでしょう? それにここはお金を払っておかないと説明がつかないから、いいのよ」

「説明って、なにを?」

 不思議で聞いたら、苛立ったようで睨まれた。

「私に好意で餌付けしてるなんてこと、依央にどう申し開きをするつもりよ」

「餌付けって……いや好意はありますよ?」

「キミがもう0.5の設定を捨てていることはわかっているのよ。中の人だの外の人だの、言わなくなっているわよね? キミは依央を選んでいる。そうでないなら今も『依央さんが台本通りにしてくれない』という風に困っているはずなんだから」

 言葉に詰まって「んんっ」と喉が鳴った。

 確かに、昨日からずっと〝依央さん〟しか見ていない。

「あの子と過ごして色んな一面に触れて、曖昧になっているんでしょう? さあ、〝自分の恋人〟と考えて思い浮かぶのは誰?」

「……副島依央さん、本人です」

 外の人でも0.5でもない、依央さんそのもの。狼狽えてばかりのアドリブも、理想的な台本も、即興のアイドルも、今となっては区別を付けられない。

 僕が好きになった僕の恋人は、外の人と中の人を合わせたみんな大好き副島さん。どちらか片方だけでは意味がない。そう考えていた昨日からの軸が、今はもう自分の中に感じられなかった。

「まったく……私に自分の負けを説明させないでほしいわ。ただでさえ惨めなのに」

 強引に千円札を握らされた。これは断れない。素直に受け取って百円玉を渡す。

 だからといって納得まではできなかった。

「……僕が好きになったときには依央さんの中に未与子さんがいたんですよ。そこにはふたりいたのに、そのうちひとりだけを好きになるのって、おかしくないですか?」

「恋には幻想が含まれているのよ。長く付き合ったって、真実のその人をきちんと見ているとは限らない。でもそれでいいんだわ。本当の自分よりずっと素敵に思われるなら嬉しいし、少なくともその人の前ではそうありたいと思うじゃない?」

 静かな口調で気鬱そうに話す。こんなときでも、未与子さんは綺麗だ。

「あの子の中にキミが見た私がその幻想。幻想が剥がれ落ちたらあの子になんの興味も無くなったのなら私は何も言わない。でもそうじゃないから、こうして惨めな想いをしながら説得しているの。キミが私を好きだって言うのを否定することになるとわかっていてもね」

 反射的に開いた口が、指先でそっと抑えられた。

「聞いて。キミがしなくてはいけないことは私を慰めることじゃないのよ。私はあの子に幸せになってほしかった。でも私の台本ではできなかった。だからお願い。副島依央を幸せにしてやって。それがキミが一番したいことのはずよ」

 未与子さんの顔つきは辛いばかりじゃなくなっていた。眼差しは励ますように優しく、背中を押すように頼もしい。

「とにかく明日、依央に話しかけなさい。思ってることを何でも伝えるの」

「うん」

「避けられたら追いかけなさい。大丈夫、あの子はアンタのことが好きよ。それだけを信じて、きっかけを作ってあげなさい」

「うん」

 瞳が揺れる。滲んで強さがぼやける。

「私のことなんて考えなくていい。ふたりがうまくいくよう、いつでも祈っているから」

「うん」

「……行けっ! 振り返るな! 行けっ!」

 涙が床に落ちる前に、玄関に向かった。

 ここはもう僕がいていい場所じゃないと思う。僕が飛び込むべきところは、依央さんのいる所だけだ。

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