第8話

 事情を把握したカメラのキムラの奥さんとクボ化粧品店の娘さんが舞台裏の楽屋へ依央さんを連れ去った。依央さんはついて来てほしそうにしていたけれど、僕はステージ前に残っている。

 それはこの時の為だ。

 BGMが小さくなってステージ脇の階段が軽い足取りで踏み鳴らされ、元気よく依央さんが中央に飛び出してきた。

「どうも! 今日は朝霧町商店街フェア、イベントステージへ来てくれてありがとう!」

 まるで「いつもやってます」という風に〝出来上がっている〟。衣装も髪もメイクも完璧にセットされ、完全にアイドルに変身している。

 これが見たかった。準備中からじゃなく完成した依央さんがいきなり目に飛び込んでくる、そのインパクトを味わいたかった。

(ホントにこの人は……凄まじいな。もう特殊能力レベルだ)

 ひとりで満足している場合じゃない。挨拶は指示されたのだろうけれど、ここからの台本を持たない依央さんは赤い顔で早速硬直している。客席のファンも自分たちが待っていたアイドルの衣装を別の誰かが着て出てきたことで本格的に動揺し始めている。

 ここからは僕も仕事をしなくちゃいけない。

 最前列の更に前、ステージの下からスケッチブックに指示を書いて依央さんへ向ける。

(まずはコレ、『事情の説明(申し訳なさそうに)』だ!)

 こっちを見て内容を確認した依央さんはサッと赤面から立ち直り、沈痛な面持ちで深々と頭を下げた。

「この度はお集まりいただきありがとうございます。しかしながら本日出演予定の水流添ニーナ、は諸事情でこの会場に到着しておりません――」

 不祥事企業の謝罪会見のようになってしまった。「申し訳なさそうに」と書いたらこうなるなんて、つくづく依央さんを操縦するのは難しい。未与子さんに感心するばかりだ。

(これはダメかもしれない……)

 そう思ったとき。

「えー、なんでー?」

 客席から声が上がった。さっきニーナのイベント映像を見せてくれた部隊長だ。

 野次で妨害する気かと思ったら、そうじゃないらしい。質問してくれたことで他の観客も返答を聞こうという態度にまとまっていく。

「えっと……それがですね、なんか寝坊? してしまったみたいで。今急いでスタッフが迎えに行ってますからすぐに来ると思うんですけど」

 キョドキョドしながら答える依央さんに笑いが起こった。

 これは本来そこにいるはずの、ニーナのキャラも影響しているんだろう。完成度の高さを売りにしない兼業アイドルのゆるさが「しょうがないなあ」という温かい反応を呼んでいる。

(厳しくしてれば遅刻しなかったのかもしれないけど……。とにかく悪い雰囲気じゃないぞ。もう曲いっちゃおう!)

 舞台袖でこっちの様子を見ているシンイチさんに合図を送り、依央さんにもスケッチブックで指示を見せる。

(簡単に挨拶して歌スタート!)

 目が合って強く頷き合う。

「一生懸命歌うから、どうか私のコト、好きになってください!」

 依央さんは明らかに、僕へ向けて言った。こっちまで赤面しそうになる。


 そこからはもう、凄かった。笑顔で歌って、振り付けも完璧にこなしている。

(一回見ただけで……コレかよ!)

 踊りとしてはそれほど難易度が高くないとは言っても、普通なら通しで動きを憶えるだけでも苦労するはずだ。散々ニーナの練習に付き合ったからよくわかる。こんなこと普通はできない。

(……ニーナが見たら、ふて腐れるだろうなあ……)

 そして依央さんについて新しいことがわかった。

 彼女は見たままを記憶してその通り再現しているわけじゃない。なぜそう言えるかというと、ニーナよりも上手だからだ。

 依央さんが手本にした映像はなにしろニーナがデビューした時のものなので、今よりずっと拙い。そのままを演じるならステップはもっとバタついて、全体の動きも小さくなるはずだった。なのにキビキビとして声もよく出ている。

 ふと、弁当販売のことを思い出した。接客を任せたとき、依央さんはまず弁当と小銭入れを動かしていた。そうするように未与子さんに言われたから? 多分違う。自分で取り回しやすい位置に置き換えていたんだと思う。

(歌詞がわからなくても『母音だけ押さえておけば』って言ってたな……。台本だって一字一句従ってたわけじゃない……。なんだ依央さんって、充分アドリブやってたんだ)

 全体がそれらしくなるよう装った、自分に合わせた最適化。その特殊能力じみた才能も目の前の光景を見ていたら納得するしかない。

 ニーナならポーズを決めるごとに「できた!」と集中が乱れがちなところで依央さんはもう足先を次へ向けている。ニーナには弾み続けるようなリズムの良さがあって、依央さんには急停止と急発進を滑らかに切り替える躍動感とスリルがある。

 パッと見では同じ動きでありつつもまったく違うよくできた別物に、ファンたちも戸惑っているようだった。

「なにコレ仕込み?」

「さっき見て憶えたらしい」

「それはありえないでしょ」

「無名の人間を出す理由って何かある? 運営のテンパり具合見たろ」

「さっき『好きになって』って言ったのは『ファンになって』って意味じゃ? 新人だろ」

「名前も言ってないんだ。そんなプロモーションある?」

「でも……すげぇ……」

 動揺が興奮に変わっていくのがわかる。

(もうひと押し――)

 曲に合わせて手を叩くと、すぐにそれ以上の音が後ろから迫ってかき消された。声と手拍子で直接殴られているかのような圧を背中に感じる。「応援とはこうするのだ」と言われた気がした。

(届いた! でも油断はできない。カラっと揚がるまで温度を保たなくちゃ! 依央さんの手本がニーナなら、僕の手本はコイツらだ!)

 強い手応えについ握り込んだスケッチブックを放り出して、全力で手を打ち鳴らし声を張り上げる。

 すかさず依央さんがマイクを会場に向けた。この部分は、ニーナが歌詞を忘れてしまったせいで商店街のおっさん連中が呼びかけて助けたパートだ。

 客は完璧に応える。見事な即興のコール&レスポンス。なんだか感動してしまって泣きそうになった。ファンたちの手振りに合わせられない。

 ステージと客席からの声と音に挟まれて呆然と立ち尽くす。見上げる依央さんが爪先で床を突いて、音楽は鳴り止む。

 わっと声が上がり拍手が続く。急場凌ぎに望まれた以上の、控えめに言っても大成功だ。

 静かになっても、胸を上下させて恍惚とする依央さんから目が離せない。

(この人……カッコいいなあ……)

 顔を真っ赤にして、パニックになって、目が左右に行ったり来たりする人物と同一とはとても思えない。「こうすればいい」と示してあげたらどんなこともできる、どうしたらいいかわからなくてどうしようもない人。

 見惚れていたら商店街の組合長が舞台へ上がって来たことで自分の仕事を思い出した。次の指示を出さなくちゃいけない。

(相槌を打つだけでいいから、話を合わせて)

 まず組合長から急に代役を振られたことを労われ、歓迎してくれた観客へ一緒に一礼。依央さんは「ハイ」と頷くだけだけれど、緊張しているせいだと思われているらしい。

「ではここで、ナコアさんからのゲストを紹介します」

 ナコアのマスコットであるたこのタコアくんが乗り込んできた。デフォルメならではの見ようによっては不気味な焦点の合ってない目が依央さんの方を向いたとき、妙な間が生まれた。多くのマスコット同様喋らないはずのタコアくんの中から「マジかよ」と聞こえた気がした。

(……なんだ? ここでのアドリブはムリだぞ! しっかり仕事してくれ!)

 祈る気持ちで見守っていると、やがてタコアくんはおどけてクルクル回りどういう仕組みになっているかわからない足がピコピコ動いた。

 ザワつきを聞いて振り返れば、いつの間にか客席にはニーナのファンや商店街メンバーの他にも大勢の人が集まりつつあった。

 歌のコーナーが盛り上がったおかげだ。ナコアのスタッフバッジを付けたスーツ姿が驚き顔でステージを見つめていることが誇らしい。

(フフフ、商店街の力を思い知ったか! メインは部外者だけど!)

 よそ見をしている間に、ステージでは次のコーナーの準備が進んでいる。座らされた依央さんの前には長机、その前にいくつも皿が並ぶ。

「……あ、やっべ」

 依央さんはニーナの代役で、ニーナは大食い系アイドルだ。

「続いては『対決! ナコア対商店街食べ比べ』のコーナーです!」

「ちょっとォ! おかずの大鍋が呼ばれてないんですけどォ?」

 個人的な不満を言っている場合じゃない。依央さんの笑顔が限界に引きつっている。泳ぐ目がどこを向いても端から端まで食べ物の海だ。

 喫茶店でしっかり食べてからあまり時間が経っていない。仮に空腹だったとしてもとても入りきらない数が並んでいる。ここでニーナが食べている映像を見せれば役者根性を発揮して食べ尽くしてくれる、というようなことも望めない。依央さんは少食だ。だからこそ女子生徒向けの弁当開発でボリュームの縮小にこだわった。

「わ、わぁ~……おしいそーですねー」

 涙なくしては見ていられない虚勢で依央さんがクレープを手に取る。「甘い物は別腹」でそれを食べ切ったとしても、そのあとに別腹でないものが大量に控えているので無意味だ。

(うーん、あとでなんて言って謝ろう)

 うちの主力商品は単品販売のコロッケだったりするのだけれど、この流れで食べ物をお詫びで出すのはあんまりな気がする。

 誠意の見せ方が定まらないうちに、依央さんの口が開く。しかし、クレープは依央さんの口に収まらなかった。

 横から滑り込んできたニーナが首を突っ込み、口に咥えてクレープをかっさらってステージ中央で跳ねる。

「ん~、おいっし~!」

 見事な満点の笑顔に客席のファンが喜んで声を上げる。色違いの衣装を着た、彼らが待ち望んだご本人の登場だ。よっぽど急いでいたらしく出て来たばかりで大汗をかいている。

「遅れてごめんなさい! ハイ、寝坊しました!」

 すぐさま頭が下がる。ナコアのスタッフがいる前で失態を明かすハメになって悔しい。

(ステージのキャストが変更されてるんだから、秘密にはできないもんなあ)

 苦笑いしながらナコアスタッフに目をやれば、ステージ上をじっと見つめていて特に咎めるような表情は窺えなかった。あとで注意はされるだろう。今はステージを続けさせてもらえるならそれでいい。

「さぁなんでも食べちゃうよー。ちょっと個人的にヤケ食いしたい気分だから――お前から食べてやろうかぁー!」

 ニーナは反省の態度を引っ込めて、普段以上にはしゃいでタコアくんに絡み始めた。失態を取り返そうとしているのだろうけれど、一瞬だけなにか言いたげにこっちを見るのはやめてほしかった。「遅刻してゴメン」というような類とは違う切なさを感じた。

(とにかくこれで僕の出番は終わりだ。ああ、ホッとした)

 イベント慣れしているニーナに指示はいらない。スケッチブックを置いて屈んだ姿勢のまま退散しようとすると、おかしなことに気が付いた。

 僕よりも早くその場から逃げ出したいはずの依央さんがステージから動かない。うろたえた表情のまま、椅子を明け渡さずに座り続けている。

「副島さん、どうもありがとうね。あなたがいてくれて助かったよ」

 ニーナが声をかける。なにかしら返事を受け取って、退場を促す。そういうつもりだったはずなのに、やっぱり依央さんは動かない。

「副島……? やっぱり」

 後ろで誰かが呟く声が聞こえた。しかし振り返って構っている暇はなくなった。

「アタシのファンまで持っていくつもり?」

 ニーナの珍しい低音をマイクが拾って、スピーカーが響かせる。

(うっわ、怒ってる!)

 ムリもないことかもしれない。仕方なく務めた代役で、依央さんは立派にステージを盛り上げた。それは遅れて現れたニーナにしてみれば面白くはない光景だったことだろう。

 もう一度拾い上げたスケッチブックに「逃げろ」と書いて掲げる。でも依央さんは見てくれない。唇をすぼめて黙り、揺れる瞳で見つめ返している。

 不穏な空気が会場に伝わっていく。ニーナが気付いたようでくるんと回って笑った。

「おおっとー? ピンチヒッターがまだ帰りたくないってさ! これはもうどっちが本物のアイドルか、対決して証明するしかないよねー?」

 呼びかけた客席から歓声が上がる。ファンが喜んでいる。対照的に同じステージにいる組合長の顔面は蒼白になった。スケジュールがガタガタだ。

(ひぃっ! 頼むから余計なこと言うなって!)

 この会場はニーナにとってのホームで、対決がどんな内容であっても場繋ぎの依央さんにとって楽しいことにはならない。

 なのに、依央さんは椅子から立ち上がってファイティングポーズを取った。

「ま、負けませんから!」

 殴り合いをするつもりだろうか。それにしてはものすごい腰が引けている。ボクサーの動画をマネたことはないらしい。

「アイドルの一面を足せたら私は自分ひとりで1.0に近づくんです! その為には、0.5以上のあなたに勝たないと!」

 なんてことだろう。理論が完璧過ぎる。「ニーナが0.5以上」という点を除けばどこにも隙が無い。

 これに対してニーナはどう反応するか。

「アンタみたいなポッと出がしれっと横からかっさらおうだなんて、やっぱりアタシは認めない!」

 目を細めて吐き捨てるような口調。いくらキャラを作らないキャラとは言ってもアイドルがしてはいけない顔だ。

(それって代役のことを言ってるんだよね? そうだよね?)

 ステージ上の火花を放置すれば取り返しがつかない炎上を起こしそうだ。そうなる前に、強引にでも依央さんを引きずり下ろしてしまったほうがいい。

 急いで舞台裏へ回り、仮設のテントへカーテンの隙間から潜り込む。中では見慣れた商店街メンバーが右往左往していた。シンイチさんもいる。

「ちょっとあの子どうなってんの?」

「ハイハイ、すいません! すぐ下げますんで!」

 舞台へ登る階段は目の前にある。しかしなんのキッカケもなく飛び出していくのはためらわれた。ナコアスタッフが見ているので極力穏便に済ませたい。それが出し物の一環であるかのように。

(指示さえできれば依央さんは言うコト聞いてくれるのに……オーイ! こっち見ろー!)

 渾身の念を背中へ送る。依央さんは振り向かない。膝も手もガタガタと揺れて、これ以上のアドリブはもう本人も限界なはずなのに。

(……どうして依央さんは、僕にはこういう感じで接してくれないんだろう)

 心の中でずっと感じていたかもしれない想いが浮き上がって、胸が締め付けられた。

 依央さんが台本を欲しがるのは僕の恋人でいたいから、好印象だけを持たれたいから。その動機は普段学校で優等生として過ごす動機と変わらない。

(僕は本当に、依央さんにとって特別な存在なのかな……)

 今だってムチャ振りに応えてアイドルをやってくれた。でもそれは、例えばシンイチさんに頼まれてもやっていたんじゃないだろうか。僕への献身は他人から良く思われたいという欲求の域を超えていないんじゃないだろうか。

 考えが深みにはまって、階段を登って依央さんを迎えに行けない。

 ステージは盛り上がって、観客から声が上がった。

「負けるなー、ニセモノー!」

 それは多分、好意的な声援だったんだと思う。依央さんの名前を知らないからそう呼んだだけ。それにニーナのファンにとってはニセモノで間違ってはいない

「ちょっとー! みんなはアタシのファンじゃないのー?」

 ニーナは知らずに笑っているけれど、僕にはわかった。依央さんが今どれほど強いショックを受けているか。だらんと下がった両手に気力が感じられない。緊張さえ。

「依央さん!」

 呼び声がステージの音にかき消されずに届いたのか、それとも単に耐えられなくなったからか、依央さんが振り向いてこっちへ駆け出した。階段を踏まずに飛び込んできたのを全身で受け止める。

 触れ合いに照れている場合じゃない。依央さんは泣いている。

「私、ニセモノ? なのかなぁ……心当たりがいっぱいあって、辛いよ……」

 言葉に詰まった。彼女をずっと外の人扱いしてきた僕にも同じ罪がある。

(泣かせてるのは……僕だ)

 0.5だとかそんなことすべて忘れて、ここで依央さんを抱き締めて、彼女のことだけを考えていけばきっとハッピーエンドにも辿り着ける。

 でもそれはイビツだ。なぜなら依央さんは台本を捨てられない。依央さんと未与子さんの0.5ずつを合わせて僕の恋人。互いにそう望んだから僕たちの関係は成立していた。「ありのままの君も台本アリの君も愛してるよ!」なんてどんなに大きな声で叫んでも、未与子さんが絡んでいる事実は消せない。

「梵士くんの前でだけは、本物でいたいよ……」

 胸に縋りついて泣きじゃくる依央さんに何もしてあげられないまま、時間が過ぎる。


 いつの間にか、商店街メンバーは気を遣って外に出てくれていた。ステージから本来の進行に戻った賑わいが聞こえてくる。

「あの……依央さんのステージ、すごかったよ。ちゃんとアイドルしてた。本物だったよ」

 卑怯者の口でもゆるされることを選んで話す。

「……本当に?」

「ホントホント! そりゃ依央さんが何でもできるのは知ってたけど、あんなに踊れるなんて思わなかった。お客さんともやり取りできてたし、想像以上だったよ」

 僕は依央さんにメロメロになると言った。約束は守らなくちゃいけない。

「なら、よかったぁ……。梵士くんすっごい見てくれてたもんね。エヘヘ」

 とにかく依央さんは泣き止んで、顔を上げて笑顔を見せてくれた。

 これで恋人としての役割を果たしたことになるだろうか。そう思ったばかりなのに、依央さんの表情はすぐに強張った。

「じゃあなんで……そんなに悲しそうなの?」

「それは――」

 今の僕が本音を隠したニセモノだから。そんなこと言えない。どう返事をするべきか、依央さんを傷つけない言葉が欲しい。

 迷ったまま見つめ合っていると、自分を見る視線がもうひとつあることに気が付いた。

 ステージに上がる階段に腰かけてニーナが半目でこっちを見ている。

「アタシの楽屋でイチャつくのやめてくんないかな。ものすごい傷つく」

 言いながら片手の串焼きにかぶり付く。元気がない風には見えない。

「うおっとぉ、お疲れ様! そっちもいつも通り良いステージだったよ!」

「あのねえ、初めて見に来といてそういうコト平気で言う? それにボンジーが副島さんの応援やってるトコ、アタシ見てたからね?」

「遅刻しといてなんだその余裕は」

「それでもテンション上げてひと仕事終わらせたらコレですよ。ちょっと休憩したらまたすぐ出番なのにコレですよ」

 ニーナがいると知って慌てて離れたはずだったのに、依央さんが僕に合わせて動いたからまだ密着は続いている。ただしニーナの方を向いて、庇うようにしている。

「梵士くん気を付けて! この人は梵士くんを狙っています!」

「狙うってそんな」

「ハイ、狙っています」

「うぉぉい! なんてこと言い出すんだ!」

 一体なにを考えているのか。ニーナは素知らぬ顔で用意されていたペットボトルに口を付けた。

「とりあえず今は仕事しなくちゃいけないから。……ボンジー、汗!」

「あ、ハイ」

 タオルを取ってニーナに近づき手足の汗を拭いていく。練習中に何度も繰り返し身に付いた習慣が自然と出てしまった。悲しい顔で依央さんに見られている。

「……梵士くん……?」

「あっ、いや違うんだこれは! 元々商店街のアイドル企画は僕に持ってこられた話で、それをニーナに押し付けたようなもんだから引け目があってですね!」

「マネージャーみたいなもんだよね? スケジュール知らないし現場には来ないけど」

「それ全然マネージャーじゃないだろ」

「あ、副島さん。今日はどうもありがとうございましたー。……お疲れ様」

 ここで「私も汗かいてるんですけど!」と言い出してくれたら嬉しいのだけれど、依央さんは僕にワガママを言わない。困らせないよう傷つけないよう立ち回る、他の誰かに対してと変わらない優等生の配慮をする。

 でも、実際の反応はそれ以上だった。

「あっ、そうですね! 私はすぐにここを離れなければ!」

 配慮遠慮を飛び越して、逃げるなんてまさかとも思わなかった。声をかける暇もなくフリフリのアイドル衣装のまま外へ飛び出していく。

 けれど、それは未遂に終わった。

 外から入ってこようとした誰かと激突して、鼻を押さえた依央さんは「ぎゃっ」と悲鳴を上げ後ずさる。

「た、直ちにおいとまいまいま!」

 今度は逆側へ備品をかき分けて外に出て行こうとして、幕がぴっちり固定されていてそれもできなかった。なんだかよくわからないけれど、依央さんがいつものアドリブ状態以上に混乱している。

「すいません。ここ楽屋なんで、関係者以外の方はちょっと」

 僕は商店街関係者なのだからいいのだと自分に言い聞かせ、中へ踏み入って来た男の前に立ちはだかった。生真面目そうなスーツの男。どこかで見た顔だ。依央さんに近づこうとしているから見過ごせない。

(さてはステージを見て早くも依央さんの虜か。さすがだ僕の依央さん!)

 でも、そうじゃないとすぐにわかった。なにしろ目の前でナコアのスタッフバッジが揺れている。見覚えがあるのは当然だった。

「わ、なんだ。バリバリの関係者でしたか。失礼しました」

 胸の内で心臓よりも熱く燃える「ナコアこの野郎」の精神を今はグッと堪え、愛想よく言って離れる。すると早速横へ押し退けられた。関心はずっと依央さんに向かっている。

「なにをしているんですか、依央お嬢様」

 呼びかけられた依央さんは背中を向けたまま石化したかのように固まった。

「……お嬢様?」

 あまり聞き慣れない呼び方だ。でもそんなに遠くは感じない。

「なるほど、依央さんも未与子さんと同じで良いとこの子なんだね」

 台本を欲しがった理由がそれだ。

「お金持ちの事情はまったくわからないけど、親の期待が実際にあってもなくてもプレッシャーを感じて自分を追い詰めてしまうのはわかる。と言うよりも、身に覚えがある」

「あ、当たってます……」

 石化を解いた依央さんが呟くのを聞いて、続ける。

「それと、お姉さんがいるんだね? そうじゃなきゃ『依央お嬢様』とは呼ばれないもんね。兄弟の多いところでは○○兄ちゃんと呼び分けたりするのと同じことで、お嬢様がひとりならそんな区別は要らないもんね。優秀なお姉さんなんだろうなあ。依央さんがコンプレックスを強くしてしまうくらい。でもその人をマネしなくて台本が必要だったのは性格が合わなかったからってことでいい?」

「ボンジーのそういうところ、最高に気持ち悪いと思う」

 ニーナの評価は気にしても傷つくだけなので聞かなかったことにして、依央さんを見るとこっくんこっくん頷いていた。昔ニーナが作った電子工作のロボットが炎上崩壊する前にこんな動きをしていたような気がして不吉だ。

 とにかく合っているらしい。依央さんはお金持ちの子で、優秀な姉の妹。

 それはいい。というか、それどころじゃない。もっと重要なことに気が付いてしまった。

「……お嬢様?」

 問題はそう呼んだのがナコアスタッフであるというところだ。

 視線が問いかけになって、ナコアスタッフは咳払いを挟んで説明してくれた。

「依央お嬢様のご両親は副島グループ幹部、ショッピングモール事業部の事業部長だ」

 つまり、ナコアの親分。


「「敵じゃねーか!」」


 僕とニーナの声が重なって、依央さんは「だから知られたくなかったのに」とその場に泣き崩れた。炎上せずに済んだだけよかったんだろうか。

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