第4話

 我が家――大鍋家は弁当販売店〝おかずの大鍋〟とくっ付いた、店舗と一体型の住宅となっている。両親が入院中の静かな居間で僕と未与子さんとニーナ、それと電話して来てもらった依央さんの4人でちゃぶ台を囲んでいる。

 事の次第を説明して僕が浮気をしていたわけじゃないと釈明する為だ。

 まず最初に両手を広げて依央さんと未与子さんを示し「ふたり合わせて僕の恋人です」と紹介したらニーナに頭をはたかれ、乗り込んできた木村さんにお引き取りいただくなど当初は難航したものの、なんとかすべてを話し終えた。

「なるほど……。ふたりが恋人っていうのはそういう意味ね……」

 ニーナは難しい顔で唸ってから唐突に立ち上がると、玄関の方へ行った。帰るのかと思ったらそうじゃない。

 聞こえてきたのはドアが開く音と「無罪!」という叫び。外から激しい舌打ちが聞こえたので、木村さんは〝晒され仲間〟ができなかったことを心底惜しんでいるらしかった。

 彼のことはどうでもいいとして、やっと気持ちが安らぐ。

「いやホント、お前がわかってくれてよかったよ。ちゃんと話を聞いてくれてありがとう」

 戻ってきたニーナは、どうしてか苦い顔をしていた。

「ようくわかった。要はボンジーが悪いってことね」

「そんなバカな」

 この一言に尽きるのに、ニーナは不満を露わに詰め寄ってくる。

「ボンジーって昔っからそうじゃん? ひとりで考えて自分を追い詰めて、ワケわかんない結論で暴走するの! 昼休みに弁当売ってるのだってそうだよ。別にあそこまでしなくてもいいのに」

 ちゃぶ台を挟んで未与子さんが頷いている。味方だと思っていたのにショックだ。

「アタシが昔『ヒーロー番組のヒーローは作りもの』って教えたら、お巡りさんに泣きついて悪の組織を逮捕するようお願いしたことあったよね。断られたらなんか修行始めたし」

「それはお前が悪の組織のほうも作りものだって教えてくれないから……」

 地球のピンチだ。なんとかしなければと思うじゃないか。

「保健体育の教科書借りてきて子供ができる仕組みを教えたら、しばらくおじさん(僕の父親)のこと『コウノトリ』って呼んでたし」

 恋人の前で僕の恥ずかしい過去が暴露されていく。

「キミの幼馴染、ロクなこと言わないわね……」

 幸い0.5は別のところへ注意が逸れているようでありがたかった。

 もう片方はずっとキョドキョドしているせいで感想は察せない。「ここが梵士くんのおうち……」とか言って緊張しているけれど、それどころじゃないことをわかってほしい。

 浮気の容疑は晴れたというのにニーナはまだまだ怒っていて、ほっぺたを引っ張られた。

「ボンジーと副島さんのこと知って、アタシ喜んだんだよ? 自分を追い込んでギスギスしてる時のボンジーにはアタシも近寄りたくないから、弁当売るの手伝わなかった。なのに彼女と一緒にやってるって聞いて、『あのボンジーと向き合えるなんて立派な彼女だ』って安心して、嬉しかった。……なのに実体はコレか!」

 大声に怯えた未与子さんがちゃぶ台から広告チラシをサッと取って頭に被せた。タオルケットが無いからそうしたのだろうけれど、憎き敵であるナコアのチラシは避けてほしい。

 そんな奇行は見過ごしてニーナは引き続き怒りで猛る。

「0.5ずつってなんなの? そんなの彼女じゃないじゃん! 無罪だと思ったのはボンジーの考えに納得したからじゃなくて、副島さんがちゃんとした恋人じゃなかったからだからね?」

 そもそも恋人がいないなら浮気は成立しない。そういう風に判断されたらしい。口を引っ張られているせいで異議を唱えられない。

 僕に代わっての反発は意外なところから起きた。依央さんだ。

「ちゃ、ちゃんとした恋人です! 台本があれば、立派な彼女になれるんですよぅ!」

 握り拳の主張に注目が集まる。すると「んふっ」と変な声を出して未与子さんのうしろに隠れてしまった。がんばったほうだと思う。

 これにはニーナも戸惑ったようだ。

「うわぁ……ホント、学校で知ってる副島さんと全然違う……。誰? って感じ」

 驚きで力が緩んだので指を顔から引き剥がす。説得するチャンスだ。

「なっ? つまりこの人は〝外の人〟であって、僕の恋人とは別人なのだ」

「その理屈は全然わかんない」

「そんなバカな」

 未だに誰の共感も得られないことが不思議で辛い。

 ただ、恋人同士のことなので当事者さえ納得しているならそれでいいはずだ。ニーナは部外者に過ぎない。

「別にいいだろ。未与子さんとのデートは依央さんの発案なんだし、それで台本が書かれたら僕も助かるんだよ」

 完璧な論理のはずなのに、ニーナは猛然と食ってかかってくる。

「なんでそうなんの! 彼女がふたりだったんなら、どっちか選べばいいじゃん? また変なこと考えて話をややこしくして!」

「やめろって、ウヒ、くすぐったいって」

 意味もなく脇をつままれて、マジメな場面なのに笑いが出てしまう。

 その様子を、ちゃぶ台の向こうからふたりにじっと見られていた。二人揃って口が開き、不安と疑問が混じった表情をしている。

「未与ねえさん! 未与ねえさん!」

 依央さんに揺さぶられ、未与子さんが遠慮がちに手を挙げる。

「その、キミの幼馴染? ……なんなの?」

 ニーナを見つめる不審の目。自分を責める立場で現れた相手に、未与子さんが勇気を振り絞って立ち向かおうとしているのは顔つきからわかった。脂汗が浮いている。

「は? ……『なんなの』ってなに?」

 決死の覚悟で臨まれても質問の意図は伝わっていない。

「幼馴染、例の困る幼馴染ですよぅ! 親の見舞いを代理でこなすは幼馴染! 窓から起こすヤーツ!」

「それは聞いてたけど……。なるほど、手強そうね……」

「いやだから、マジにそんなんじゃないってば。家は隣じゃないから窓からとかはないし」

 女3人の会話はよくわからない。

 でも、ひとつ思い当った。

「そっか。まだちゃんと自己紹介させてなかったっけ」

 依央さんと未与子さんは合わせてひとりの僕の恋人、ニーナは幼馴染。というだけしか話していない。とにかく容疑を晴らすことに気が行っていた。

 未与子さんのほうは初対面なので話をするうえで名前くらいは気になるだろう。

「自己紹介って、フツーに? それとも営業?」

「じゃあ、折角だから営業」

 依央さんと未与子さんにはわからないやりとりをすると、ニーナは立ち上がってクルンと一回転してポーズを決めた。

「こんにちは! 朝霧町商店街ご当地アイドル、水流添ニーナです! 今日は楽しんでいってね!」

 普段の粗い素行を感じさせないアイドルスマイルを前に、ふたりがポカンと呆ける。期待通りの反応で楽しい。

「コイツ、同じ商店街のクリーニング屋の娘なんだけど、商店街の企画でアイドルやってるんだよ。町内のイベントには大体絡んでるけど、ふたりはまあ、知らないよね」

 依央さんはアドリブが要求されやすい外出は避けるはずだ。未与子さんに関しては言うまでもない。だって引きこもりだ。

 理解したのかどうなのか、ふたりは抱き締め合って震え始めた。

「幼馴染で! アイドル! 未与ねえさん、私、寒い!」

「ええ、わかるわ。対極で絶対わかり合えないタイプだもの。ものすごい温度差だわ!」

 僕はこのふたりの奇行は初めてじゃないから驚かないけれど、ニーナはアイドルスマイルを崩して露骨な仏頂面になった。

「……ボンジーとは5才くらいからおトモダチやってまーす」

 テンションの落差がものすごい。

 これに依央さんが食いついた。

「今! 自慢げでしたよ! 聞きましたか梵士くん!」

 こっちはハイテンションと言うよりパニックで、何に左右されているのかさえわからない。どうしたの急に。

「なんで僕と友達なのが自慢になるのさ」

 心底の疑問を口にしたら、ニーナがうんざりした様子で大げさなため息をついた。

「あのさあ……これ言っとかないと話が進まないから教えるけど、ボンジーは嫉妬されてるんだよ。自分よりアタシのほうがボンジーと付き合い長いから、心配になってんの」

 本当だろうか。依央さんを見ると、激しく何度も頷く。

「私、嫉妬しています。醜い感情が私の中に! すごく嫌です!」

 ここで僕としては「外の人にそんなこと言われても」と鼻をほじって聞き流す場面なのだけれど、正直満更でもない。というかハッキリ言って嬉しい。こんなにも僕のことを重要視してくれるだなんて。

(いや、断固やるべきなんだ……! でなければ辻褄を合わせられない! でもしかし!)

 指を鼻に突っ込むか迷っている間に、隣のニーナがヒートアップした。

「だからあ! アタシとボンジーはそういうんじゃないんだって!」

 強弁が奮われたことで鼻と指問題は立ち消えした。この流れに乗る。

「そうだよそうだよ。さっきも自己紹介でポーズ決めたときパンツ見えたけど、なんとも思わなかったし」

「ゲ、マジに? 今見せていい用のパンツじゃないんだけど」

「見せパンなら今うちの洗濯物と混ざって干してあるぞ」

「あ、そう。乾いてるなら持って帰るから」

 第二次性徴期以前からの付き合いならではの「お互いになんとも思ってないんだからね」トークをしていたら、依央さんがひきつけを起こしていた。

「0.5……0.5以上なのでは……?」

 震える手で揺すられた未与子さんが遠慮がちに手を挙げる。こっちはもう少し落ち着いている。

「あの、さ……。水流添さんはさ、彼のこと本当になんとも思ってないのよね?」

「〝彼〟って、ボンジーが、〝彼〟って!」

 ニーナに噴き出されて赤面する。未与子さんにそういうからかいはご法度だ。

「ニーナよぅ、お前は僕の恋人が相手じゃなきゃマトモに話もしないのか?」

 初対面の相手に、明らかに失礼だ。

「それにこの人、あの〝片木一族〟だぞ」

 未与子さんはあんまり言ってほしくないことかもしれないけれど、これはニーナにとって重要なことなので伝えておきたい。

「片木一族って言ったらスポンサーじゃん! いつもご支援ありがとうございます……ってなに媚びてんのアタシ!」

 一瞬笑顔に戻ったニーナが頭を抱えて苦悩する。

(それはお前が商売人だからだよ)

 笑顔の種類もアイドルスマイルじゃなくて営業スマイルだった。その違いは家業とアイドル両方の練習に付き合わされた僕にしかわからないだろうけれど。

「アタシ、アイドルはやらされてるだけだから別にスポンサーのご機嫌損ねたっていいんだけど……質問には答えます。アタシ、水流添ニーナは大鍋梵士のことを友達以上には思ってません」

 背筋を伸ばして宣誓でもするような調子の返答。これには僕も満足&共感なのだけれど、未与子さんの表情から疑いは消えなかった。

「それにしてはさ……近くない?」

 力なく指差す僕とニーナの間にある隙間。それはほとんどない。隣合って座り、時々あぐらをかいた膝にニーナが乗り上げるようにして肩を寄せてくるからだ。

「あー……昔からこんな感じだから特に気にしなかったけど、確かに近いね。そりゃ彼女の前だったら気を遣って離れるけどさ、ふたりとも彼女じゃないじゃん? 文句言われる筋合いはないんですケド」

 挑発的な物言いが気に障る。ニーナを突き放した。

「いい加減にしろ。マトモに話をする気がないならもう帰れよ。そもそもお前、僕たちのことに関係ないじゃないか」

「関係ある。幼馴染には恋愛を見守る義務があるんだから」

 ムチャクチャを言い出した。途端に依央さんがうろたえて、未与子さんは「ホラ出た」と顔をしかめる。

 ニーナは聞き流さない。

「『出た』ってどういう意味? 説明して。ボンジーが言う通り、マトモに話をしようよ」

 それは未与子さんには酷な話だ。こうも目の前で睨みつけられていたら怖がって話なんてできるはずがない。

 助け舟を出そうとしたら、未与子さんは下を向いてスマホをいじり始めた。猛烈なスピードでなにかを打ち込む、その目的が、僕にはわかる。

 予想通り、着信音が鳴ったのは依央さんのスマホだった。となれば送られたメッセージは台本。依央さんが見つめる画面をスライドさせ「入った」の一言のあと、その表情には自信が漲ってニーナと向き合う。

「水流添さんは梵士くんのことを意識してないと言いますけど、それは本当なのかな」

 ニーナは同級生の豹変に戸惑いながらも、軽薄に手を振って答える。

「ないない。ボンジーに彼女ができたら構ってもらえなくなるだろうから、『寂しいな』ってちょっと思うくらい」

「うん。『一番近い関係を取られたくない』っていう気持ちはあるんですよね?」

「あー……それはあるかも」

 依央さんが受け取ったメッセージは一度きりで、つまりニーナの反応は未与子さんの予想を出ていないことになる。この流れは既に台本の内だ。

(端から見てると、改めて凄いなあ)

 未与子さんが幾つものパターンを用意するスピードはもちろん、すぐに暗記して再現してしまえる依央さんも凄い。

 最前列で演劇を見ているつもりで行く末を眺める。

「幼馴染なら、小さい頃に『結婚の約束』とかしませんでしたか?」

「あっ! やったねえボンジー。懐かしいねえ」

 ニコニコ笑って話しかけられたので「おう」とだけ返事をしておいた。そんなことがあったか、さっぱり憶えていない。

 依央さんはニッコリ頷く。やっぱり台本からはみ出さなかったようだ。

「うん。つまり小さい頃から異性だとわかっててそういう約束をしたのに、どうして今は『意識してない』なんて言えるのかな?」

「そう言われると……。うーん」

 ニーナはマジメに考え込み始めて、それを見る依央さんの顔色がサッと青くなった。自信が抜け落ちたアドリブ状態だ。

「あ、あのっ、未与ねえさん? これって追及しないほうがよかったのでは? 私、こういうの困るんですけど!」

 未与子さんに縋りついて泣き始める。一方、未与子さんはひと仕事終えた満足感に浸っている様子だ。

「フッフフ、化けの皮を剥がしてやったわ。友達面して『安全です』みたいなこと言ってたって、正体はこんなもんよ」

「論破したいのではなく! 確かめて不安を晴らしたかったんですよぅ!」

「ボンジーが結婚相手か……悪くないかも。昔から知ってて信用できるし、気は合うし」

「ホラあんなこと言ってる! 梵士くん危ない! 危なすぎる!」

 横手から捕まってニーナから遠ざけられた。危ないことは何も起きていないのに、依央さんはすっかり涙目でパニックになっている。

「こんな人がライバルになったら勝てませんもん! 今だって半分なのにこれ以上3分割になったりしたら、もう割り切れないよぅ!」

「そうなったら残りの0.1をどこに求めたらいいかわからなくなるから、僕も困るな。……いやそんな心配しなくても僕とニーナがどうにかなるなんてありえないよ。フフ」

 くっついた依央さんの体が柔らかくて、とっても気持ちが良い。どんどん心が穏やかになっていく。

 しかしそんな安らぎに浸っている場合じゃなかった。ニーナにじっと見つめられている。鼻の下が伸びているところを旧知の仲に目撃されるというのは非常に恥ずかしい。

「……なんだよ。お前だって本気で嫉妬するわけじゃないだろ?」

「ねえボンジー、アタシお腹空いた。なんか食べさせて」

 なんて自由な奴だ。

(いや、さては僕をここから追い出すことが目的か?)

 いくら住宅と店舗部分が繋がっているとはいえ、廊下を挟むのでよほどの大声を出さなければ会話は届かない。離れた所で食事の支度をしている間に依央さんと未与子さんと話をする。そういう考えがあったほうが突拍子もない発言に納得がいく。

(ニーナ、お前にそんな計算高い一面があったとは驚きだ……。でも残念だったな、うちが弁当屋だってことを忘れたか?)

 食べるものなら販売用の余りがある。毎晩の食事にしているそれを出せば混み入った話をするほど間は空かない。

「よし、いいぞ。待ってろ」

 企みを粉砕してやろうと、すぐ調理場へ移動して冷蔵棚を開く。すぐ取り出せる位置にあったトレイを数枚引き出し、皿へ移し替える。

 ところで弁当の大切なポイントとして「冷めてもおいしい」がある。お客様が弁当を食べるタイミングはどうしたって店側の自由にはできないので、そこには配慮が必要だ。その為に揚げ物であれば衣が固くならないよう工夫したり、千切りキャベツなんかだと水気でベチャベチャにならないよう軽く熱を加えておいたりする。冷えても大丈夫なようにだ。

 とはいえやっぱり温かいほうがおいしい。それに冷蔵棚で冷え過ぎている。なので、レンジに入れて数分待った。


 折角なので彩が欲しくなりキャベツとニンジンを刻んでいるときになって我に返った。

「なにやってんだ僕は! 見栄えを気にしているどころじゃないのに!」

 もう何分経っただろうか。

 慌ててとっくに止まっているレンジから皿を取り出し、サラダと合わせて少しだけ盛り付けを整えてから居間へと運んだ。

 そこにニーナはいなかった。

「あれ……アイツは?」

「ワンちゃんにお水あげてくるって」

 なにやらソワソワしていて、未与子さんもピン吉と遊びたそうだった。それにしても「ワンちゃん」とは。悪意を気にしなくていいので動物は好きなのかもしれない。

 そんなことはどうでもいい。

「なんだよ。ホントに腹減ってただけかよ……」

 脱力して、依央さんがチラシやらテレビのリモコンやらを脇へ避けてくれたちゃぶ台に皿を置く。

 そこへニーナが戻ってきた。

「お、エビフライあんじゃーん。ラッキー」

 気楽な顔つきでスキップしているのを見ると、こんな奴を警戒した自分がバカに思えた。

「うちの揚げ物ラインナップに隙はない。それより手を洗えよ」

 おしぼりを渡すと丁寧に手を拭って早速ひとつ摘まみ口に放り入れる。

 その瞬間、依央さんと未与子さんが息を吞んだのがわかった。

「んん~、おいし~♪」

 なにが起きたかと言えば、ニーナが飯を食っているだけである。ただしその笑顔はとんでもなく眩しい。食事をする幸福が満面に広がっている。

「すごいでしょ。こんなにうまそうに飯を食う奴、他にいないよ。こいつが店先にいるだけで通行人がどんどん釣られて繁盛するんだ」


 ニーナと初めて会ったのは小学校に上がる前、3才くらいの頃だったと思う。ある日の夕方、店の前でニーナを見つけた。

 うちは弁当販売だけじゃなくコロッケなど総菜も取り扱っていて、食べたそうに文字通りガラス棚にへばり付いているところだった。

 向こう側が透けるガラス棚なので注文が入ったり補充をすれば両親のどちらかが気付いたのだろうけれど、その日は多分あんまりお客が来なかったんだと思う。身長の低い幼児の姿は大人の視点からは見えなくて、同じ高さの僕にはそこに変なのがいるとわかった。

 僕は売れ残りそうなコロッケをひとつ貰ってまだ名前も知らないニーナに渡した。

 ニーナはその時にも今と同じリアクションをして通行人を誘い、結果次々注文が入ってその日はおかずの大鍋史上に残る大繁盛を記録した。

 そのうち両親がニーナに気が付いて、「あらクリーニング屋の子」となり無事家に送り届けられた。ニーナが勝手に外へ出ていたこと、僕が服屋だと思っていた店はクリーニング屋だったということはあとから知った。クリーニングというのが何かということを知ったのはもっとあとだったけれど。


「あれから商店街の食べ物屋はどこも店先に椅子を置くようになったんだよな。ニーナを餌付けして客を呼び込む目的で」

 そんなだからニーナが商店街アイドルをやっているのも正当な進化と言える。商店街全体の看板娘だ。

「なんかもうアイドルやってても大食いが売りみたいな扱いだしね。座ってればドシドシ食べ物持ってきてもらえるから嬉しいけど」

 とは言っても早食いはしない。放っておけばいつまでも延々と食べているタイプの大食いで、その食べっぷりは見ていて気持ちが良い。

「ハイハイハイ! 私だって同じことできます! 台本さえあれば!」

 唐突に依央さんが勢いよく手を挙げた。焦って見える。

「なに、アイドルやりたいの?」

「えっと、そうじゃなくって……梵士くんが褒めることは、私も!」

 照れながらの言葉にぐっと心臓を掴まれた。

(うわあ、カワイイこと言うなあ……。イカンイカン、依央さんは外の人だぞ)

 バランスを取るため中の人に注目しなければならない。

「そんなに食べてよく太らないわね。ああ、一部が太ってるのか。ケッ」

 未与子さんはやさぐれていた。

 改めて確認するまでもない家族同然な関係ではあまり話題にしたくない部分について言っているのだろうけれど、今はそれを気にしている場合じゃない。

 すごいことが起こっている。

 依央さんも同じところに気が付いてぎょっとした。

「未与ねえさん、それ……」

「なあに? おにぎりがどうかした……あれっ」

 遅れて、当人もわかったらしい。

 未与子さんはおにぎりを手に取っている、というか食べている。ほっぺたに米粒まで付けた完璧な食事中スタイルだ。

 他人の悪意が恐くて手作りを食べられない未与子さんが、僕の作ったものを食べてくれた。つい笑いがこぼれてしまう。

「……なにニヤニヤ笑ってんのよ。キミのことが恐くないんだから、キミが作った物だって食べられるに決まっているでしょう」

 プイっと他所を向いておにぎりの残りを口に放り込む。それを見て、僕の中の料理人としての側面が刺激された。

「未与子さん、食べたいものとかある? 僕なんでも作っちゃうんですけど」

「なにを急に張り切ってるの。そんなものないわ。ずっとゼリーとか栄養補助食品で満足だったんだから」

「いや満足は嘘でしょ」

「ボンジー、コロッケ」

「僕はコロッケではありません。でも今の僕はとっても機嫌が良いから作ってやろう。依央さんは――」

 意見を求めて振り向くと、逆に見つめ返されていた。しかも涙目。

「仲良くなってほしいとは思ってたけど、期待以上のことが起こっている予感がします! 未与ねえさんとの間に一体何が?」

「アタシが見つけたとき、暗がりで手を握り合ってたよ」

 ニーナが余計なことを言うので慌てた。

「違う、握り合ってない! 掴んで離してもらえなかったんだ!」

 弁明を聞いて依央さんが視線を振り、未与子さんは首を捻って目を逸らした。初めて見る素早い動きだ。

「なぜです未与ねえさん、どうして私の眼を見ないので?」

「……後ろめたいからよ」

「あっ、あっ! やっぱり! また新たな0.5以上がここに!」

「あのねえ、ずっと引きこもっていたのに急にこんな強い刺激を浴びたらこうなっちゃうに決まっているでしょう? 刷り込みみたいなものよ。私は悪くないわ!」

 つまり未与子さんは、そういうことらしい。

(なんだコレ……めっちゃ照れる)

 熱を持った顔におしぼりを押し付けて冷ましていると、ちゃぶ台に肘をついたニーナがジト目でこっちを見ていた。

「やっぱり木村さん呼んでこよっか?」

 カメラを撮るマネをされ、もう一度おしぼりで顔を隠した。

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