第3話

 外は日が落ち空が暗く、高層マンションの最上階廊下からは町の夜の姿が見渡せた。こんな時間に外を出歩いた経験がほとんどないのでドキドキする。隣にとんでもねえ美人がいるから尚更だった。

「依央さん、部屋に残してきてよかったんですか?」

「平気。合鍵持たせてあるから、好きな時に帰るわよ」

 ヒールを履いた未与子さんは僕よりも少しだけ顔の位置が高い。ただでさえ長い足が強調されて立っているだけでモデルみたいな雰囲気が出そうなところなのに、どことなく脱力感が漂っている。エレベーターの到着を待ち階数表示の点灯を目で追う様子は口が空いてしまっていてもう完全に間抜けだ。

 優等生で社交的、何事に置いても隙が無い副島依央とはまるで重ならない。そのせいで今一つモチベーションが上がらなかった。「依央さんとデートだ」という気持ちになれない。

(そりゃそうか。別人なんだもんな)

 このデートの目的は台本の用意という一点に絞られた。或いは未与子さんの社会復帰。

「それで、これからどうする? 何かプランはあるの?」

 聞かれて、首を振る。

「特にないです。明日明後日は絶対どこか出かけようと思ってはいるんですけど」

「しっかりしなさいよ。あの子はあんな感じだから『どこに行きたい?』って聞いても答えられないからね」

「あー、そっか。弱ったな」

「……なに? その気のない感じ」

 テンションの低さが気に障ったらしい。

 ただそれを言うなら未与子さんのやる気こそ不思議だ。デートの事前調査なんてやったことにしてしまえばいいのに、本当に出かけるつもりに見える。まさか僕と出かけたいはずがないのに。

「未与子さんはその、どうして協力してくれるのかなって気になるから」

「アンタに引きこもりと思われてるのは癪だから」

 聞いたことを後悔するようなしょうもない理由だった。

「あとはもちろん――依央の為だわ」

「……って言うと?」

 到着したエレベーターに乗り込み、続きを聞く。

「キミも今の状態が健全だとは思わないでしょ? 私が台本を与えたせいでこうなったのよ。そりゃ最初は気に入ってもらえて嬉しかったし、自分の書いたものがダイレクトに読者の人生を左右するなんて面白いと思ったわ。でも、間違っていたのよ」

 苦い顔で吐き捨てるように言う。

 その罪悪感には共感できなかった。依央さん自身が望んでいたことを他にどうすればよかったかなんて思いつかない。

(未与子さんが台本を書かなかったら付き合えなかったんだしなあ)

 返事に困っていると決意めいた独白が続いた。

「でも間違っているからって途中で投げ出すわけにはいかない。あの子が自分で生きられるようになるまで付き合うわ。その為ならキミとデートだってしてやるのよ」

 遠回しに卑下されたとわかっても気にならない。関心は話の意図とは別のところに移っている。

(未与子さんって……)

 もっと聞きたいと促すまでもなく、未与子さんの弁に熱がこもっていく。

「所詮リハーサルだから立ち位置確認するだけの代役だなんて気は抜かないわ。やるからには真剣よ。だからキミも私のことを依央だと思って接すること。いいわね?」

 話を聞き終え、出た結論に納得する。

(良い人だなあ……。しかもマジメだ)

 その二つはみんな大好き副島さんに不可欠な要素。どんなに間が抜けて見えても、彼女は確かに中の人なのだ。

 そう思うと姿がボンヤリ重なって見えてきた。

「……なにニヤニヤしてるの? 気持ち悪っ」

「0.5の愛情を確認しておりました」

「いやホントに気持ち悪いわよ」

 舌を出して吐く真似をしながら、止まったエレベーターを出て先を歩く。

 真剣にリハーサルをするとは言ってもみんな大好き副島さんになり切るつもりはないらしく、物言いは相変わらず冷たい。依央さんのように豹変されるといよいよ混乱しそうなのでこのほうがいいかもしれない。

「まあとにかくデートだ! 依央さんはどういう遊びが好きかな?」

「ねえ……それってさあ」

 何気なく聞いたら、振り向いての返答に凍り付かされた。

「その質問、誰のコトを聞いているの?」

 高揚していたところから、急転直下で地獄の底へと気持ちが沈む。

「僕は……誰を喜ばせたいんだ?」

 僕の恋人はフィクションである。依央さんは〝外の人〟で未与子さんが〝中の人〟だから、好みなどの精神面は未与子さんを参考にすべきだろうけれど、そうなると依央さんを無視することになってしまう。

「0.5ずつ均等に愛さなくちゃいけないんだから、片方の希望だけ叶えるなんてあってはいけない! しっかりと未与子さんの心を喜ばせて、依央さんも――依央さんも、ハァっ!? 外見を喜ばせるってなにをすればいいんだ。……エステか?」

 ここへ来て根本的な問題にぶつかってしまった。

 この混乱に乗じて、未与子さんが攻めかかって来た。

「交互に相手にすればいいじゃない。どうせリハーサルのあと本番があるんだし」

「バカな! それじゃまるで二股でしょう? 僕はふたりを同時に愛しているわけじゃない。半分ずつ愛してるんだ!」

「愛されたいわけじゃないけど死ぬほどイラつくわね」

「あっ、先に行かないでください! ここは僕がリードしたい場面なんで!」

 依央さんのために僕がなにをしてあげられるか。答えが出ないままデートが始まった。



 デートの行先は「静かな所がいい」という未与子さんの引きこもりらしいリクエストを採用して悲しくも商店街を選ぶことになった。そろそろ帰宅ラッシュの時間帯に差し掛かるものの、素通りする人ばかりなのでうるさくはならない。

「気に入らない台本は容赦なくリテイク出されるから、ちゃんとやるわよ」

「もしかしなくても依央さんって結構ワガママですか。自分の都合で未与子さんを5年も付き合わせてるくらいだし」

「そりゃあもう酷いわよ。私が泣いて『もう書けない』って言っても全然やめさせてくれないからね。今回だって相当ムリがあるでしょう? キミが断っていればそこで終わりだったのに」

「台本が必要っていう点では、僕と依央さんの意見は一致してますからねえ」

 二人並んで歩いているだけでデートらしい感じはしない。緊張せずにいられるのはそのせいというより未与子さんの性格のおかげだった。通りすがる誰もが目を奪われる美貌は取っ付きにくいくらいなのに、当人は案外抜けているので話しやすい。

 未与子さん自身も緊張はないようだった。屋外にもっと拒否反応を示すかと思いきや、相変わらず平然としている。

「さあ、これからどうするつもり?」

 もう充分に夜と言って差し支えない時間だ。今からどこかへ出かけるプランなんて思いつかないし、そうでなくてもこの町で遊ぶ場所なんて限られている。

「ナコアに行くのは絶対に嫌だしなあ……」

「キミ、今日倒れたんでしょう? だったら体を大事にしなさいよ。依央としていたデートの続きでいいんじゃない?」

 提案を受けて思い出す。依央さんとの続き。

「え、いいんですか?」

 だって依央さんとは、キスをしようとしていたから。

 瞳を覗き込んで意思を窺っていると、未与子さんも思い当ったらしくハッとした。なにしろ台本を送ったのは彼女だ。

「なにを考えてるのよスケベ!」

 即座に平手が飛んできて頬に痛みが走る。痛い。「体を大事に」と言ったばかりなのに。

「心配しなくても0.5のキスなんてどうしたらいいかわかんないから、しませんよ。でも膝枕なら片足だけ貸してもらえたらいいかと」

「アンタのそのルール、信用していいのかどうかわからないわ」

 再び歩き出すと、ふと喫茶店が目に入った。サラリーマンの休憩所やオシャレさんの集会場になるような近頃のカフェスタンドではなく、昔ながらの喫茶店という趣のある店だ。ヒゲの店主とレコードのジャズ音楽が名物となっている、らしい。なにしろすぐ近くに家があるので利用したことがない。

 丁度お腹が空いているので良いチョイスかもしれない。ご近所さんの応援にもなる。

「未与子さん、そこ入りませんか?」

「……いいわよ、別に」

 あまり気乗りしないように見える。もしかして食べたばかりだろうか。引きこもりの生活サイクルはよくわからない。

(少し歩いたし、飲み物くらいは欲しいよね)

 あまり気にせずに喫茶店に入る。

「いらっしゃ……ああ、おかず屋の梵士くんか。なに?」

 顔馴染みの店主は僕が商店街のお知らせを伝えに来たと思ったようだった。

「ああ、客です。テーブル席いいですか?」

 そう言うと白いものの混じった眉を持ち上げてあからさまに驚いて、後ろにいる連れを見ると眉の位置は更に上がった。

「彼女ができたって聞いたけど……ああ、どうぞ」

 情報源は間違いなくニーナだろう。今日話したばかりだというのにさすがの伝達力だ。愛すべき朝霧町商店街の一体感は今日も健在とわかって嬉しい。

 それはそれとして訂正すべきところは訂正しておかなくてはならない。

「彼女じゃありません。片想いです」

「んナッ⁉」

 大きく反応したのは後ろの未与子さんだった。

「ちょっと、人前で何言ってんのよ」

「だって未与子さんは僕のこと好きじゃないでしょ? だったら片想いですよ。半分という意味でも片想いですし」

「ああもういいから、席に行くわよ!」

 背中をドンドコ押されて店の奥へと進む。店主は微笑ましげに僕らを見守っていた。


 とりあえず飲み物と、ナポリタンにサンドイッチを注文した。未与子さんは「水でいい」と言った他はずっと押し黙っていて大変気まずい。喫茶店の営業的にも「何しに来たんだコイツ」となってしまっている。というか水にさえ口を付けていない。

「あのー、依央さんから聞いてるかもしれませんが、弁当販売で結構儲かったんで何頼んでも驕りますよ?」

「……」

 返答はない。陰キャラの沈黙が恐い。じっとコップの水を見下ろして固まっている。

 冷たいものが苦手で氷が溶けるのを待っているという事実でもあればいっそ安心できる。それならさっさとホットコーヒーを注文してほしいけれど。

「あの、お父さんお母さんは災難だったね? 店、大変だったろう」

 気さくな店主が気を遣って話しかけてくれた。正直、ありがたい。もう未与子さんは置いてカウンターで彼と話せたらどんなに楽か。

「いえいえ、通常の営業は諦めてやれる範囲でやりましたよ。週明けには退院するんで、ご心配をおかけしました」

「偉いねえ。良い跡取り息子だ」

 昔から知っている人にこうして褒められると素直に誇らしい。

「私だって……」

 テーブルの向こうでモゴモゴと呟く声が聞こえた。

「私だってキミのコト、偉いと思っているわよ。親の代わりに働くなんて普通できることじゃあないし……。企画から全部ひとりでやったんだってね、すごいわ」

 言い訳でもするかのような口振り。少し早口になっている。

 なんだかよくわからないが、これは歩み寄ってくれているんだろう。

「……ありがとうございます。でも全部ひとりでなんてやってませんよ。依央さんが手伝ってくれたのは、未与子さんがそうするように台本を書いたからでしょ?」

「だって、好きな人ががんばってるのを手伝うなんて、当たり前だもの」

 その言葉だけを考えれば誰もが受け入れることだと思う。でもそれは理想。現実にはそういかない。

 好きになった相手が自営業であんまり構ってもらえないとなれば恋人としてはマイナスだろうし、「じゃあもういいです」となってもおかしくなかった。さすが未与子さん、メルヘンな現代劇を書いているだけはある。

「『好きな人が』って言うのは『依央にとって』ってことだからね? 私は関係ないわよ」

「わざわざ補足しなくてもいいのに。そろそろ0.5は好きになってくれません? おっと、0.5以上になると困りますからね?」

「フン、冗談じゃない」

 取り付く島もない。でも、だからこその片想いだ。

「まあいいですけど。……未与子さんも何か食べません? おいしいですよ。マスターは昔洋食屋で修行してたことがあるとかなんとか」

 サンドイッチの皿を勧めてみたら、唇を歪めて凝視してからプイっと外を向いた。

「……いい」

「じゃあこっちは?」

 めげずにナポリタンを近づけてみても、まったく同じ反応。まるで汚物でも見るような目だった。

(ヤバい……。本格的に失礼だ)

 こうなると恐ろしくてカウンターの方を見れない。

「それよりビール頼んでいい?」

 メチャクチャ失礼だ。

「ダメだよ! 今の未与子さんは依央さんなんだから、いいはずないでしょ!」

「ワインでもいいんだけど」

「種類の問題ではないよねェ?」

「アルコール類の注文は店側にはありがたいんじゃない?」

「そういう問題ではないので、マスターも持ってこないで!」

 グラスの用意をしている気配を察して後ろ手に店主の動きを制する。

 まさか同級生(代役)とのデート(リハーサル)で酒を飲もうとされるとは思わなかった。


「ありがとうございました」

 店主の挨拶を聞き店を出る足取りが重い。

「おえっぷ……食べ過ぎた」

 物理的に重い。

「どうしてあんなにたくさん頼んだのよ」

 未与子さんが隣で呆れている。

 二人分食べて注文伝票上だけでも折り合いをつけようとしてこうなったのに、なんて勝手な人だ。自主的にやったことなので勝手なのは僕だけれど。

「未与子さんのほうこそ、なんで急にビールなんですか」

「景気づけに飲んどこうと思って」

「どこに景気づける必要が? 酒でも飲まないと僕とのデートなんてやってられない? 普通に傷つくんですけど」

「別にそんなこと言ってないのに……」

 大人げなくふてくされている。

「……今の状態の未与子さんを『可愛い』とか思っていいんでしょうか、僕は」

「はぇっ? 急になに言い出すの」

 驚きでぴょんと飛び上がった未与子さんがヒールを踏み外してよろけた。

(あっ、マズい――いや、触ったらもっとマズい!)

 とっさに支えようと差し出した手を慌てて引っ込めると、道の端まで片足で跳ねていった未与子さんは「元気にあいさつ」の看板に顔面から激突する。

「……今、わざわざ見捨てたでしょう」

 振り返った顔が「恨んでやる」と語っている。髪が乱れているせいで余計に恐い。

「いやだって、触っちゃいけないですもん!」

「なに? 『未与子菌』とかそういうコトをキミまで言うわけ……へぇ……そうなんだ」

 暗い過去が垣間見えた気がする。でも僕が言いたいのはそうじゃない。

「中の人と接触したらちょっとおかしなことになるって、僕今結構な綱渡りしてるんだってことをご理解いただきたい!」

「道ずれで落ちたくないから見殺しにしたわけね」

「そんな人聞きの悪い……。未与子さんはこの商店街で浮気をした人間がどうなるか知らないから、そんなこと言えるんだよ」

「人助けをやめさせるなんてルールのほうが間違ってるわ」

「うっ……その通りです」

 まったく反論できない。保身に走って人道に外れることをしてしまった。

「未与子さんは外出に不慣れなんだから、きちんと僕がエスコートしないといけなかったのに……」

「ここでそういうコト言えるあたり、キミってホントすごい奴よね」

「いくら平気で歩いてる風に見えても、靴はピカピカだというのに……」

「汚す機会がないのよね」

 未与子さんは怒りを引きずることなく先を歩き出したので急いで隣に追い付く。

「あの、手とか繋ぎましょうか。小指と薬指で半分ならセーフだと思うんですけど」

「介護は要らない」

「肩、貸しましょうか」

「だから――」

 介護は要らない。きっとそう続くはずだった言葉がクラクションに邪魔された。

 音がした方へ首を向けると商店街を車が通ろうとしていた。別に進入禁止というわけでもないのでこの通りには普通に車が入ってくる。そして省エネ意識が浸透した昨今ではエンジンが静かで、車の接近に気付き辛いせいでこういうことも多い。

 なんてことはない「ちょっと通りますよ」という呼びかけのクラクションだったと確認して視線を戻すと、隣に未与子さんがいなかった。

 いや、足元にうずくまっていた。どうかしたのかと屈んで覗き込むと元々の不健康さというだけでなく顔色が悪い。

「……未与子さん?」

 呼びかけるとハッとして顔を上げた。ほほ笑んでいた。

 その笑顔に悪い意味でドキリとする。作り笑いなんてする人じゃないのに。どうして。

「さあ、リハーサルの続きね。ここアンタの家の近くなのよね? だったら舞台になることも多いだろうから、入念な確認が必要だわ」

 歩き出しながら言うその強気がまた不自然に感じる。どうしてここで虚勢を張るのか。

「未与子さん、どうしたの? なんかおかしいよ」

「ここ駅があるから登下校で通ったことは何度もあるの。でも立ち寄ったことはないのよね。だって欲しい物はうちまで届くから――なんて言ったら嫌味かしら? でもそうだったのよ。買い食いなんてゆるしてもらえなかったし」

「ねえ、未与子さん」

「そうだ、どこだったかしら? いつも同じ店先で何か食べている男の子がいたのよね。とってもおいしそうだったから『いいなあ』と思って見ていたわ。キミは知らない? もうずいぶん昔だし、こんな時間じゃいるはずもないか」

「未与子さんってば」

「世の中シャッター街が増えてるって聞くのに、ここって結構持ちこたえてるんじゃない? 何か秘訣があるのかしら。もちろん、片木うちの支援も大きいのだろうけれど」

「未与子さん!」

 たまりかねて手を掴んで引き止める。

「……手は繋いじゃいけないんじゃなかったの?」

「今はそれどころじゃないから」

 未与子さんは泣いている。クラクションを聞いてからずっと様子がおかしかった。

 途中通りかかった〝靴のおやま〟さんがシャッターを下ろしてガシャンと大きな音が鳴って、電話中のサラリーマンの怒鳴る声が聞こえて、その度歩調は速くなり最後にはほとんど走っていた。

「本当に、なんでもないから。ちょっと走りたくなっただけだから」

 苦しい言い訳を吐く息は乱れ、言葉以上に唇が揺れている。怯えているのは明らかだった。

(一体何に――)

 誰もが仲良く「ウフフ」「アハハ」しかない物語。それが彼女の理想なら、そこにないものが忌避したい〝苦手〟ということになる。


『どうして人の悪意にまみれた神経擦り減らす話を読まなくちゃいけないのよ』


 未与子さんはそう言った。

 人の悪意が苦手。そう言えば誰もがそうなのだろうけれど、未与子さんの場合はもっと敏感なのかもしれない。

 それが注意を促す目的のクラクションであっても、そこに悪意があると想像してこれほど怖がってしまう。それはもう「人間が苦手」と言い換えられる。

(まいったな……。これは、依央さんよりずっと、深刻だぞ……)

 台本さえ書いてもらえればそれでいい。そうも言ってられなくなってきた。



 未与子さんを落ち着かせるために手を引いてゆっくりと移動した。場所は依央さんとデートをした公園。夏の日さえ落ちたこの時間なら本格的に人も寄り付かない。

 そこで話を聞いた。

「大きく分類すれば不安障害。対人恐怖症とか、失敗恐怖症って言ったらわかるかしら」

 きちんとは知らないけれど、名前から意味はなんとなくわかる。それでもリアクションはしなかった。

 ベンチに座る未与子さんは体を折って膝に顔をくっつけていて僕を見ていない。話す口調も事情の説明というより釈明、いやいっそ懺悔に近く聞こえる。

「私の場合はそこに空想が大きく加わるのね。『この人は本当は嫌なことを考えているんじゃないか』『実は悪い人なんじゃないか』って考えたら怖くて怖くて仕方なくなるのよ。だって完全な善人なんていないじゃない。自分の都合と娯楽で簡単に他人を傷つける立場に回る。そういうものでしょう?」

 人間の行動に善や悪の明確な線引きなんてないんだと思う。昼休みに弁当を買ってくれる生徒も、放課後までに盗んでいった誰かも、同じ学校で過ごす一個人だ。一方を憎く感じるからといって善や悪という価値観で明確に分けられるとは思わない。

「私さ、割と良いとこの『お嬢さん』だからさ、初めはみんなすごく遠慮したし酷いイジメにはならなかったのよ。でもうちって分家だから、本家筋の身内のほうが辛く当たってきて、みんなもそれに追従するようになったのね」

 未だ握った手が未与子さんの膝の上で熱くなっていく。ベンチには座らず未与子さんの前にひざまずく形でただ話を聞き、ポタポタと涙の滴が指に触れてもなすがままにしている自分が不甲斐ない。

「みんな普通の子だったの。でも場の雰囲気とか空気の流れで敵になる。『敵だ』って感じちゃう。だから私は普通の人も怖い。被害妄想だってわかってはいるのよ。でも、どうしようもなく怖いの。戦えばよかったのにできなかったあの時から、ずっと怖いの」

 分家や本家なんて、庶民にはわからない事情が関わっていてなんとも言えない。慰め方がわからない。

(メルヘンの世界に生きてるのは、僕のほうなのかもなあ……)

 この人が味わった学校生活と、知っているものが違い過ぎる。

「ごめんなさい。あなたの好きな人の半分が、こんな人間でごめんなさい」

 それだけは聞き捨てられない言葉だった。否定しなくてはいけない。なのに、自分で自分を責めている人間に何を言えば伝わるかがわからない。

(どうする……? 『僕が守る』なんて言葉で救うには、この人の自己嫌悪は深すぎる。なんて言ったらいい?)

 今にも散ってしまいそうな花を守る風除けになるものがほしい。

 考えて思い当たったのは、まるで見当はずれな疑問だった。

「じゃあさっき、喫茶店でなにも食べなかったのって、もしかして……?」

「……そう。手作りの物が、食べられないの。他人が見えない所で作った物だって考えたら、どうしても怖くて。……お弁当を作っているあなたにとっては、嫌な人間よね私」

 嫌な人間は僕だ。知りもしないで責めてしまった。

 でも今は自分のことを気にしている状況じゃない。自己嫌悪に自己嫌悪をぶつけても未与子さんの心は救われない。

「大丈夫。誰だって食べられないもの、食べたくないものはあるから。未与子さんは『手作りが嫌』っていうだけで、それは程度の問題だよ。僕は大根おろしとかが嫌いなんだ。あの進んで脇役へ行こうとする姿勢が気に入らない。メインは張れないサラダに数えられる中でも大根にはもっとおいしい食べ方があるのに」

 無茶な主張に手応えはあった。顔を上げた未与子さんは涙に濡れながらも薄く笑ってくれている。

「……なにを言ってるのよ。バカね」

 握る手に少しだけ力を加えて、続ける。

「僕も世の中のみんなと同じでフツーの人間だよ。自分のことで精一杯で、奇跡的に転がり込んで来た幸せを手放したくないだけの小市民。未与子さんより年下で経済弱者だから『守ってあげる』なんて僕は言えない。でも言わなくちゃいけない」

 跪いた姿勢でいたのは丁度よかった。未与子さんの眼を見つめて、誓う。

「0.5の責任で、僕が未与子さんを守ります。すべての敵をやっつけるなんてことはできないけど、僕は何があっても未与子さんの敵にはならない。だから、僕のことは怖がらなくていいよ」

 僕なりに真剣な気持ちでの宣誓だったのに、未与子さんは呆れた風にため息をついた。

「偏屈。でも……だからキミとなら一緒にいても平気なのかもしれないわね。自分で持て余すようなルールを捨てられない頑固者だから嘘をつかない。キミのことは信じられなくても、キミが私のことを『0.5好きだ』って言うのは信じられる」

「もちろん。そこは底なしに信頼してくれていいよ」

「最初は怖さとかどうでもいいくらい腹が立つせいだと思ったけれど。今でも腹は立つし」

「あー……ハハハ。これは受け入れられていると思っていいのかな」

 それがわからず苦笑いしかできないでいると、未与子さんは寂しげに笑って首を傾げた。

「でもダメよ? 弱っている女に0.5でも優しくしたら。だって私きっと依存が強いタイプだもの。……ここで抱き締められでもしたら、間違いなくメチャクチャ好きになるわ……」

 とんでもないことを言い出した気がする。

 自分の耳を疑っている間に、未与子さんは納得した様子で何度も細かく頷いた。

「そうなのよね。考えてみたらキミって、私にとって〝唯一の男〟なのよね」

 僕を見下ろす未与子さんの眼が、相変わらず生気が無いわりに熱っぽく感じる。

(なんだこの空気……? これもうリハーサルの域超えてない?)

 自分の言動を振り返って見れば少々行き過ぎたやりとりがあったかもしれない。状況にのめり込み過ぎた。未与子さんは中の人なので内面にはいくらでも触れていいとしても、同時にボディタッチまでしてしまっていたら言い訳ができない。

 おかしな流れを堰き止めるべく手を引っ込めようとしたら、強く握って離してもらえなかった。ギクリとする。

「ちょっと冷たいんじゃない、ダーリン?」

 未与子さんは口の端を持ち上げ意地悪く笑った。「元気が出てよかった」なんて喜べない。

「やめてよ! 僕はダーリンじゃない! 強いて言うなら5百りん

「1割の百分の一の単位とか、急に言われても普通わからないわよ」

「とにかく僕としては今こうして手を繋いでいるだけでもアウトだから! っていうか未与子さん、僕のことからかってるでしょ!」

 逃げようともがいていると、掌がズレて小指と薬指が絡んだ。

「手繋ぎの0.5。これなら拒絶できないのよね? キミにとって私の0.5は恋人で、今デート中なんだから」

 ルールに則って振り解けない状況を作り出された。

「ぐぬう、もしムリヤリ突き放せば僕がデートをぶち壊したことになって、恋人を0.5傷つけることになる。そんなこと、あっちゃいけない……!」

「正直最初は『コイツ頭おかしい』と思ったけど、おかげさまでキミの設定も見えてきたわ。必ず乗りこなして見せるわよ」

 勝ち気に鼻を鳴らすのを見て、身震いが起きた。

 もちろん好かれること自体は嬉しい。でもその愛情は0.5に収まるものでないといけない。今の未与子さんはルールを理解したうえで踏み込もうとしているように感じた。

「梵士クン、年上のおねえさんは嫌かしら?」

 未与子さんがほほ笑んで、近づけた手に唇が触れた。

 生まれて初めて身近に迫った〝色気〟に動揺が混乱へと移り変わっていく。

「くっ……ダメだ、惹かれる! この場合惹かれているのは恋心ではなく下心エロ心なのだけれども!」

 これ以上直視してはいけない。そう恐れて首を限界まで捻じって他所を向く。

 すると、そこに知った顔を見つけた。

 ニーナだ。真っ赤なシャツに裾が締まった黒いズボンは一見して情熱的なピエロといった風合いでもコイツには似合ってしまう。水流添家の従順なる番犬――ピン吉を連れているから散歩の途中らしい。

 ひとりと一匹の登場に「よくぞおかしな空気を壊してくれた」とか「未与子さんが怖がるからあっち行って」などの感想を抱く暇はなかった。

「地獄に――」

 でっかい目を険しく吊り上げたニーナが僕を指差し、叫ぶ。

「地獄に堕ちろ浮気者! ゴー! ピン吉、ゴー、ゴー!」

 ピン吉はワイマラナ―という猟犬種で、いかにもなシュッとした体型とアンニュイな青い瞳を持つハンサム犬だ。尻尾がピンと立っているからピン吉。

 大人しい愛犬としての彼しか知らなかった僕の前に突然現れた猟犬。一瞬で間を詰められズボンの裾に食い付かれたと気付いてすぐにもの凄い力で引き倒されていた。

 ここでようやく状況を理解した。

「ちょっと待てニーナ! お前は誤解してる!」

「問答無用! 彼女の副島さんとは別の女と夜の手繋ぎ、言い訳の余地なし!」

「この人は〝別の人〟じゃないんだ! みんな大好き副島さんの中の――イデデ!」

 後頭部を擦り下ろされながら公園の外へ引きずり出される。弁解は届かない。未与子さんに仲裁を期待するのはちょっと厳しい。

「彼女に謝らせるのはとりあえずあと! 商店街の名を穢す不届き者に相応しい罰を!」

「罰って……お前、まさか!」

 通りの向こうで降りていたシャッターが勢いよく開いて、カメラを抱えた店主が飛び出して来た。店頭の立派な額に「私は浮気をしました」と晒されているカメラのキムラから。

「やだっ! 僕は違うんです木村さん! やめてっ!」

 連続で焚かれるフラッシュから顔を庇って路面に伏せる。

 こうしてデートのリハーサルはろくでもない形で打ち切られた。

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