鎌倉へ
秋風が肌にあたって、寒くなる頃に鎌倉に小旅行に行った。凡庸なコースだが、鶴岡八幡宮に行った。二人の関係が続くようにと祈ったんだ、と彼女は言った。そして、小町通りに行って、隠れ家的なレストランを見つけて昼食をとった。
「この後、どうする?」
僕はあえて彼女にイニシアチブを握らさせることを言った。
「どうしようかぁ」
と彼女は独り言のように言った。僕の発言は彼女の想定外のことだったんだろう。
「僕は海が見たい」
主導権を僕に戻した。彼女は心良く了解してくれて。レストランを出て、電車を乗り継ぎ、腰越の海に行った。
「あの人」は腰越の海で失敗した。僕はここに来る前から失敗している。それでよかったのかもしれない。海を見た彼女は楽しそうにはしゃいでいた。彼女を道連れにするなんて毛頭できないと思った。
「こっちにおいでよ」
波打ち際で遊んでいた彼女は手招きして僕を呼ぶ。僕は首を振って彼女の誘いを断った。僕は砂浜に座って海をみつめていた。このまま彼女と一緒に手をつないで、海の中に入って行ったらどうなるのだろう。彼女はきっと嫌がるに違いない。でも、僕はずいぶん前から「死」に取り付かれた人間で、その考えを捨て去ることはできないくらいに「死」について浸っているのだった。ひとしきり遊んだ彼女は僕のもとにやってきて尋ねた。
「あなたはなんでそんなに憂鬱そうな顔をしているの? あなたが来たいっていったんじゃない?」
彼女の言葉は核心をつくものだった。そうだけどさぁ、と僕は言って、適当な嘘をつく。
「海って広いじゃん? 地球の七割が海なんだぜ。そんな広大なものを見ていたらさ、自分なんてちっぽけなものだと思ってきちゃってさぁ」
僕は海を眺めながらそう言った。
「ふぅん、なんか真面目だね」
彼女は僕の発言に対して真に受けなかった。彼女は辛気くさいの嫌だったのだろう。彼女は昔から真面目になることが嫌だった。二人の関係においてはくだらないことをやっていくというのが暗黙の了解みたいになっていた。でも、僕は暗い性格が故にあか抜けて彼女みたいに明るく振る舞うことはできなかった。僕の言い訳めいた言葉は彼女を傷つけるに等しい行為だったのかもしれない。
僕はずっと海を見ていた。
感動したとか、大きく気持ちが動くことはなかった。ただ、「あの人」がここで失敗したんだと思いながら淡々と寄せては返す波を打つ海を見ていた。ふと思ったことなんだが、この海水はいつできて、いつ雲になるのだろうなんて、詩人めいたことを考えていた。
彼女は僕の側で一緒に黙って海を眺めていた。
「ねぇ?」
彼女は僕に話しかけてきた。僕の思考は停止される。
「なに?」
彼女の方を振り向く。
「あなたはどうしてここの海にやってきたの? 海なんていっぱいあるじゃない」
僕は考えるフリをする。答えは僕の中にはっきりとある。「あの人」について僕は辿ってみたかったのだと。でも、彼女に言ったところで彼女はきっと失望するかもしれない。彼女を悲しませないために彼女に嘘をつく。
「ここの海がきれいだって、ネットで載っていたからさ」
「ふぅん」
彼女は驚くわけでもなく、関心するわけでもなく、淡々と応えた。彼女に文学の話をしたところで理解されるわけがないと僕は思った。僕の独りよがりなのだから。
「今度はどっか遠いところに行きたいな」
彼女は僕に寄りかかりながら言った。
「うん、いいよ」
僕はさっきよりも大きな嘘をつく。僕の中に抱えた爆弾がいつ爆発するかわからないのに、今度とか遠い未来の約束をしたところで、僕はそれを反故にしてしまうかもしれないから。彼女が泣いている姿が僕の頭の中にイメージされる。それでも守りたいものが自分の中にあるから、彼女を犠牲にしてでも僕は自分の考えていることを実行したかった。
日はほとんど沈んでいた。時計を見るといい時間になっている。ここにずっといたような気がする。
「そろそろ、帰ろうか」
「うん」
彼女はなにかを期待していたのか、言葉に覇気がなかった。
「どうしたの?」
「なんでもない」
彼女の愁いを帯びた顔はなにかを求めているようだった。しかし、僕にはそのとき理解することができなかった。
彼女と手を繋いで海辺とは反対に歩いていく。僕はその反対向きに歩きたいと思った。
僕の住んでいるマンションまで一時間半かかって帰った。次の日もお互い休みなので、彼女は僕の部屋に泊まった。彼女は疲れていたらしく、今日は外食しない、と僕に尋ねてきた。いいよ、と僕は応えた。近くのファミリーレストランにした。遠出するのもめんどくさいし、近場で済ましたかった。その意見はお互い一致した。普段なら彼女に気を遣って、いい店を見つけてそこに行くのだが、そんな余力は残ってないし、今すぐに調べるのは煩わしかった。今日の話をする。どこがよかったとか、お土産買うの忘れちゃったとか、たわいもない話を一方的に言ってくる彼女に僕は笑顔で相槌を打つ。その笑顔も僕が今まで周りをごまかすための仮面に過ぎないものだった。僕はいくつかの仮面を持っていると思う。悲しいときにする仮面、楽しいときにするときにする仮面、怒ったときする仮面、そのときの状況に応じて僕はそれらを使い分ける。僕の本心では、どうでもいい、と思っている。僕の抱えている問題に比べれば、他の人がどのようになろうとも、関係ないなかった。僕の中にある、黒いドロッッとした塊はだれにも理解できないだろうと思った。
「ねぇ、聞いてる?」
彼女の言葉で現実に戻される。
「うん? なんだっけ?」
彼女の話を聞いていなかった。ちょうど食後のコーヒーを飲もうと思って口に近づけたときだった。
「まったく、また難しい顔をしてたよ」
「ごめん」
「あなたって不思議ね。人の話を聞いてるようで聞いてない顔をするなんて、おかしいわね」
「ごめん」
彼女は笑って言った。彼女の笑顔で僕は救われた、いや、助かった気がした。僕が半分死に浸かっていたんだから。そう考えると僕はどっちなんだろうと思ってしまう。彼女がいるから、この世に未練があるのかもしれない。そんな俗物にまみれた悩みなんてなくしてしまいたい。僕は「あの人」みたいに薬物中毒になれば、そんなちっぽけな悩みなんてなくなってしまうのにと思ってしまう。
「でさ、さっきの話なんだけど、表参道で洋服買いたいんだけど、一緒に行ってくれない?」
「あぁ、いいよ」
また、未来の約束をしてしまった。一分後のこともわからないのに。もしかしたら、僕は彼女に助けを求めているのかもしれない。彼女に僕の抱えている爆弾を取り除いて欲しいのかもしれない。僕はそのSOS信号を無意識に発しているのかもしれない。僕は心のどこかで「死にたくない」と思っているのかもしれない。
そんなの甘えだ。
僕はこの世からいなくなりたいのだ。この世に未練はない。生きていることについてなんら意味を見出せてない。僕という存在は広い世界から見ればちっぽけなものだ。僕が消えたところで世の中に影響はない。
「そろそろ、行こうか?」
彼女が僕に訊いてくる。僕は彼女の言葉で腕時計に目をやる。八時半過ぎ、ちょうどいい時間かもしれない。店に入ってからちょうど一時間が経っている。
「行こうか」
僕は伝票を持ってレジへと向かう。彼女は僕の後ろからついてきた。店員が忙しそうに配膳をしている。僕たちの姿を見た女性店員が、少々お待ちくださいませ、と言った。僕と彼女は特に話すことがなく、黙っていた。彼女は沈黙の時間が嫌だったのか、レジの近くにあったおもちゃやお菓子を眺めている。
「お待たせしました」
彼女より小柄で、髪を後ろで結んだ女性が対応してくれた。
「お会計が、二千三百五十一円です」
僕は財布から三千円を取り出す。
「三千円お預かりします。お返しが六百四十九円です。こちら、次回ご来店の際に提示していただければ、コーヒー一杯が無料になる券を配布してますので、よろしければご利用ください。ありがとうございました」
僕が振り返ると彼女は出入り口のドアを開けて待っていた。
店を出ると彼女は、ありがとうね、と一言僕に言った。僕は返事することなく、首を縦に振って応えた。僕と彼女は月が出ていて明るい夜道を並んで歩いた。
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