フタバ
ウサギノヴィッチ
僕と彼女
死のうと思った。夏が終わって寒いなと感じた頃に彼女が秋用のボーダーの七分袖を買ってきてくれた。生地は麻でできていて、もちろんだが、きめ細やかに糸が編み込まれている。その服を着るためにも秋まで生きようと思った。
気がついたら、死についてつまらないことを考えている。なにをするのも面白くないと思うときがある。同じことの繰り返しをしていると気づくとき、生きている意味について考えてしまう。彼女は正反対に毎日が楽しそうだった。いつも笑顔を絶やさない女性。前向きな思考回路をもっていて、僕が思いつかないことを考えだして時々驚かされる。僕のつまらない考えを彼女に本心から伝えたことはない。
「黙り込んでどうしたの?」
僕の心を覗き込むような目をしてみつめてきて、僕はドキッとする。彼女に僕の頭の中を見透かされているようで怖くなる。
「なんでもない」
なるべく表情を崩さないように気丈に応える。
「そう、ならいいけど」
彼女は僕に異常がないか確かめるように言う。
彼女が僕に変なところがないか確認するのはだいたい外でご飯を食べていて、食後のコーヒーを飲んでいるときである。僕はたいていそのときは無防備になっていることをあるときから自覚した。自覚したが、時々回路に電気が流れるみたいに思考がフル回転して、つまらないことが思いつく。そのときの表情は自分ではわからないけど、彼女は、どこか一点をみつめてなにか深刻なことを思案している、と昔に聞いたことがある。
実際に僕は人からみればくだらないことを考えているのかもしれない。「死」についてなんて、幼いことかもしれない。しかも、思春期ならまだしも、もういい年をした男が幼稚なことを考えているなんて。
昔、読んだ「あの人」の本を読んで自分が当てはまるなと思って、「あの人」も同じことを心に抱いてたんだとシンパシーを感じてから、「あの人」の本は電子書籍で全集を買ってしまうほどだった。
どこかで自分は世の中とズレている。それは他人には把握できないくらいの微妙なズレで、しかも、大勢の中にいるとそのゆがみは想定内の誤差として見なされてしまうくらいの微差だと僕は思っていた。だから、普通の人から見ても僕は普通で、普通に近いから僕には彼女がいるわけだ。この性格を得だと思ったことはないし、損だとも思ったことはない。人に自分の頭の中について相談することは今までに一度もなく、混乱することなく日常を過ごすことができている。ただし、僕は日常というものに猜疑心を抱いていて、今まで問題がなかったことが怖くてしかたなかった。満員電車に乗って会社に行って、八時間と少しを働いて、満員電車で帰ってくることが恐ろしいと思ってしまう。
自分が社会の歯車であることに疑問がある。でも、歯車だと自分から言い出すことはできなくて、周りの人にあわせて生活をしている。
時折、叫びたいくらいに絶望する。
こんな人生のなにが面白いのか。
僕にとってなにが大切なんだ。
僕はここにいることが異常なのではないだろうか。
帰りの電車で、窓ガラスに映る自分を見て失望することがある。マンションに帰ってきても、もちろん独りで話す相手もいない。時間は無情にも流れていって、そろそろ寝ないと明日の仕事に支障が出る。その仕事ってなんなんだ。仕事ってそんなに大事なものなのか。労働は賃金を得るためにやっていることだとはわかっている、わかっているが、本当に大事なのだろうかと。彼女に時々訊くときがある。
「仕事って楽しい?」
彼女は少し考える。その表情はどこにも深刻そうなところはなくてすぐに答える。
「つらい時もあるけど、楽しいかな」
彼女は大手商社の庶務課で、僕みたいなシステムエンジニアとは違って、定時で帰れるし、体調が悪くなったらすぐに有給を使ってどうにかなってしまう。僕は、残業は当たり前で、体調が悪くなっても行くというルールみたいな根性論がある。彼女との職場環境は雲泥の差がある。彼女は僕の気持ちなんか考えてないなんて思ってしまう。僕も我慢強いのか、彼女に愚痴をこぼすようなことはない。彼女だって無神経じゃないから、僕のことはそれなりにわかっているはずだろうと勝手に思い込んでいる。
つらいの、と彼女は時々訊いてくるときがある。僕の彼女は優しいなと思ってしまう。それでも、僕は、大丈夫、と言ってしまう。甘えてもいいのかもしれないけど。
彼女が僕の部屋にいるのはだいたい週末で、外に行かない時はだいたい料理を作ってくれる。彼女の料理はどっちかといえば和食が多くて、体に優しいものを作ってくれる。なんて献身的な彼女なんだろう、僕にはもったいないと思ってしまう。友人なんて両手で数えるくらいしかいないが、彼女を紹介したことがないし、他人の恋愛の話に興味が持てない。その奥には生々しい性的なものを感じてしまって、気分が悪くなるからだ。そんな下品な会話はしないが、肉体的なものを察してしまうと嫌気がさす。友人なんてどうでもいい。たまにメールをよこして、待ち合わせに遅れてきて、僕より少ない金額でお酒を飲んで、一方的に愚痴を聞かされる。僕は聞き上手ではないが、相手の話を黙って聞くことは出来る。それで友人のストレスが発散できるのだから安いものだ。僕みたいなでくの坊を相手に友人の気が済むまで話をさせるなんて、僕の気持ちにもなってほしいくらいだ。でも、僕は僕の心の底にあるものをひた隠しにする。それは他人に弱みを握られたとか、弱いところを見せるとかそういうあまのじゃくのようなものではなく、ただ単に僕の中に溜めて置きたいだけで、抱えることでなにができるわけではないが、とにかく人には言いたくないものだった。それは爆弾みたいなもので、いつ爆発するかわからない代物だった。それが今にも破裂しそうだったから「死のう」と思った。時が来た、と心の中で呟く。ただし、彼女に服をもらってしまったから、爆発に必要な熱量がなくなってしまった。僕は残った熱を使って思い立った。
「今度の休みに鎌倉に行こう」
彼女は意外そうな顔をして、うん、と言った。せめて、「あの人」の辿った道筋を歩いてみたいと思った。
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