うつろう闇

カエデ

うつろう闇

 同僚と飲みに行った帰り道だった。

「ああ、最早右も左も分からないな」

 真っ暗闇という他無いこの状況は、私の方向感覚を完全に狂わせていた。唯一の手がかりは足元の線路だけだ。この線路が無ければ歩く事さえ、出来なかっただろう。革靴を履いていても伝わるがっしりとした鉄骨の感触が、無骨が故の安心感を与えてくれていた。

 最後の汽車はとうに行ってしまった。そのため今、汽車が走る事はまずあるまい。存外私はゆったりとした気持ちで、一寸先も見えない闇を大股で歩いていた。

 視界が奪われると残りの器官が普段以上に良く働いた。梅雨明けの生ぬるい夜風が、ねっとりと私の頬を撫でる。湿気が高く、それでいて何かの意思を感じる程強い風は、まるで大きな人間に息を吹きかけられているようだ。

 そうだ、何かの意思だ

 先程からひしひしと感じるこの圧迫感に、疑問を抱いてた。何もないはずの空間から、存在を感じる。


 いや、居る。


私の近くに何かが居るのだ。それは永遠と続くような線路の先からも感じたし、線路を挟むよう茂った、暗く大きな森からも感じていた。虫や鳥の声では無い、風の音ととも違うこれはなんだ。巨大な物が迫ってくるようで気味が悪い。背筋にぞくりと悪寒を感じ、私はふと一抹の不安を覚えた。

 街の駅までそれ程遠くない。駅にさえつけば、十分とは言えないが街灯がある。まだ開いてる店だっていくらでもあるだろう。

 なるべく早く着きたい一心で、私は少し足を早めた。そのせいだろうか、私の心臓は高鳴り、鼓動は速くなっていた。速くなる鼓動と共に、恐ろしい気持ちも加速していく。私は速めた足をさらに速め、その内走りだしてしまっていた。

 良く良く考えてみたら、前の見えない暗闇で走るなんて危険でしか綯い。

 それでも私は走るしか無かった。この自分と世界を区別する境すら無い、混沌とした闇から逃げ出したかったのだ。

 幸いな事にすぐに一筋の光が、線路の先で見え始めた。

「あ、あぁ……」

 私は乱した呼吸を整えるように、深くため息を吐いた。そしてこの小さな頼りない光でも、見えてさえしまえば、先ほどの自分の行動が情けない程馬鹿馬鹿しい事に気づいた。

「我ながら恥ずかしいな、いい年をして暗闇を怖がるだなんて」

 安心したためだろうか、ふいに笑いがこみ上げて来た。先程までの取り乱した自分がまるで他人事のように思え、その様のなんと滑稽だった事か。

 吹き出しながら歩いてると、光の元である駅に着いた。駅室には裸電球が一つぶら下がっている。

 自嘲していたら異様な程に気持ちが高揚してしまい、つい私は駅員に話しかけようと、駅室の扉を開けてしまった。

「遅くまでご苦労様です」

 なんて事は無い挨拶をかわし、拙い世間話をするつもりだった。

 開いた扉の中は、誰一人いなかった。

 裸電球に虫達が集まり、風も無いのにゆらゆらと揺れている。

 いつもこの時間には駅員がいたはずだ。明かりもついているでは無いか。諸用で出かけているのか、それとも今日はもう帰ってしまったのだろうか。

 私も何か用件があった訳では無い、少しばかり残念だったが駅を後にする。ただすぐ家に帰る気にもなれなかったので、近くの歓楽街へ赴き居酒屋を探した。

 夜もまだ長い、赤提灯はいたる所でぶら下がっている。陽気な笑い声を期待し、手頃な店の戸をガラガラと開けた。

 しかしそこはまたしても無人であった。

 おかしな所は共通していた。

 酒や料理だけ並び、ほんの少し前まで誰か居た形跡がある。人だけ居ないのだ。

 隣の店もその隣の店もそのまた隣の店も。私は目に入る店全てを開けてまわった。どこにも人が居る事は無かった。きっと近くで火事でもあったのだろう、誰もが外へ飛び出し見物しているのだ。

「野次馬どもめ」

 私は小さく吐き捨てた。心の中で、小さく灯すように現れた不安をかき消すために。

 仕方が無い、家に帰ってつまらない妻の顔でも拝むとするか。

「まぁ今日はお帰りになられたのですね。いつものように朝になるものだとばかり……お食事は待って頂けますか」

 妻の顔と台詞が浮かぶ。

 だが油断するとその顔と台詞が、頭から霞のように消えていきそうになり、私は必死に必死に思い出しながら家へ向かった。

「奥さんの事大事にしろよ」

 一緒に飲んでいた同僚の言葉を思い出す。「孝行したい時に親は無し。これは何も親だけの事じゃないぞ。もちろん奥さんの事だけでも無い。本当に大事な物なんて失ってから気付くんだ。素直になれよ」

「五月蠅い奴め、放っておけ」

 私は確かそのように返したはずだ。そんな私を奴は鼻で笑い、こちらも見ずに言った。

「まぁ後悔の無いようにな」

 そう呟く奴の目はどこを見ていた? あの虚ろとも言えるうろんとした目先に、何もありはしなかった。くそ、あいつめ。こんなに不安な気分になるのはあいつのせいだ。そうだ、あいつが変な事を言うから余計な事まで考えてしまうんだ。

 心の中で同僚に悪態をつき、足を速める。途中の商店街に入った時、ある言に気づいた。

街に誰も居ない、人っ子ひとり居ない。いくら陽が落ちたからとは言え、誰ともすれ違わないなど有り得るのだろうか。

 灯された不安は冷たい炎となり、私の心を包み込んでいった。

 頼む、頼む、頼む。

 急ぎ足がいつのまにか駆け足となり、商店街を駆けて、路地を抜ける。家に着くまでの間、誰一人ともすれ違う事は無かった。

「おーい! 帰ったぞ!」

 勢い良く玄関を開き家中に響くよう叫んだ。

「帰ったと言ってるんだ!」

 返事は、無い。

 頭の中から妻の顔と台詞が完全に消えてしまった。

「どこだ? 頼む、悪ふざけはやめてくれ」

 電灯もついていない部屋を次々と見て回ったが、妻はどこの部屋にも居なかった。

 玄関に戻り肩を落としていると、突然誰もいない我が家が、ひどく虚ろで禍々しい空間に思えた。何も無い部屋に恐ろしい空気だけが充満していていく。

 どうする事も出来ず呆然と立ち尽くす。何だ、一体全体何だと言うんだ。どうして誰も何も説明してくれないんだ。おかしいじゃないか、こんな事有り得ないだろう。先ほどまで私はいつも通りの日常に居たんだ。何故突然こんな事が起きる。

 対処しきれない状況に立ち尽くしていると

突然、アノ音が聞こえた。虫の声でも鳥の声でも風の音でもない、アノ音だ。暗闇からゆっくりゆっくり近づいてくる、あの気配。

 私は恐る恐る駅の方を振り返った。

 視界一杯に見えたのは闇だった。

 大きな大きな、無限に広がる暗闇だった。

 向こうの方から街灯が一つ、また一つと消えていく。その様はまるで巨大な壁が迫ってきているようだ。街灯だけでは無い、家が、店が、全てが闇に飲み込まれていく。闇が十メートル先にまで迫って来た時私は理解した。

 ああ、あの闇は死だ、死そのものだ。何もかもを突然飲み込んでしまう理不尽な暴力、得体が知れない巨大な何か。

 私はあれに追われていたのだ。いや、私だけでは無い。生きとし生けるもの、その全てがあれに終われ、ただ逃げるだけの一生を過ごすのだ。そしてあれに捕まった時、自分が積み上げてきた一生全てが、突然奪い去られてしまう。

 私達はいつもあの存在を忘れてしまっている。死はいつだって私のすぐ後ろに居たじゃないか。今も闇は全てを、私をも飲み込もうと迫り続けている。

「くそっ! くそっ!」

 行き場の無い怒りを、迫り来る闇向かって放った。闇には全てが無となり消えていく。

 そうして叫ぶ私すら飲み込んだ時、私の意識も闇へと消えた。

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