第10章 遅れてきた探偵(9)



「いや……」

 円香は蒼ざめ、首を振りながら後ろへと下がる。まるでそこから逃げるかのように――。

 だが狭い部屋の中だ。すぐに背が壁についてしまった。

「…おばさん」

「そうやって、被害者ぶって……自分は何も悪くないとでも言いたい訳?」

「あ……わ、私…」

「自分は弱いって? 可哀想だって?」

「ちょっと文子さん!」

 娘が責められているのを見て、遂に堪えられなくなったのか、母親である悦子が割り込んだ。

「さっきから聞いてれば、何よ!」

「何って? あなたも知らない事を、教えてあげようっていうのよ!」

「知らないこと…?」

 悦子は怪訝そうな顔を文子に向ける。

「どういう事?」

 母親である自分が知らず、何故親戚の文子が知っている事があるのか―――そう言いたげに、円香を見る。

 だが当の円香は、これまでで一番青い顔になり、先程よりも激しく首を振った。

「……やめて!」

「この子はね」

「おばさんっ! お願いだから…!」

「文子おばさん!」

 円香の悲痛な訴えに、ただならぬ事態に気付いたのだろう。脩も文子の言葉を止めようとした。

 しかし、それよりも早く文子は、それを口にしてしまう。

「この子はね! じいさんと、できてたんだよ!」

「やめてェ――――!!」

 円香がその場に崩れ落ちる。

 あまりの事に驚いたのだろう、脩は円香を抱き起こすことさえ忘れて、ぽかんと口を開けて、文子を見つめていた。

 脩だけではない。

 その場にいた、東郷家の人々も、家政婦も江里子も―――椎名刑事達も、何も言えず、崩れ落ち肩を震わせている円香と、勝ち誇ったような笑みを浮かべる文子を、交互に見つめていた。

 ―――ただ、父と悠里は知っていたのか、冷静な目で二人を見ている。

「……それが、この日記に綴られていたんですか?」

 僕が聞くと、文子は当然だと言うように頷いた。

「そうよ。こんな気色の悪い日記ははじめてよ」

「気色の悪い?」

「ええ、気味が悪いのよ。毎日毎日、円香がどうした、こうしたって、円香の日常が綴ってあるのよ。まるで朝顔の観察でもするかのようにね」

 ああ、やはり―――と、僕は項垂れる。

 やはりあの日記の内容は、そういうものだったのだ。

「酷いわ…おばさん……酷いじゃない」

「酷い?」

 弱々しいが、怒りも含んだ円香の抗議に、文子は方眉を器用に吊り上げる。

「どうして、こんな所で言うの? 酷いわ!」

「またそうやって被害者ぶる! できてたのは事実じゃないか」

「私は…別に…!」

「別に、なに? そんな気がなかったとでもいう訳?」

「……そ、そうです」

 円香は座ったままだったが、それでもこれだけは、譲れないのだと言うように頷いた。だが、文子はそれを聞いて、鼻で笑った。

「被害者顔の偽善者だよ、あんたって。その気がない? 嘘ばっかり」

「嘘じゃないわ!!」

 円香も必死だ。

「ねえ、あんた」

 文子はいきなり視線を僕に移す。

「な、なんですか?」

「あんたさ、私が奈々と廊下でじいさんとこの子が言い争っているのを聞いたかって言ってきたじゃない?」

「……ええ」

 文子は奈々と、庭で何かを言い争う東郷氏と円香を見ている筈なのだった。

「その通りよ。おばあさまとは違う、とか言ってたわ」

「……」

 それは奈々から聞いていた通りだった。

 だが、この後いきなり文子は、奈々をその場から引き離し、この事は誰にも言うなと口止めしていたのだ。

「ただ、言い争っていたんじゃないわ」

「…え?」

 文子は、ちらと円香を横目で見る。

 円香は最初、何の事かわからなかったようだが、その時の事を思い出したのだろう。はっとしたように、両手で口を押さえた。


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