第10章 遅れてきた探偵(1)


 蒸し暑い晩だった。

 ほとんど風もなく、無風に近い。

 着替えたばかりのシャツは、じっとりと濡れ、頭から滴り落ちる汗を、僕は持っていたタオルで、ゆっくりと拭いた。

 隣でじっと座っている美凪も、僕と同じく相当暑いのだろう。

 汗が目に入ったのか、何度もタオルで顔を拭いている。

 そんな美凪の肩を、ちょっと叩くとすぐにどうして欲しいのかわかったのだろう。やはり無言で携帯を差し出した。

 ――午前零時ちょっと過ぎ。

 僕は時間を確認すると、マナーモードに設定してある、その携帯を美凪に返した。

 この家には、数十人の人間がいるはずだった。

 それなのに、この静けさはどうしたというのか。

 僕は止めど無く流れる汗を拭き、持ち込んだペットボトルの水を、少しだけ口に含んだ。

 こんな事までして、もし僕の判断が間違っていたら―――――?

 そんな気持ちにもなったが、声を出す事も出来ず、僕と美凪はただじっと、ここで待つしかなかった。








 僕達は、押入れの中にいた。

 東郷正将の部屋だった場所だ。

 入ったのは、今から二時間も前の事だ。どうしても一緒に行きたいと言っていた美凪を連れて、タオルと水だけを持ち込み、この中でじっと息を殺しているのだ。

「あたし達って、押入れが好きみたい」

 そう笑って入り込んだ幼馴染も、時間が経つにつれ、伸ばす事もできない足を何度も、もじもじ動かしたりしている。

 僕もそろそろ限界だった。

 目が慣れて来たとはいえ、暗闇の中だ。

 しかもここは、すでに二人も首を吊った状態で、死人が出た部屋なのだ。

 いつ誰が入って来るかわからない為、僕達は二時間以上何も話していない。

 座っている尻の辺りは、気持ち悪いほど濡れ、その汗の所為か、狭い押入れの中は、生暖かい空気が漂い、気分が悪くなりそうだった。

 一体いつまでここにいればいいのだろう?

 後何時間?

 いや、それよりも入る時間が早すぎたかもしれない。

 隣の美凪から、疲れたようなため息が聞こえて、僕はますます申し訳ない気持ちになった。

 美凪は今のうちに、部屋に返した方がいいかもしれない。

 そう思い、耳元に顔を近づけた時だった。

 かたかた、と小さな襖を開ける音が聞こえて、僕と美凪は一瞬で緊張する。

 ―――誰かが入ってきたのだ。

 入って来た人物は、部屋の真ん中まで来たらしい。

「え? 電気はつけないの?」

 その声に、美凪が僕を振り返った気配がした。

 東郷万沙子の声だった。

 彼女は、ここに来る前、僕が部屋まで行き話をしてきたのだ。

 もし。

 もし、あの人が尋ねてきて夜会いたいと言って来たら。

 その時は、断らず受けて欲しいと――――。





 万沙子が来た、と言う事は――――あの人が動いたという事だ―――。

 僕は自分の考えが間違っていなかった事に、妙な誇らしさを感じると共に、強烈な不安と何とも言えない奇妙な感情が押し寄せてきた。

「そんな所にいないで、あんたも入りなさいよ?」

 呼ばれた人物は、万沙子の言う通り、部屋に入ったらしく、静かに襖を閉めた音がした。

「で? こんな時間に呼び出して何の用なのさ?」

 万沙子の声は、歓迎ムードではない。

 そんなに気の置ける人物ではないのだろう。

「用って程じゃないの」

 その小さな声に、美凪の息を呑む音が微かに聞こえた。

 もう一人の人物は―――――奈々だった。

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