第7章 二通の遺言状(20)
昨晩の八時半過ぎだったという。
美凪が部屋へ来る前に、布団を一組運んでもらい、薬を飲みに台所へ行った帰りだった。
「突然、弘二おじさんが廊下の角で、待ち伏せしたたみたいで……。腕を掴まれて…」
弘二は今夜も酔っていた。
というより、円香は酔っていない弘二は、ほとんど見たことがなかった。いつも奥の部屋から出て来ることもない。食事も一人、部屋で済ませていたからだ。
だが、それでも円香は二、三日に一度の割合で弘二に会っていた。
いや。
弘二から会いに来ていたのだ。その殆んどの理由は酒の相手だった。円香も以前は、しつこさに負けて付き合ったことがあるのだが、今は姿を見ると、逃げるようになったという。
「どうしてですか? 弘二さんは、その……お酒を飲むと人が変わるとか?」
椎名が聞くと、円香は小さな声で「いえ…」と呟いた。
「人が変わるというか……。あの…」
「円香さん?」
「あの……体に触ってきたり…とか」
「乱暴してきたりするんですね?」
円香の細い背中が、微かに動いた。
弘二は、円香にとっては親戚のおじさんだ。酒の相手はともかく、体に触ったり、挙句乱暴するとはどういうおじさんなのだろう。円香が顔を見て逃げ出すのもわかるというものだ。
「それで、昨日も酒の相手を頼まれて言い合いになったんですね?」
「そんな…。言い合いなんて……」
「でも何か言い合っていたという証言があるんですよ」
万沙子の事だ。
椎名は、あんな万沙子の言う事などを信用しているのだろうか。
「昨日は…。弘二おじさんが急に酒じゃなくて話したい事があるから来て欲しいって……そう言われて」
「行かなかったのですか?」
「はい。……その…やっぱり怖かったので」
それはそうだろう。
どう考えても、酒の相手をさせる為の口実としか受取れない。
「でも、おじさんはわたしの腕を離してくれなくて。そしたら奈々ちゃんが来てくれて…後、美凪さんと秋緒君も」
昨日、僕らが見た場面だ。
円香は弘二に腕を掴まれて、奈々がそれを助けようとしている所だった。
「そうですか。で、弘二さんは諦めて行ってしまったと? その後また会ったりは?」
「していません。その後美凪さんと部屋へ戻って、それから出てません…」
僕の横で、美凪がウンウンと首を振っている。
円香があの後、部屋から出ていないというのは、本当なのだろう。
ボソボソと、椎名らが話している声が聞こえた。そして円香に「結構です」と告げた。事情聴衆が終わったのだ。だが、何故か円香は席を立とうとしない。
「円香さん? ご苦労様でした。もういいんですよ」
椎名が困った様に言いながら、円香のすぐ横に来て背中を軽く叩いているのが見えた。
円香はどうしたのだろう―――。
「あの…」
その時、円香の小さな声が聞こえた。
「ん? 何ですか?」
「あの時のおじさんは……ちょっと違ってたんです…」
「違う?」
「あのぅ……いつもより真剣な感じで。あの、いつもはふざけてからかってる感じなのに。今思うと、本当に何か話があったのかも…と思って。まさかおじさんが、あんな事になるなんて……わたし…びっくりして…!」
言いながら泣き出してしまった円香の背中を擦りながら、椎名は言った。
「それは今となっては、もうどうする事も出来ないけどね。君のせいで、おじさんがどうこうなった訳じゃないんだよ」
円香は、しゃくりあげながら、それでも頷いていた。
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