第6章 円香と美凪(6)



 僕は更に耳を澄ます。

 朝、タクシーの人に……江里子は確かにそう言っていた。彼女は知らないと言っていた筈だ。だが、その後ごそごそと動く音がして、僕は慌てて別の部屋へ逃げ込んだ。

 僕が隠れるのと殆んど同時に、江里子らが出て来たのを襖の隙間から確認した。

 逃げ込んだ部屋は真っ暗で、廊下にも小さな電灯が点いているだけだったから、二人には僕がここで聞いているのはわからない筈だ。



 出て来た江里子と脩は、しばらく無言で廊下に佇んでいた。

 江里子が遠慮がちに口を開く。

「…修さん。お願いです」

「……うん…。そう、だね」

 脩は足元を見ながら答えるが、どうにも歯切れが悪い。

「このままじゃ円香ちゃんにも気付かれますよ?」

「いや…円香はもう気が付いてるよ」

「まさか…」

 再び沈黙が続いた。

「…とにかく、折をみて話すから」

「はい…」

 二人は「おやすみ」と言葉を交わし、お互いの部屋へと戻って行った。










「……ふう」

 僕は額にびっしりと吹き出た汗を、シャツの袖を引っ張って、そこで拭い取った。

 蒸し暑い部屋なのに、汗は冷たかった。

 それから僕は、今更部屋を見渡した。薄暗い部屋にはやはり人の気配は無い。僕は少し安心して小さくため息をついた。

 その時、部屋の奥から鼻に残る香りがして、ゆっくりと奥へと進んだ。

「これか…」

 大きな仏壇だった。

 既に半分以上灰になった線香から細い灯が揺れていた。

 それを見て僕は、ここへ来てから東郷 正将の顔すら見ていない事に気が付いて、急いで部屋の灯りを点けると、仏壇に飛びついた。

 東郷 正将は想像していた通りの人物だった。

 いや。想像以上だった。

 頭髪は一本も無く、油でも塗っているかのように光っている。

 白くごわごわした眉毛の下に、細いが鋭い眼がやはり光っていた。分厚い唇は不満げに歪んで、尖った顎に生えた長い髭を更に強調させている。

 如何にも「頑固親父」とか「偏屈爺さん」などの言葉がぴったりくる顔だった。

 僕は遺影を眺めながら線香もあげていなかった事を思い出し、一本だけマッチで火を点けた。

 この夏は、いつ母親の墓参りに行くのだろうかと考えながら……。

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