第1章 夏休みの憂鬱(2)
江里子は今年の春頃からその東郷家の娘、円香の家庭教師をしているそうだ。
夏休み中は、住み込みで教えているのだという。
東郷家というのは、その土地では結構有名な資産家なのだそうだ。
家、土地など合わせると、資産は数十億と言われているらしい。
その東郷家の当主である正将氏が先月亡くなったのだという。資産家らしく、遺言状を遺していたので、親族を集めて弁護士の元、それを開いた所、財産のすべてを、孫の円香に譲り渡す。とあったのだ。
「正将氏には、四人の子供がいて……円香ちゃんのお父さんは正将氏の長男なんですけど……。他の親族の方が、反対して」
「しかし遺言は確かなものなのでしょう? その遺言状が偽物だと言われてるんですか」
「はぁ…それもあるんですけど、問題は正将氏の死因なんです」
実はその遺言状には、「老衰、事故、病気」の場合にとあり祖父、正将の死は、自殺か殺人の疑いがあるから遺言は無効だと親族から待ったがかかったのだという。
「それで警察の方には連絡を?」
「ええ。でも警察の方は、事故死に間違いないと……」
「でも親族の方が自殺か殺人だと仰るからには、何か不審な点があったのではないのですか?」
「私はその時居なかったので、詳しくは分からないのですけど、でもその事で円香ちゃんが毎日責められて……。それで、警察が駄目なら、探偵に頼んではどうかと親族の方達に言ってみたら、ぜひそうしたい…と」
父の事は、同じ家庭教師の派遣会社で知り合った友人から聞いていたのだそうだ。
「滝田さんという方の…。二年位前に、横浜の事件で」
「ああ! 滝田さんですね。ええ、覚えていますよ。滝田さんとお知り合いなんですか?」
「いえ、その滝田さんの知り合いの人が友人で…それで」
「……分かりました。その正将さんの死因を調べればいいんですね?」
「は、はい! お願い出来ますか?」
江里子は嬉しそうに顔を上げると、父に縋り付くような目を向ける。
そんな江里子を見て、父はちょっと微笑みながら言った。
「すぐにでもお伺いしたいのですが、生憎今別の仕事があるので、一週間程お待ちいただけますか」
それを聞くと、江里子は悲しそうに眉を下げた。
「一週間…ですか?」
父の座っているソファの後ろにある椅子に座って、一部始終を聞いていた僕は、おや?と思い、父に聞いてみた。
「父さん、東海林さんはどうしたの?」
東海林さんというのは、この事務所の唯一の所員で、趣味はボディビルとプロレス観戦というれっきとした女性である。髪は短く刈り上げ、いつも地味なパンツ姿で化粧っ気が全くないので、よく男に間違えられるのだが。
「東海林くんは今、別件で動いてもらってるんだ」
成る程、どおりで最近見かけなかったわけだ。
しかしそれを聞いた江里子は、益々悲しそうな顔をして俯いてしまった。
すると僕の横で、今まで大人しく座っていた美凪が突然立ち上がると、とんでもない事を言い出した。
「あのっ私達ここの助手なんです!所長が行くまで、私達が行きましょうか」
………私達、と言うのは僕と美凪の事なんだろうか……?
嫌な予感がして、美凪を見ると「ねっ秋緒!」と肩を叩かれた。
―――予感的中。
冗談じゃない。夏休み中は、塾にだって行くのだし、何の為に部活を早めに退部したのか分からない…。
父の後を継ぐつもりはないし、美凪の様に、遊んでるわけにはいかないのである。
しかし、そんな僕を無視して、美凪はどんどん話を進めて行く。
「私達学生なんですけど今、夏休みなんで明日からでも大丈夫ですよ。ねっおじさん!」
「しかしね…。美凪ちゃん」
流石の父も、美凪の提案には驚いたようだ。だいたい、子供なんかを本気で信用してくれるわけが無い。
僕は今まで父について、探偵業をした事は一度もないし、やり方すら分からないというのに。
だが、江里子は美凪の話を聞くと、嬉しそうに、身を乗り出してきた。
「ホントですか!? 本当に来てもらえますか?」
「はっはい! もちろんです!」
「ちょっと待って」
江里子と美凪の間に父が割り込んだ。
「岡さん、お気持ちはわかりますけど、彼らは高校生なんですよ。それでもよろしいのですか?」
「あ…はい。あの、円香ちゃんが高校生なんで……それで、円香ちゃんホントに一人ぼっちなんです、あの家で! だから…同じ位の歳の人が来たら、喜ぶと思うんです」
かなり必死な様子だ。僕達を呼びたい理由はこれだけでは無いような気がする…。
「ふむ…。なるほどね」
暫く考え込むと、父は僕に
「秋緒。お前、美凪ちゃんと一緒に行ってくれんか?」と言い出した。
「なっ。何、言ってんだよ! 僕は…」
「私も別件が済んだら、すぐに行くから。お前も岡さんの話を聞いていたんだろう?」
それはもちろん、聞いてはいたが……。
江里子を見ると、あのすがるような目で僕を見ていた。そんな顔をされると、大変辛いんだけど……。
「秋緒! 行ってあげようよ。おじさんだって、すぐ来てくれるっていうんだしさー。ねっ」
美凪と父と江里子の三人に囲まれて、僕はどうしようもない気持ちになっていた。本当はここで「いやだ! 僕は勉強するんだから!」と、大声で、断りたい所なのだが……
三人に見詰められ、僕は心の中の言葉とは、違う事を言ってしまった。
「僕ら…ホントに何も出来ないと思いますけど。それでもいいなら……」
僕の言葉に、三人の顔がぱあっと明るくなったのを見て、何か悔しくなった。
ちくしょう!
「では、いつからお伺いしたらいいでしょうか」
「出来れば明日にでも…いいですか?」
「あたしは大丈夫です!」
僕を無視して、どんどん話が決まっていく。
そして、僕の夏休みの計画は、完全に潰れてしまった。
「じゃ、あたし家に一旦戻るね! 後で電話するからさ。じゃね秋緒」
と、言うが早いが美凪は事務所を出て行った。
江里子は明日の午前十時に、東京駅で待ち合わせようと決めると、僕に何度も何度も頭を下げて、事務所を後にした。
「よく決心してくれたなあ」
二人が出て行った後、父が人事のように言った。僕はその言葉にカチンときた。
「何、言ってんだか! あんな風に三人に迫られたら、断れるわけないだろう!」
「まあまあ。父さんも早目に行くから、現場を見て来てくれよ」
にこりと笑う。何が癒し系だ!
しかし、自分で行くと言ったのだから、行って現場を調査したり、話を聞いたりしないといけないだろう……。
僕は、父の仕事をちゃんと見た事はないが、やる事は何となくわかる。
だが、具体的に何をしたらいいのかは、さっぱり分からない。
僕は父を見た。
明日までに、少し探偵について、勉強した方がいいかもしれない。
僕の視線に、父は僕が言わんとしている事が分かったらしく、にこにこしながら、やって来た。
ホントはこんな事をしている場合じゃないんだけどな………。
僕は、こっそりとため息をついた。
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