なつがくるたび
みすぎけい
第1章 夏休みの憂鬱(1)
―――東京某所。
賑やかな通りの裏側に、それとは対照的なうらびれた通りがある。
その通りに似つかわしい三階建てのビルがある。
「ビル」というには、失礼だがあまりにもみすぼらしい…。
たぶん元々は白かっただろう壁は、茶色く薄汚れその壁も、あちこちひび割れて、い つ崩れるんだろう?と、見た者の殆どがそう口にする程、うらびれていた。
なぜそんな建物が「ビル」なのかというと――、その「ビル」の入口に、大きな字で、「コスモスビルヂング」と書いてあるからだ。
どうしてコスモスなのかは謎だが、その入口にある、狭い階段を上がると、我が「遊佐・探偵事務所」がある。
ビルの一階部分は、どこかの倉庫らしく、ほとんどシャッターが閉まっている。
その上の二階が事務所で、三階は僕達が住んでいる。
以前は、事務所から徒歩二十分程の所にあるアパートに居たのだが所長である父が一度、大きな事件を解決した事も有って、口コミで客が増え、家が離れていると不都合な時が多くなったので、思い切って三階も借りたというわけだ。
僕の名前は遊佐秋緒。
父は先に言った通り、探偵をしている。
母は、僕が小さい頃に死んでしまっているので、僕は十七歳になる今まで、父と二人暮らしだ。
特に不自由だとは思った事はないが、父と僕には有り難い事に、幼なじみの美凪が、しょっちゅう、惣菜などのお裾分けを持って来てくれるので、それが結構助かっている。美凪の母親が、僕の母の親友だった事もあって、僕と美凪はいわゆる幼なじみというやつだ。
小・中学はともかく高校まで一緒で、更に部活も同じなんて(僕も美凪も陸上部なのだ。一緒といっても男女別だが…)
クラスメイト達に、あいつと付き合っているんだろうとからかわれても、仕方ないのかもしれない…。
だけど僕は、美凪を意識したことなんて、これっぽちもないんだ! あいつときたら全然女らしくないし、無遠慮で乱暴で、声はでかいし体もでかいし……。
だけど、だからと言って美凪を避ける理由はないし、それでなくとも世話になっているので、この頃ではからかいの言葉も、適当に聞き流している。
僕は用がない限り、美凪に話し掛けたり家に出向いたりしないが、美凪の方から、用がなくてもやって来るのだ。
先週から始まった夏休みも、二日おき位にやって来る。
僕はチラリと壁に貼ってあるカレンダーを見た。昨日は来なかったし、今日は朝から晴れているから、何となく今日来そうな気がした…。
と、ばんっばんっと乱暴に階段を駆け上がる音が響いて来た。
―――美凪だ…。
事務所のソファで(クーラーがあるのは事務所だけなのだ)参考書を読んでいた僕は、自室へ戻ろうと、慌てて立ち上がった。
僕が立ち上がったとほとんど同時に、事務所のドアが乱暴に開いた。
「おじさん! 秋緒! オハヨ!!」
「やあ。今日も元気だね。美凪ちゃん」
事務所のデスクで、書類に目を通していた父が、顔を上げて微笑んだ。
笑っている場合じゃないだろう。
うちのドアは、近い内に壊れるぞ……。
僕は、美凪を無視して三階の部屋へ戻ろうとした。が、美凪に腕を掴まれてしまった。
「なになに~? 夏休みだってのに、朝っぱらから勉強かよ?」
「……僕達、来年受験生だろ? してない方が変だよ」
「あはは! 変かな~?」
そう言って、美凪はカラカラと笑った。
美凪は赤いキャミソール、青いジーンズのパンツに、サンダルという、いつもの格好でやって来た。
たぶん、散歩がてら来たのだと思うが、今日は何の用だろう?
見たところ、差し入れを持って来た様でもないし……。
すると美凪は、父に近寄ると、デスクに両肘をついてわくわくした様子で言った。
「ねえ、おじさん。『謎の組織』とかから挑戦状とか来たぁ?」
「……謎の…? いいや、来てないけど」
父が困ったようにそう言うと、美凪はがっくりと項垂れた。
「な~んだ、まだか! おじさんなら、そろそろ来る頃だと思ったのにな」
僕は呆れて言った。
「バカかお前は! 漫画の読みすぎだよ!」
すると美凪は口を尖らせた。
「うるさいなあ~。あたしはおじさんのファンなんだよ! おじさんは日本一の探偵なんだから!」
「…日本一、ね」
僕は心の中で苦笑した。
探偵など、この日本には数多くいる。確かに父は、この世界では、それなりに知られた存在かもしれないが、漫画や小説に出て来るような、派手な存在ではない。
実は、美凪は体育会系の割に、探偵や推理小説といったものの大ファンで、数までは知らないが、かなり多くの本を読破している。
たぶん、僕の父の影響なのだろうけど。
美凪が、うちの事務所に顔を出すのも、父の仕事ぶりを見たい為もあるのだと思う。
「そんなに探偵に興味があるなら、美凪ちゃん、やってみる?」
僕達のやりとりを、にこにこしながら見ていた父が、そう静かに言った。
「ええ!? 駄目だよ、あたしは。才能ないもん!」
美凪は、少し赤くなって、慌てて首を振った。
まあ、確かに美凪には才能無し、と思うけど……。
せめて、ドアくらい静かに開け閉め出来ないと。
すると、美凪がちらりと僕を見た。
「…ね、秋緒なら……」
「嫌だね」
美凪が言い終わらない内に、僕は言った。
「何でだよ? 秋緒は頭もいいしさ」
「……」
「秋緒が探偵になったら、あたし手伝ってもいいし…」
「だから! 何度も言ってるだろ? 僕は教師になりたいんだ!」
「教師しながら、探偵すれば?」
「……出来る訳ないだろ」
美凪は、又がっくりと肩を落とした。
はっきり言って、僕は父の仕事に全くと言っていいほど、興味がない。
それは別に最近の話ではない。もっと子供の頃からだ。
それよりも、教師になりたかった。
父は、特に後を継がせたいとか、言って来た事はない。まあ、少しは継がせたいという気持ちもあるのだろうが―――。
だが、父は何も言わないので、僕は継がずに教師になる為、勉強している。
「秋緒。気が変わったら、教えてよね」
美凪がまだ言っていたが、僕は無視した。
気なんか変わるか!
と、その時だった。
事務所のドアが、微かに閉まる音がして、僕は驚いて振り返った。
するとそこに、見知らぬ女性がひっそりと立っていた。
父も美凪も今、気付いたのだろう。慌てて立ち上がる。
「あ、あの。ここって遊佐探偵事務所さんですよね?」
ぼそぼそとした、小さな声だった。
「はい。そうですよ」
父がそう言い、訪問者の女性に笑いかけた。
そして、事務所の中央に置いてある、ソファに座るよう勧める。
「ああ、秋緒。悪いんだけど、お茶を……」
「あ、あたしがやります!」
美凪が急いで、事務所に備え付けてある、小さな流しで湯を沸かし、二人分のお茶を盆にのせて来た。
僕はというと、なぜかこの女性に興味を持ち、ソファの後ろにあるパイプイスに座った。美凪も何も言わず、僕の横に腰掛けた。
いつの間にかひっそりと事務所に現れた女性は、岡 江里子といった。
父が、美凪が運んできたお茶を勧めると、どうも。と、蚊の泣くような小さな声で返事をして、俯いてしまった。
ウェーヴのかかった栗色の髪を肩まで垂らし、悲しそうな顔――眉と眼が下がり気味なので、悲しそうに見えるのだ――が、更に悲しげになる。
「どこからお話して下さってもいいんですよ。ゆっくりでいいので肩の力を抜いて下さいね」
父はそう言いながら、美凪が言う所の「癒し系の笑顔」でにこりと笑った。
美凪が言うには、父の笑顔は何でもしゃべってしまいたくなるような気持ちになるのだという……。僕には理解できないが。
しかし江里子は、大きく息を吸った後、ふうっとゆっくり息を吐いて、漸く顔を上げた。
「あの……私、鎌倉にある東郷さんというお宅で、家庭教師をしているんですが…」
おどおどとして家庭教師など出来るのだろうか? と思ったが、江里子はゆっくりだが、要領よく話し始めた。
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