エピローグ2 ― 魂の宿望 ―

 カツカツとリズムよく、軍靴の鳴らす音が周囲に反響していた。

 魔王城「隠れの宮」の廊下を颯爽と歩くのは、以前とは違って黒が基調の衣服に身を包んだシェキーナであった。

 

 エルス亡き後、シェキーナはメルルとの約束……と言うよりも一方的に押し付けられた言葉を守り、魔界に留まってエルナーシャの後見を務めていたのだった。

 もっとも経緯は兎も角、エルナーシャの面倒を見ると言う事に否やは無かったのだが。

 そして魔界最高の実力者として魔王城の全てを掌握し、自らを「闇の女王」と名乗ってその地位に君臨していた。

 奇しくもそれは……以前に冗談で話していたことが現実となった事を示していた。

 当初はその地位に就く事を渋っていたシェキーナであったが、今や魔界には他に人材がいないのも事実であった。

 何よりもシェキーナには、やろうとしていた事がある。

 その為には、魔界の全権を握っていた方が効率が良かったと言う側面もあったのだ。


 それから15年……。


 その年月がシェキーナにとって長かったのか短かったのだろうか……。

 それを知る事は彼女以外に出来ない。

 少なくとも、その容姿だけを見れば変化があった様には見受けられない。

 長寿であるエルフにしてみれば、僅か15年などあっという間の出来事でしかない。

 しかし彼女の相貌が湛える光は冷徹さを帯びており、纏う雰囲気も以前の彼女からは想像もつかないものだ。

 ……確実に時は流れており、彼女と彼女を取り巻く周囲の状況は間違いなく変化していたのだった。


「シェキーナ母様っ!」


 毅然とした態度で一人廊下を歩くシェキーナへと声を掛ける人物がいた。


 ―――エルナーシャであった。


 この15年で、エルナーシャも更に成長していた。

 生まれてから驚くべき速度で成長していた彼女であったがそれも随分と落ち着き、今は他の魔族少女と同じ16歳の姿を留めていた。

 長い年月を生きる魔族は、これからの何年か、十何年か……いや、数百年をこの姿で過ごすのだ。

 そしてその姿は、正しく「美しい少女」と銘打つに不足ないものだった。

 長く美しい紫色の髪と、それと同じ色を湛える瞳。

 褐色の肌は瑞々しく、正しく生命力が溢れていると言って良かった。

 頭から延びた2本の角も立派に成長し、もはやどこにも15年前の面影など残っていなかった。


 いや……15年前と変わらない処と言えば。


 それはシェキーナを悲し気に見つめる、その双眸に宿る光だろうか。


「……エルナか……」


 進めていた足を止めて、シェキーナはゆっくりと声の方へ……エルナーシャの方へと体を向けた。

 今や魔王城の誰もが彼女を恐れ、声を掛ける事すら憚れると言った威風を醸し出すシェキーナであったが、エルナーシャや他数人に対しては優しい……以前からの態度を崩してはいなかったのだった。

 そしてその1人であるエルナーシャも、シェキーナの事を恐れた事など一度も無かった。


「……やはり本当に……出陣されるのですか……?」


 だが今、エルナーシャの声は震えている。

 勿論、それは彼女の事を恐れての事では無い。

 

 哀しみ……。


 どうしようもない哀しみから、彼女の声は震えていたのだった。

 いや、声だけでは無く、その身体もどこか震えている。

 

「……ああ。人界では魔界に対する大規模な反抗作戦が画策されているとの事だ。今の魔界ならばそれに対する戦力も保有しているが、今はまだ“その刻”ではない。私はこれに対し打って出て、奴らの機先を制して抑え込もうと考えている」


 エルナーシャに対しては幾分優しさも滲ませるシェキーナだが、その返答は淡々としたものだった。

 そしてそれが、エルナーシャの不安を更に掻き立てたのだった。


「でも……でも、母様っ! 如何にシェキーナ母様と言えども、あれだけの手勢では……」


 眉目を曇らせてそう反論するエルナーシャの言い分ももっともだった。

 先程はシェキーナに出陣の真偽を問うてはいたものの、その実すでに調べはついていたのだ。

 それでもエルナーシャは、シェキーナの口から本当の事を……彼女の本心を聞かずにはいられなかったのだ。

 何故ならば、シェキーナが出陣するに際して引き連れる手勢は……僅かに200。

 先程シェキーナが口にした事を実行するにしては、余りにも少ないと言って良かった。


 シェキーナはエルナーシャの問い掛けには答えず、ただ優しい眼差しを浮かべ僅かな笑みのみを湛えていた。

 そしてそんな優しさを帯びた視線を受けたエルナーシャであったが、それに依って不安が解消されたと言う事は無い。

 寧ろ、その胸中に沸き立つ焦燥感は更に高まったのだった。


「……それに……今の母様のお体では……とても十分な力を発揮する事は出来ないと……存じます……」


 そんな気持ちに背を押されたかのように、エルナーシャは躊躇いがちに言葉を続けた。

 そしてその気持ち……口調と同様に、彼女は伏せ瞳がちな視線をおずおずとシェキーナの左腕に向けた。

 

 そこには……あるべきはずの左腕が……無かった。


「ふっ……エルナ……心配は無用よ。例え片腕だとて、“闇の女王”として恥じない戦いをしてみせる」


 シェキーナは何ら不安を感じさせない声音でそう返答すると、右掌をエルナーシャの頭に置いた。

 優しく頭を撫でられ僅かの間気持ち良さそうに目を閉じていたエルナーシャであったが、それもそう長くは続かなかった。

 やはり伏せた目はシェキーナを捉えず、俯き加減となったエルナーシャが口を開いた。


「か……母様は……死ぬ……おつもりなのでしょうか……?」


 エルナーシャの声は先程よりも更に震えていた。

 それは……聞いてはいけない……聞きたくない質問をしたからなのだろうか。

 それとも……シェキーナの答えに恐怖を感じているからかもしれない。


 シェキーナはエルナーシャの頭に置いた手を滑らせ、ゆっくりと彼女の頬に宛がった。

 エルナーシャはそれを気持ちよさそうに、シェキーナの手を両手で覆い目を閉じてその感触を感じていた。

 

 暫し……沈黙の時間が流れる。


 ただしそれは、張り詰めた緊張感のあるものでも……悲しみがその場を満たした時でも無く、温かく柔らかい……本当の親子が醸し出す雰囲気だった。

 ともすれば至福の時間を止めたのは……シェキーナであった。

 

 ゆっくりとシェキーナの手がエルナーシャの頬から離れる。

 エルナーシャはそれを名残惜しそうにしていたが、その動きに釣られる様にしてシェキーナへと視線を向けた。

 

 二人の視線が、漸く交錯する。

 

 ただそれだけで、二人は口で会話するよりも多くの事を語っていたのかもしれない。

 そしてその行き交う視線を途切れさせたのは……やはりシェキーナだった。


「……魔界の全権は、正式に魔王を襲名したエルナ……お前が引き継いだ。もう……私に、お前に何かをしてやる事も、教えてやることも無くなった……。この戦いは引退する私の、最後の花道を飾る戦だ。人界の馬鹿どもに一泡吹かせてやろうと思っているんだ」


 微笑を……と言うには、些か意地の悪い……あくどい笑みを浮かべたシェキーナが、エルナーシャを安心させるかのようにそう答えた。

 勿論、その内容はエルナーシャの先程の質問を肯定した様なもので、彼女としては一向に安心できる要素など皆無なのだが。

 

 ガバッと。


 突然、エルナーシャがシェキーナへと抱き付き、その胸に顔を埋めた。

 明瞭な答えを得られなくとも、エルナーシャはシェキーナの回答……その心情を正確に汲み取っていたのだった。

 

「……これからは、エルナ……あなたの思う通りに行動なさい。それが魔王となったあなたの……勤めなのです。そしていずれ目覚めるその能力ちからで、この魔界に住む人々を導くのです……良いですね?」


 エルナーシャを抱きしめながら、その耳元に囁くように優しく……シェキーナが話しかけた。

 その声音は正しく本当の母親の様であり、エルナーシャにはこれ以上ないと言う程に安堵出来る声であった。

 いつしかエルナーシャの頬を涙が伝っていた。

 そんなエルナーシャはシェキーナの話に、彼女の胸に顔をうずめたまま何度も頻りに頷いて答えていた。


「……レヴィア、アエッタ」


 エルナーシャの頭を撫でながら、傍らに控え二人のやり取りを無言で聞いていたレヴィアとアエッタにシェキーナは声を掛けた。

 レヴィアの容姿は15年前と全く変わらない。

 面立ちもスタイルも当然ながら、その衣装でさえ全く以て同じだった。

 

 ただ、アエッタは成長している様で、その姿はエルナーシャと同年代……16歳程度に見える。

 15年と言う月日は、人族である彼女の容姿を大きく変える筈である。

 それにも拘らずアエッタの姿が僅かしか変わっていないのは……メルルより受け継いだ能力によるものだろう。

 

「……はい……シェキーナ様……」


 シェキーナの呼びかけに、レヴィアは僅かに声を詰まらせて、アエッタは神妙な表情で頷いて答えたのだった。

 彼女達2人にとっても、シェキーナは偉大な指導者であり統治者であると言う以前に、肉親を思わせる存在だったのだ。

 そんなシェキーナが決死の出陣をすると言うのだから、彼女達の気持ちが沈んでいても致し方なかった。

 もっとも、そんな感情を今、エルナーシャの前で見せる訳にはいかない。

 彼女に気を使って……と言う訳では無く、エルナーシャを補佐する立場にある二人が、彼女と一緒になって悲しんではいられないのだ。

 それでもシェキーナを思う気持ちは、エルナーシャに負けるものではない。


「レヴィア……エルナはまだ“本当の能力”に目覚めていない。随分と力を付けたが、それでも圧倒的と言う程では無い……分かるわね?」


 そんなレヴィアとアエッタの心情が分かるのか。

 シェキーナは優しい眼差しのまま2人を見つめ、まずはレヴィアへと話しかけたのだった。


「……はい、理解しております……。シェキーナ様」


 そう答えたレヴィアの表情は、まるで遺言を聞いているかのように神妙なものだった。

 いや……やはり哀しみと寂しさがない交ぜとなった顔をしていた。

 

「以前にも言ったが……これからのお前の役割はより重要度を増す。エルナと……アエッタ、2人に良く相談し事に当たる回数を増やしなさい。……これも分かるわね?」


 そしてレヴィアは、シェキーナのこの言葉に力強く頷いて答えた。

 

 シェキーナが実権を握っていた今までは、多少不穏な空気が城内に流れてもそれを実行しようとする輩はいなかった。

 また、その様な策謀が明確となっても、シェキーナを陰で亡き者とする等そう簡単に出来る事でも無かったのだ。

 ある意味でレヴィアは、後の事を考える事も無く淡々とをこなしていれば良かった。

 だがこれからは、そう容易に立ち行かない事が増えるだろう。

 シェキーナはそこを指摘していたのだった。


「アエッタ……未だ“力の解放”は自覚できないの?」


 そしてシェキーナは、今度はアエッタへと話しかけた。


「……はい……申し訳ありません……」


 声を掛けられたアエッタは、本当に済まなそうな……落ち込んだような表情で俯いてそう答えたのだった。


 アエッタがメルルより引き継いだ“力”。

 “知識の宝珠”……その能力は、未だ全てが解放された訳では無い。

 膨大な情報はアエッタの中で存在しているものの、特に「魔法」に関しての知識は未だプロテクトが掛かっている状態であった。

 今のアエッタは、自身の独学により得た魔法しか使用出来なかったのだった。


「……ふむ。アエッタ……お前がメルルより受け継いだ能力……。その能力が何時解放されるのかは分からない。しかしアエッタ、お前のその知識だけでも、エルナには大いに役に立つはず。エルナを良く補佐し、彼女が誤った道を進まない様に支えてあげなさい」


 そんなアエッタを気遣う様に、シェキーナは殊更に優しい声音でそう話した。

 その声を聞いたアエッタの顔に、漸く笑みが戻って来た。

 今……この時。

 緊迫感がこの場を満たしていてもおかしくないこの時に於いて、シェキーナの声は彼女達に安堵感を与えていたのだった。


「……エルナ」


 そしてシェキーナは2人に話し掛け終え、自らの胸に顔をうずめたまま泣きじゃくるエルナへそう囁きかけた。

 エルナは涙をぬぐう事無く、真っ直ぐに見下ろすシェキーナへと目を向けた。


「エルナ……ありがとうエルナーシャ。私を……母と呼んでくれて。お前の母であったことが、私の人生にいろどりを与えてくれたわ」


「……母様」


 いよいよ最後の言葉だと、流石にエルナでも分かった。

 そして彼女の眼から零れ落ちる涙の量が増え……勢いを増す。


「……そして……忘れないで。私と……あなたの父である……エルスの想いを」


 シェキーナの言葉に、エルナーシャは言葉で答える事は出来ずただ頷く事しか出来ない。

 

「それじゃあ……元気でね。良い……? 決して人族と……聖霊ネネイには気を許してはいけませんよ」


 最後にシェキーナは、今までにも散々教え込んでいた言葉を付け加えた。

 それにもエルナーシャは、確りとした強い瞳を以て頷いて答えたのだった。

 それを確認したシェキーナは、ゆっくりとエルナーシャを引き離して……スルリと彼女の脇を擦り抜けて歩き出した。


「母……母様―――っ!」


 廊下を進むシェキーナの背中を、エルナーシャの声が追いかけてきた。

 最愛の娘が発する慟哭の言葉を聞いても、シェキーナは立ち止まらずまた……振り返るような事も無かった。

 エルナーシャは、シェキーナの姿が見えなくなるまで……見えなくなっても、その場でただ立ち尽くしていたのだった。





 エルナーシャの言葉に、シェキーナと言えども後ろ髪を引かれなかった訳では無い。

 それでもシェキーナは、エルナーシャに顔を向ける事は出来なかった。


 ―――今……その表情をエルナーシャに見られる訳にはいかなかったからだ。


 シェキーナの今の表情は……歓喜に打ち震えていた。

 口端の両端を吊り上げ、目を爛々と輝かせている。

 それは、先程まで最愛の娘達と今生の別れを済ませていた人物とは、とても同一だとは思えない程であった。


 そう……シェキーナは今……胸を躍らせていたのだ。


(……長かった……)


 シェキーナの足は規則正しく鈍る事無く……いや、心なしかその歩調は、徐々に早くなっている。


(僅か15年がこれほど長いと感じるなど……思いも依らなかった……)


 それはまるで、先を急ぐような……一刻も早く目的地へと向かいたいような……そんな血気に逸る姿にも見えた。


(……メルル。あなたには言いたい事が山ほどあるわ……覚悟しておきなさい)


 そして彼女の進行方向には、一際立派な扉が伺えた。

 それは、この城の中庭へと抜ける扉。

 その先には、シェキーナが選抜した「決死隊」200有余名が待機している筈である。


(私はちゃんとエルナを育て上げたわ。……もっとも、皆が望んだ様にはいかなかったけれど、それでも皆……許してくれるわよね?)


 シェキーナが扉の前まで来て、漸く足を止めた。

 そんな彼女を待ち構えていたのか、まるで自動開閉扉の様に勝手に……扉が開く。

 

「シェキーナ様っ! ご出陣っ!」


 中庭に控えていた兵の一人が、扉が開くのを確認してそう宣言する。

 城内側でそれを聞いていたシェキーナの心は、更に沸き立った。

 ゆっくりと開いて行く扉から漏れる光を感じて、シェキーナにはそれが自分を導く光のようにも感じていたのだった。


(……エルスッ! 遅くなったけれど……私も今からそちらへ向かいますっ! だからエルス……もう少しだけ待っていてっ!)


 そして扉が完全に開き切る。

 シェキーナの登場を確認した城内の兵が、具足を打ち鳴らして最敬礼を取った。

 だが肝心のシェキーナには、そんな兵達の姿も見えていない。

 彼女の瞳には……今、の姿を捉えていたのだった。




 今やシェキーナは、全身より歓喜の気勢を発していた。

 その表情を隠そうともせず、正しく喜びに打ち震えていたのだった。





 そしてシェキーナの……最期の戦いが始まろうとしていたのだった。



                                    了

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