残桜の声

 ゼルの凶刃が、僅かに無防備となったカナンの背中から襲い掛かり、胸にまで貫通した。

 

「ゴフッ……」


 殆ど無抵抗のカナンに成す術はなく、彼の口からは大量の吐血が見られたのだった。

 

「カナンのダンナァ―――……戦場で呆けてちゃあいけねぇなぁ―――……」


 長く愛用して来た短剣を根元まで埋めながら、ゼルがまるで悪魔の様にそう彼の耳元で囁いた。

 勿論、カナンとて油断していた訳では無い。

 如何にシェラとの激戦直後であり、大技を使用した後の満身創痍な状態であったとしても、それで彼の意識が緩むと言う事は無い。

 ゼルが言うようにここは戦場であり、カナンもその事を一時たりとて失念した事は無かった。

 当然、シェラに勝ったことを噛みしめて呆然としていた訳でも断じてなかったのだ。

 

「……ゼル……」


 それでもゼルは、いともあっさりとカナンの背後を取り、その背中に短剣を突き立てたのだった。

 カナンにしてみても、攻撃を受けている今でさえゼルの気配を感じ取る事が出来ないでいた。

 鋭い五感を持ち、僅かな気配にも敏感なカナンが、ゼルの接近に気付けないでいたのだ。

 他の誰にも、彼の存在を明確に察する事など出来ないだろう。


「くそっ……くそっ! カナン……ゼルッ!」


 その光景を、シェキーナは遠間から確認してそう毒づいていたのだった。

 彼女とて、何もゼルを野放しにしていた訳では無い。

 ゼルの、一切の気配が感じられなくなって、彼女も“最後の手段”を取っていたのだった。


 ―――それは……精霊の王に助力を願う……と言うもの。


 普段、彼女達「精霊魔法使い」が使役している精霊は、大抵が低位から中位と言った処だ。

 先日、ラフィーネがシェキーナを攻撃する為に使用した魔法も、木の上位精霊を使役したものだが、それでも彼女の精霊力を根こそぎ必要としていたのだった。

 そして精霊王とは、それら精霊の更に上位に君臨する……正しく「精霊たちの王」なのだ。

 森羅万象に働きかけている精霊を束ね、監視し、その配下に置く精霊王は、本来ならば「人」が協力を仰ぐ事さえ儘ならない存在だ。

 それをシェキーナは、己の全精霊力を以て呼びかけ、助力を願ったのだった。

 

 そんなシェキーナの視力は今、全ての事象を見通す……と言っても過言では無い。


「……クフッ!」


 そんな人知を超える力を使用しているのだ。

 シェキーナと言えども問題ないとは言い切れず、魔法を維持する為にかなりの負荷を身体へと掛けており、彼女は何度も喀血していたのだった。

 それにも拘らず、シェキーナはゼルの姿を完全には捉える事が出来ず、攻撃しあぐねていたのだった。

 此処に至っては、ゼルの技術をこそ称賛するほかは無い。

 それはシェキーナであっても、認めざるを得ない事だった。

 

「……ここだっ!」


 カナンが背後からゼルに刺されると言うショッキングな場面を目撃しても尚、シェキーナはその気をたわめる事は無かった。

 そして、カナンを攻撃したゼルが動きを止めたその瞬間を、彼女は見逃しはしなかったのだった。

 シェキーナは引き絞っていた弓を弾き、渾身を込めた矢を放った。

 



 ゼルに胸を貫かれたカナンは、それでも何とか体を動かそうと試みた……のだが。


「お―――っと―――っ! とっととくたばれってんだよぅ―――っ!」


 ゼルの持つ2本目の短剣が、再びカナンの背中に突き刺さった。

 シェキーナの矢に貫かれて動かす事も困難だった左手をそれでも駆使し、カナンに止めを刺そうとするゼルの執念は見事なものだった。

 

「……ふっ」


 しかしそれは、カナンの想像の範疇であった。

 最早動かす事も難儀な身体をそれでも動かしたのは、何も反撃を試みようとしての事では無い。

 ゼルの用心深さ……それを利用する為の、最後の悪あがきと言った処だった。


「……くっ!? カナンッ! 剣を……!」


 先程までその口に歪な笑みを浮かべていたゼルだったが、異常を感じて途端にそう口走ったのだった。

 それもその筈で、突きさした短剣がカナンの身体から……抜けないのだ。

 どれ程力を籠めようとも、どれ程短剣を動かそうとも、2本の愛刀がカナンの背中から抜け落ちると言う事は無かった。

 

「……っ!?」


 その直後、不吉な予兆を感じ取ったゼルが、即座にカナンの背後から飛び退いた。

 それと殆ど同時に、ゼルの頬を恐ろしく早い何かが通り過ぎて行った。

 

「う……うおっ!」


 反射的に両腕で顔をガードしたゼルだったが、その通り過ぎた物体が放つ風圧で顔と言わず腕と言わず、身体全体が切り刻まれたのだった。

 それは言うまでもなく、シェキーナの放った渾身の矢であった。

 

 もしもその矢が刺さっていれば、ゼルはその場で即死だっただろう。

 もしもその場から飛び退かず、腕で顔をガードしていなければ、直撃は免れたとしても大きなダメージを負っていたことに変わりはない。


 ゼルがその場を飛び退き、更には激痛の走る左腕も使ってガードしたのは偏に……彼の感じた“勘”に従ったのだった。

 ゼルの危機回避能力……いや、察知能力は、その生存本能も相まって恐るべきものだったのだ。


「……へっ」


 シェキーナの攻撃を躱したゼルは、そう唾棄して再び冷静さを取り戻すと、カナンに囚われたままの短剣を諦めてその気配を消したのだった。

 直後に、彼等の近くで爆発が起きる。

 ゼルがそちらへと目を向けると、エルスとアルナがその爆発に呑み込まれて吹き飛ばされているのが見えたのだった。


「……次はエルスを殺るか……」


 カナンに埋めた短剣は、間違いなく急所を突き致命傷だったのだ。

 ならばカナンに固執する事無く、次の獲物を……ゼルがそう考えても、決しておかしい事では無かった。




 

「何……だと……」


 満身創痍となったシェキーナは、その力を全て込めた攻撃をゼルに躱されて、襲い来る脱力感に苛まれていた。

 ただでさえ消耗の激しい「精霊王の眼」を使用しているのだ。

 程なくすれば、彼女は著しい疲労により気を失う事は自明の理だった。

 そしてそんな中で放った渾身の一撃さえ、ゼルには躱されてしまったのだ。

 警戒心を露わとし、再び姿を消したゼルを、シェキーナはもう捉えられないと半ば諦めていた。


 ―――その時だった。


『シェキーナ様。しっかりと奴を見るのです』


 どこかで聞いた事のある声が、シェキーナの耳に囁きかけたのだった。


『奴の気配じゃないだら。俺の気配を探れば、奴の姿が見える筈だらよ』


「お……お前達……は……?」


 それは先の戦闘で命を落としたアスタル、べべブル、そして……。


『今の―――……精霊王の力をお借りされているシェキーナ様なら―――きっと見える筈です―――』


 リリスが何とも間延びした声音でそう提言した。

 この様に切迫した戦場で、その話しぶりは何とも気の抜けるものであったが、同時にシェキーナの冷静さを取り戻すものでもあった。

 シェキーナはその声の導くままに、視覚の焦点をゼルでは無く記憶にあるべべブルへと切り替えた。

 先程までは捉える事も困難だったゼルの姿が、べべブルの気配に沿って浮かび上がる。

 

『あの時、何故お前が自身の身体を爆発させたのか腑に落ちなかったのだが……こういう理由があったのか』


 シェキーナの眼がゼルの姿を捉えると同時に、アスタルが感心した様にそう呟くと。


『あいつの……ゼルの能力は本当に厄介だっただら。俺ぁ、何としてでも奴を仕留める手段を講じておく必要があるって思っただら』


 アスタルの言葉に、べべブルが確信を持ってそう答え。


『うふふ―――……べべブルも―――本当に変わっていたのですね―――』


 そう付け加えるリリスは、何処か嬉しそうだった。


『う……うるせぇぞ、リリス』


『おい、お前達。もう時間も無いのだ。別れを済ませよう』


 シェキーナの耳には、まるで彼等が目の前に居るかのようなやり取りが繰り広げられていた。

 それは……随分と懐かしく感じる、楽しく穏やかな時間を再現した様であった。


『それではシェキーナ様。ご健勝をお祈りしております』


『俺等ぁ、もう行くだら。奴だけは、絶対に止めてくれだらよ』


『ではシェキーナ様―――。お先に行っております故―――』


 そんな時間が長く続く訳もなく。

 シェキーナの意識に現れた3人は、それぞれに挨拶を告げて去って行く。


『ですがシェキーナ様―――。来るのは出来るだけ遅くに―――お願いいたします―――』


 最後にリリスがそう念を押して、彼等の意識は完全に消え失せたのだった。


「……感謝する」


 今や見えない敵ではなくなったゼルを捉えながら、シェキーナは万感の思いを乗せた言葉を綴った。

 残る精霊力も僅かとなり、体力も限界に近づいている。

 それでもシェキーナは、どこか清々しい気分を感じていたのだった。


 ―――そして、最後の技を発動する。


幾億のイメンシダオ・星霜をアステリ・降らせよっイムベル! 彼の者をウィル・逃がす事フージー・能わずっローバル! 数多からなるマーテリア・神弓持ちてアルクス・万界を埋めるディアスティマ・矢を顕現せよっストリェラー・ヴェロス!」


 最期の精霊力を全て使い、シェキーナはゼルに精霊魔法を発動した。


「うおっ!?」


 その直後、ゼルの周囲360°四方……彼を中心としてドーム型に、夥しい数の矢が出現してゼルを取り囲んだのだった。

 それは何も、空中だけではなく。

 足元の地面からもやじりが覗いていた。

 さらに。


「シェ……シェキーナか……どうやって俺を……いや、これは……」


 ゼルも気付いたのだった。

 シェキーナの出現させた矢は、空中は勿論、地中や、更には異次元にまで出現していたのだった。

 これでは例えゼルが次元魔法にて異界に逃れようとも、そこに配された矢によって射抜かれてしまう。

 そしてその矢は、ほんの僅かな隙間すら造らずに、今にもゼルへと放たれようとしていた。


「へ……これじゃあ……逃げようも……」


「……死ね」


 ゼルが全てを言い終わる前に、シェキーナは全ての矢を彼へと向けて放ったのだった。

 無数の矢が彼に刺さるのに時間を要する訳もなく、ゼルは断末魔の声を上げる事もなく瞬時にして絶命した。

 体中に突き刺さった矢により、まるでハリネズミの様にして立ったまま息絶えたゼルの死に顔を見る事は出来ない。

 それでもシェキーナは、その事を気に掛ける事は無かった。


「……エルス……」


 未だエルスが戦っている……筈である。

 ここでゼルの事に思考を割いている余裕は無かったのだった。


 彼女はエルスの救援に向かおうとして。


 そこで力尽き……気を失ったのだった。

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