日常への帰還

 魔界全土を半ばバカンスの様に周っていたエルス達が、久方ぶりにエルナーシャを伴って魔王城へと戻って来たのは、凡そ半年後の事であった。

 言うまでもなく、各村落に造らせた“別荘”はエルナーシャの為であり、その教育の為である。

 ただ、それぞれの地域で最も風光明媚な場所に建てられた別荘は、同行したエルス達にも久方ぶりの息抜きを齎すのに十分な効果を有していた。

 凄惨な戦いの只中にあったエルス達にとってそれは、正しく魂の洗濯と言っても過言では無いだろう。

 

「……ふわ―――……。帰って来たな―――……」


 会議室……と言う名の居間と化している広間に入り、深々と椅子へと腰掛けたメルルが開口一番、しみじみとそう呟いた。

 勿論、ここは会議室であって、特定の誰かが使用する椅子……と言うのは存在していない……筈であった。

 ただいつの頃からか各員が着席する場所は決まっており、そこにはそれぞれ好みとする椅子が据え置かれていたのだった。


「ああ……何だかここに来て、帰って来たって実感するのも変な話だな」


 苦笑を浮かべながら、エルスもメルルの言葉に同意する。

 

「そうだな……。いつの間にかここが、我等の“場所”になっていたんだな……」


 そんなエルスに、シェキーナも同意を示す。

 カナンも深く頷いていた。


 それ程長く暮らしていた訳では無い。

 ましてやこの“隠れの宮”に移って来たのは、僅かに半年と少しばかり前だ。

 更に言えば、長く腰を落ち着けていた訳でも無く、早々に外遊と言う形で城を空けていたのだ。

 それでも彼等がそう感じるのは。

 それだけ“魔界”と言う場所に馴染んで来た……魔王城で働く面々に親近感を抱いて来たと言う事に他ならない。


「……さぁ―――て……これからの予定やけど……」


 当たり前の話だが、わざわざ会議室に集まったのは何も雑談をする為だけでは無い。

 ここは話し合いを行う場であり、少なくとも真面目な話し合いを行う処なのだ。


「ウチはわ。まぁ、この期に及んで変な事考える輩も居らんやろうけど、綱紀の引き締めは必要やろうからなぁ」


 メルルは、実に面倒臭そうにそう零した。

 それには、一同から乾いた笑いが洩れ出したのだった。


 すっかり常態化してしまっていたが、メルル達は間違いなく人族なのだ。間違っても魔族では無い。

 そんなメルルが、魔界の運営にまで真摯に取り組んでいるのだ。

 メルルだけでは無い。

 エルスやシェキーナ、カナンでさえ、何らかの形で魔界の行政や軍事に関わっている。

 彼等が自らの境遇に呆れ、笑ってしまうのも仕方の無い事だと言えた。


「……そうだなぁ……。俺は久しぶりに、親衛隊候補生達の様子でも……」


「……父様とうさまっ!」


 エルスがそう口にしようとしたその時、大きな声……と言うよりも元気な声と共に、会議室のドアを勢いよく開いて一人の少女が入って来た。


 言うまでもなくそれは、エルナーシャであった。


 6ヶ月と言う期間は、エルナーシャを更に成長させていた。

 既に言葉もハッキリと話し、その動きにも幼児の如き鈍さは見られない。

 自我もハッキリとしており、年齢的にはアエッタの少し年下と言って差し支えない程であった。


「……なんだい、エルナ。今は会議中だよ? 話なら後で……」


「あら、エルナもいずれ魔王になるのですから、会議に参加させていただいても良いのではないでしょうか?」


 そして口も達者となり、やや反抗期的な一面も見せていた。

 そんな彼女に、エルスを始めとした面々は苦笑いを余儀なくされていたのだった。

 本当に重要な会議ならば、エルス達も笑って済ませる様な事はしない。

 してはいけない事をしたならば、4人の内誰かが叱り付ける。

 ともすればエルナーシャに対して甘くなりがちな面々が、それでも彼女の教育に於いて正常に機能しているのは、やはり4人であったからだった。


「だからと言って、許しも無く入って来て良い訳では無いだろう、エルナ」

 

 そして、口煩く叱り付ける役目は、主にシェキーナなのだが……。


「……ごめんなさい……シェキーナ母様かあさま……」


 そしてそれ故にエルナーシャも、シェキーナにはどうにも頭が上がらない……と言う構図が出来上がっていた。


 さて、エルナーシャの口振りでも分かる通り、彼女はエルスの事を「父様とうさま」、シェキーナの事を「母様かあさま」と呼んでいる。

 これは何も、エルスとシェキーナが結婚した……と言う訳では無い。

 もしもそんな事が実現しようものなら、この魔界には先の戦いよりも大規模な戦闘が、メルルとシェキーナによって起こされていただろう。

 実はエルナーシャは、メルルの事も「メルル母様」と呼んでいた。

 ただ、エルナーシャの外見年齢は7、8歳。

 エルスの年齢を考えれば、彼を「父」と呼ぶには無理がある。

 メルルに至っては、外見で年齢を判断するならば16歳程度であり、どう考えても若すぎるきらいがある。

 辛うじて、落ち着いた風情のあるシェキーナが「母」と呼ばれるに違和感が無いものの、それでも若く美しい風体の彼女にはやや無理があった。

 因みに、エルナーシャはカナンの事を「おじ様」と呼んでいる。

 これは、メルルとシェキーナによる要望……と言うよりも強制であったのだが。

 

 ある時からエルスの事を「おとうさん」と呼び出したエルナーシャに、母親役を誰とするかと言う論議が主にメルルとシェキーナで執り行われ、妥協案としてこの状態が用いられたのだった。


 ―――閑話休題。


「まぁ、良いじゃないか、シェキーナ。それで……何か用があったんじゃないのか?」


 やはりエルナーシャには甘い……と言わざるを得ないエルスが、笑顔でシェキーナを宥めてエルナーシャに先を促した。

 神妙な面持ちとなっていたエルナーシャだが、エルスの言葉でパァっと表情を明るくして顔を上げたのだった。

 まるでそうなる事が分かっていたかのような行動は、子供のしたたかさと言う事だろう。

 これにはシェキーナは勿論、メルルとカナンも呆れ顔を作るしかなかった。


「はいっ! もし宜しければ、エルナにまた剣の稽古をつけて頂きたいのですっ!」

 

 エルナーシャはまるで子犬の様にエルスの傍まで駆け寄ると、期待に目を輝かせて彼に詰め寄った。

 エルスはそんなエルナーシャの頭をワシャワシャと撫でながら、それでも先ほど言おうとした言葉を彼女に告げた。


「すまないが、今日は親衛隊候補生達の様子を見ようと思ってるんだ。あれから半年経つし、彼等も様々な“壁”にぶつかっているかもしれないからね」


「そう……なのですか……」


 エルスの回答に、エルナーシャは目に見えてテンションを落としてそう呟いた。

 そんなエルナーシャに、エルスはやはり苦笑いを浮かべて彼女の頭をより強く撫でたのだが。


「なんや、そんなんやったら、カナンに見て貰ったらえーねん」


 メルルの次の言葉に、エルナーシャの頭が勢いよく持ち上がる。

 そしてその顔には……驚愕の表情が浮かんでいた。


「カ……カナンおじ様……に……?」


 そして問い返すその声も、僅かに震えている。


「ああ、それが良いんじゃないか? なぁ、カナン?」


 そしてその案に、エルスも賛同する。

 エルナーシャは表情をそのままに、まるで油の切れたブリキの玩具を連想させる動きで視線をカナンへと向ける。


「……ああ、俺はそれで構わないが?」


 そんなエルナーシャの視線を受けて、カナンはニッと笑みを浮かべてそう返事をした。

 そしてカナンのその答えを聞いて、エルナーシャがガックリと肩を落としたのだった。


「ふふふ……カナン、相手はまだ子供なんだから、十分に加減してやるんだぞ?」


 そんな様子を見ていたシェキーナが、釘を刺す様にカナンへとそう告げるも。


「……ん? 俺はいつも、十分手加減しているんだが?」


 カナンはそれに、比較的真面目な顔でそう返したのだった。

 そしてそれは、エルナーシャの気分を更に陰鬱とさせたのは言うまでもなかった。


 その数時間後、中庭にてカナンを相手にしている汗だくのエルナーシャが、目に涙を浮かべながら剣を振るう姿が目撃されたのは言うまでもない……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る