魔王城の戦い ― 5分前 ―

「く……ぐぐぐ……っ!」


 リリスの放った魔法の猛攻に、アルナは必死の形相で耐えていた。

 蒼き竜を模った魔法の一撃は、アルナの魔法障壁を打ち破ってはいない。

 アルナの展開したかなり強固な魔法障壁は、リリスの放った魔法を上回る防御力を発揮していた。

 しかし、上方より圧し掛かる様に襲い来る蒼龍の攻撃は、ともすればアルナを魔法障壁ごと押し潰さんとする勢いだった。

 アルナにかすり傷一つ負わせる事の出来ない攻撃だが、それに耐える為にアルナは必死でこらえる必要があったのだ。

 

 だが、アルナを襲っているのはあくまでも魔法だ。

 時間が来ればその効力を失い……霧散する。

 

 リリスの攻撃に耐えきったアルナは、吐息と共に嘲笑の笑いを口にした。


「は……はははっ! お前の攻撃など、私には決して届か……っ!?」


 そうしてリリスへと目を遣ったアルナは、目を見張り口にしていた言葉を途中で止められてしまったのだった。

 アルナが目にしたもの、それは。

 蒸気の様に蒼く立ち昇る霞を発して、再び右手を上方に構えているリリスの姿だった。


「……っ!?」

 

 アルナの眼が、リリスの掲げる上空へと遣られる。

 しかしそこに、具現化しているであろう魔法の兆候を確認出来なかったのだった。





 リリスとアルナのいる方角から、空気を震わす様な気配が齎されたと言うのに、べべブルとゼルはそちらの方へと気を遣らなかった。

 べべブルは、ゼルの雰囲気が変わった事に対して警戒心を最大にしていたし。

 ゼルにとってはアルナの事などどうでも良かったからだ。

 それよりも、今のゼルは目の前の敵……べべブルを如何にして血祭りにあげるのか……その事のみに思考を奪われていた。


 勝敗で言うならば、ゼルは自身の勝利を疑っていない。

 今、彼の脳裏を占めている事は、如何にしてこの生意気で醜い魔族を、屈辱の中で殺すのか……と言う事だけだった。

 

「……まずは……右腕だ」


 そしてその方法を思考の中で形としたゼルが、ゆっくりと口を開いた。


「……なんだら?」


 もっとも、それだけを告げられた所で、べべブルにはゼルが何を言いたいのか、すぐには意味が分からなかった。


「……次に左足……そして右足……左腕……動けなくなってから耳、鼻……」


 そこまで聞けば、べべブルにもゼルが何を考えているのかが理解出来た。

 自らの世界に没頭しているゼルに、べべブルが溜息交じりに口を開く。


「ブツブツと言ってないで、いい加減にこっちを……」


 そこまで言って、べべブルは自分の眼を疑った。

 今の今まで目の前にいたゼルの姿が、スッと闇に溶け込むかのように消え失せて行くのだ。

 それは、先程までの気配を押し殺したものとは到底違う。

 見ているにも拘らず、その存在を見失う程の隠密術。

 正しく、暗殺者アサシンの真骨頂と言った処だった。

 

「なんてぇ技能だら……」


 そしてべべブルは、素直にその技を認めたのだった。

 

「てめぇ……今度は何だってんだ……」


 今度は闇の中より、ゼルの驚く声が発せられる。

 ゼルの視線の先では、べべブルが黒く揺蕩たゆたもやを立ち昇らせていたのだった。





「何の……つもり……」

 

 やや驚愕を滲ませたアルナが、リリスに対してそう問いかけようとした……その時。

 

「天神、地神、海神よっ! 我の声を聞き届け賜えっ! そして願わくば、その恩恵を行使する聴許をっ! 其に仇成す存在を消滅せしめるお力を今、此処にっ!」


「……な……何だ……? その魔法は……?」


 リリスの口にする初めて聞く不思議な調べに、アルナは呆然とそう質問を口にしていた。

 勿論、その解がリリスより齎される筈もない。


 アルナも、世に存在する全ての魔法を知っている訳では無い。

 メルルでさえ、全ての魔法を熟知している訳では無いのだから、当然と言えば当然だった。

 それでも魔法には、ある一定の法則が存在しており、それを知る事でその魔法が「何の属性に帰属しているか」を知る事が出来る。

 この世にある魔法の、6つの属性どれかに属している。

 それぞれに相克関係を持ち、相対する魔法の属性を行使する事で攻撃を防ぎ、また打ち破る。

 だが今、アルナが耳にしているリリスの詠唱からは、そのどれにも当てはまらない“韻”が踏まれているのだった。


極重スプレモ・圧伏カイダ・スフェラっ!」


 そして、魔法を唱え終えた事により、リリスの魔法は既に完成していたのだった。

 スッと掲げていた右手を下ろすリリス。蒼きかすみが、その動きを追随する様に尾を引く。

 

 その途端。


 アルナに、驚くべき重圧がのしかかって来たのだった。


「こ……これはっ!?」


 それと同時に、彼女の頭上にあった屋根が……天井が、押し潰されたかの如く部屋の中へと崩れて来る。


「……このっ!」


 アルナはすかさず、力の限り防御障壁を展開した。

 その効果で、崩れ来る家屋の残骸が彼女に直撃する事は無かったのだが。

 圧し掛かる様な感覚は、防御魔法を展開したと言うのに一向に軽減される様子はない。


「この圧力は……一体……っ!?」


 思わず天を仰いだアルナは、そこにその正体を見たのだった。

 漆黒の球体が、崩れ落ちた天上一面を埋め尽くしていた。

 それがゆっくりと……ゆっくりとアルナ達のいる部屋へと降下を開始していた。

 

「これは……じゅ……重力っ!? 馬鹿なっ!」


 アルナはその正体を知り、絶句してしまった。


 重力の概念は、この世界にも齎されている。

 だがそれは、あくまでも空想に空想を重ねた、架空の概念だ。

 誰もそれを立証した者がいないのだから、それは仕方がない。

 しかしアルナは、以前にその事を記した書物を読んだことがあり、その存在を知っていたのだった。

 他の者ならば、何故自分が地に抑えつけられる圧力を受けているのか、到底知り様も無かった筈である。


 そしてその結果は、アルナに愕然とした事実を突きつけていた。

 重力……等と言う属性は、この世界に存在していない。

 どの属性にも属さない魔法……リリスの使っている魔法は、いわば「無属性」なのだ。

 それに対する有効な防御魔法は……存在していない。


「これ程の魔法を……お前は一体……何者だ―――っ!?」


 圧し掛かる力に耐えられず、アルナはすでに片膝を付いて尚、彼女は何とかその場で堪えるより他に無かったのだった。





「……その……気勢は何だ……!?」


 血の様に赤い湯気を発散させているアスタルより、今までにない恐るべき気配が放たれていた。

 シェラの動きが、その威圧に押されて止められた……のだが。


「……っ!? アルナッ!?」


 その時、アルナとリリスの方角より、先程よりもすさまじい波動が発せられているのをシェラは感じ取ったのだった。

 シェラは、既にそこで2人が争っている事を理解していた。

 そして、アルナが劣勢ではないかと言う想いにも囚われていたのだった。

 アルナがどの様に変容しようとも、彼女は僧侶である。

 事、戦闘においては、どうしても守り主体にならざるを得ない。

 如何にアルナがどの様な攻撃を受けても死なない……とはいえ、劣勢になる事は十分に考えられるのだ。

 

「ケリを着けさせてもらうっ!」


 シェラの、全力による攻撃が開始される。


「行かせはしないっ!」


 それにアスタルは、真っ向から受けて立った。

 先程よりも数段早いシェラの攻撃が剣閃を引く。

 それを受け、躱し、アスタルも攻撃を繰り出した。


「はああぁっ!」


 アスタルはシェラの攻撃を全て躱す事など出来ず、その腕に、足に、胴鎧に幾筋もの血筋を付ける事となった。

 中にはかなり深い物もあり、出血も相当な物となっている。


「うおおぉっ!」


 それに対して、シェラは辛うじてアスタルの攻撃を全て受け切る事に成功していた。

 

 そもそもの実力は……シェラが圧倒的に上であった。

 しかしアスタルは、何らかの方法でその地力を引き上げていた事にシェラは気付いている。

 それでも、まだ彼女の方が上を行っていた……のであったが。

 アスタルの眼が、決死の光を湛える。

 死を覚悟した者は、その力を数倍にも高める事が出来る。

 そんな事は、簡単な理屈だ。

 自分の体を気遣う事をしないのだから、どの様な攻撃に晒されても怯む事無く、どんな攻撃を受けても止まりはしない。

 どれ程無理な動きでも可能とし、自分の身体が傷つくのを顧みる事は無いのだ。

 今やアスタルの能力は、シェラに近づくほどとなっていた。


 ―――僅かな間だけではあるが。


 一撃でもまともに喰らえば、すぐにその場で決着がつく。

 その様な攻撃を、シェラもアスタルも繰り出していた。

 だが、その一撃を双方ともに与える事が出来ない。

 アスタルは、自らが傷つく事を厭わない事が、かえって攻撃を紙一重で躱す事に成功していたのだ。

 無数の斬撃を2人共掻い潜り、期せずして距離をとる事となったのだった。


 睨みあうアスタルとシェラ。

 その時間も、そう長いものでは無かった。


「次の一撃で最後だ」


 シェラの冷たく、重い一言が静かになった部屋に響き渡る。

 アスタルは何も答えなかったが、それに応じているのは明らかだった。

 

 そして。


 2人の、命を賭した一撃が放たれようとしていた。

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