魔王の名
「さてっと―――……お話も纏まって良かったわ―――」
赤子を抱くエルスを中心に集まっていた一同の後ろで、柏手を打ってそう声を掛けたのは言うまでもなく聖霊ネネイ。
振り返る一同の視線を受けても、彼女にはどこ吹く風だった。
「何や、まだ居ったんか? もう用事もないやろ―――? とっとと帰ったらどうやねん?」
目を半眼としてネネイを睨みつけるメルルが、皮肉もたっぷりにそう言い返した。
もっとも、その場にいる全員がその言葉には賛成であり、それぞれの視線にも同じような意味が込められている。
「いいえ―――。もう一つだけ……大事な話を忘れていました―――」
自分で自身の頭を軽く小突く仕草をするネネイは、何も知らない者であればつい顔が綻んでしまう程に愛らしい。
しかし彼女の性分を知っている一同は、逆に何を言い出すのかと身構えてしまったのだった。
「嫌ね―――そんなに大したことじゃ無いわ―――」
掌をヒラヒラト振って一同を和ませようとするネネイからは、彼女の言う通り如何わしい雰囲気は発せられていない。
「な―ま―え……名前よ。その子に名前を付けてあげないと……ね?」
ウインクして回答を口にしたネネイ。
「おおっ!」
そしてその言葉に、一同から帰って来る得心した意のどよめき。
確かに、早々に名前を付けなければこの子に呼び掛けるのも躊躇してしまう。
それに何よりも、「名前」とは名付けられて漸く「個人」として存在する事が出来るものだ。
俗に「名は体を表す」……と言われる様に、たかが名前と切って捨てる訳にはいかない。適当に付ける訳にはいかないのだ。
何せ、将来は魔界を担う魔王となる者なのだから。
「良い名がある。サタンと言う……」
「却下や」
アスタルの提案は、間髪入れずに放たれたメルルの言葉で強制的に取り下げられたのだった。
「な……何故だっ!? この名は多くの魔王様が名乗られた、由緒正しき……」
「だからだ。そんな注意を引く様な名など、この子に名乗らせる訳にはいかない」
納得のいかないアスタルに、シェキーナがもっともな答えを返した。
確かに、お伽噺にも登場する魔王の呼称……その代名詞である「サタン」等、何処へ行っても注目の的となる事は疑いない。
「そうだな……フレイ……と言うのはどうだ?」
シェキーナが僅かに考えて、思いついた名を口にするも。
「その名前は―――ちょっと―――……」
引き攣った顔をしたリリスに、やんわりとダメ出しを喰らっていた。
「そんな禍々しい名前……魔王様の名前には不似合いだら」
そしてその理由をべべブルが口にした。
「ま……まがまが……」
それを聞いたシェキーナが絶句してしまう。
シェキーナの思いついた名前は、エルフ族に伝わる古の神……その一柱の名だった。
ただ魔族にとって、人界側の神名は忌避すべきものだった。
「ケルベス」
「アルテミア」
「ベリアンヌ」
「アプロディテ」
その後も勇者チーム、魔族チームから様々な案が持ち出されるも、互いがその名を却下し一向に決まらない。
「もう―――……ちゃっちゃと決めちゃえば良いのに―――。何なら私が……」
「却下だっ!」
決まらない名前に、聖霊ネネイが痺れを切らしてそう切り出すも、その提案は双方から声を揃えて却下された。
「む―――……。それ以前に―――……あなた達、この子が男の子と女の子、どっちか分かって名前を出し合ってるの―――?」
「……はっ!?」
唇を尖らせて不満を露わとしてネネイだったが、メルル達の抱える根本的な問題を口にし、指摘されたメルル達が同時に息を呑んだ。
名前を出す事に熱中して、肝心の性別まで頭が回っていなかったのだった。
「もう……。女の子よ。新しい魔王様は……ね」
溜息交じりに聖霊ネネイが告げる。
「そうだ、エルス……あなたには何か案が無いのかしら―――?」
そして即座にエルスへと話を振った。
今までのやり取りで、唯一案を出していないのはエルスだけだったのだ。
全員の注目が、一斉に彼へと降り注ぐ。
「そ……そうだな―――……」
急に話を振られたエルスだったが、その表情は困ったと言うよりも照れていると言った風情だ。
彼にはどうやら腹案があり、それを言おうかどうか戸惑っているのだった。
その場の全員、エルスが口を開くのを待ち構えている。
「エ……エルナ……エルナーシャって言うのは……どうかな?」
顔を真っ赤にして、俯き加減でエルスはその名を口にした。
腕に抱く赤子がその名を気に入ったのか、満面の笑みを浮かべていた。
「……ふむ。中々に良い響きの名前ですな。我等に異存はございません」
アスタルが笑みを浮かべて合意し、リリスとべべブルからも異論は出なかった。
「そうやな―――……ウチも……別にええで―――」
「……ああ。異論ない」
ただメルルとシェキーナは、やや複雑な表情ながらも笑顔でそれを認めた。
彼女達はその名の由来を、何となく察していた。
エルスと……そして彼の愛する者の名から文字を取って付けられた名前だと言う事を……。
「エルナ……エルナーシャ……ね? 良い名前だわ―――」
結論が出たと察した聖霊ネネイが、嬉しそうにその名を復唱する。
そして。
「それじゃあ、また来るわね―――。バイバ―――イ」
そういってその姿を消したのだった。
「あほうっ! もう二度と来んな―――っ!」
姿の消えた聖霊をメルルの罵声が追って行った。
赤子の魔王に名前が与えられ、聖霊ネネイも去って行き、魔王城には平穏が訪れた……等と言う事は無かった。
いや……寧ろこれからが、真の戦いだと言って良かったのだった。
「ふわああぁぁっ! ふわああぁぁっ!」
「エルス……エル―――スッ! エルナを何とかしてくれ―――っ!」
「で……でも……何で泣いているのか俺にはさっぱり……」
「レヴィア、レヴィア―――ッ! 」
一夜明けた翌日から……いや、ネネイが去った直後から、エルス達の悪戦苦闘は始まった。
エルナーシャは当然の事ながら……赤子である。
それも生まれたばかりの……所謂“新生児”である。
例え将来の魔王であっても、彼女の成長に勇者の力を吸収しているとは言え、今のエルナが無力な赤ん坊である事に何の違いも無い。
―――言葉がしゃべれない。
―――何を要求しているのか分からない。
―――何よりも、何故泣いているのか理由が分からないのだ。
新生児の授乳は、数時間措きに1度。更にはおしめの交換や、
エルス達は、そんな「理解の及ばない魔物」を相手に、四苦八苦していたのだった。
魔王城にも「乳母」と言う者はいる。
だが今回に限って言えば、どれ程優れた乳母が何人いても意味が無いのだ。
何故なら……。
エルナーシャはエルスから離れる事は出来ないからだ。
エルスが彼女を手放さないと言う意味では無い。
エルスの腕から離れた途端、エルナーシャは大泣きしてしまうのだ。
それはつまり、エルスが全ての世話をしなければならないと言う事なのだが……。
そんな事は不可能だ。
未婚であり、子育て経験の無いエルスに、エルナの世話を全て熟す等出来よう筈も無い。
とりあえずと言おうか、アスタルは乳母役としてレヴィアと言う一人の魔族女性をエルスの近くに置いた。
外見上はエルス達よりも随分と若い。
しかし長寿種である魔族の事を考えれば、彼女が見た目通りの年齢である筈がない事は想像に難くなかった。
それにも関わらず。
「エ……エルナの世話は、ウチ等で協力してやろうか」
「そ……そうだな」
メルルとシェキーナの発案で、レヴィアの手を借りる事無くエルナーシャの世話をする事となったのだった。
「レヴィア……あ……あんたはウチ等に助言してくれれば良いから……な?」
「……畏まりました……」
口数の少なく表情の乏しいレヴィアは、メルルとシェキーナの提案をアッサリと受け入れたのだった。
若く端正な顔立ちのレヴィアが近づき、四六時中共に過ごす事をメルルとシェキーナが良しとする訳など無かった。
だがこの決断は、彼等に大いなる激動の日々を齎す事となった。
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