エルス、目覚める
太陽も黒の森より半分以上顔を出し、清々しい朝を演出していた。
空は雲一つない快晴。
気持ち良いと言うには申し分ない朝を演出している。
「シェキーナ―――ッ! 交代に来たで―――っ!」
もっとも、朝と言っても早朝の部類であり、まだまだ眠りについている者も多い。
そんな事もお構いなしにと、勢いよく客間の扉を開け放って入って来たのはメルルだった。
医術に精通する彼女は朝一番にエルスの容体を見る為、シェキーナの次に彼の様子を窺う役に買って出たのだった。
その声音は元気そのもの……。
しかしその瞼は落ちくぼみ、目の下にはハッキリと隈が出来ていた。
メルルは昨晩、一睡もしていない。
魔王城に所蔵されているありとあらゆる医学書や魔法、呪術に関する文献を、可能な限り部屋に集めて隈なく目を通していたのだった。
彼女の知識から考えれば、その本のどれもが取るに足らない事しか記されていない。
それでもメルルは何処か見落としが無いか、何か治療の糸口とならないかと、藁にも
「よい……っしょっと」
そしてメルルは、持ってきた蔵書を机の上に置いた。
そこには分厚い表紙を持つ、これまた分厚いページを有する書籍……それが5、6冊積まれていた。
彼女はこの部屋でも、まだまだ調べ物に耽るつもりなのだ。
「シェキーナ―――? 隣におるんか―――?」
寝室の方へと声を掛けながら、メルルはそちらへと歩を進める。
シェキーナを探る様な呼びかけだが、メルルには彼女が寝室に居ると疑っていなかった。
何故なら、寝室の扉が開いているからだ。
この状況では、どう考えてもシェキーナがエルスの様子を見に寝室へと入り込んでいる……としか思えなかったのだ。
メルルは、然して考える事も無く寝室の扉を潜る。
「シェキー……」
即座に姿を捉えたメルルが彼女の名前を呼ぼうとして……言い淀む。
それだけでは無く進めていた歩みが止まり……いや……動きそのものが、まるで固まってしまったかのように停止してしまったのだった。
メルルの視線の先では、シェキーナがベッドに横たわるエルスの傍らに佇んでいた。
そしてメルルの言葉を聞いて……だろう、顔だけを彼女の方へと向けた……いや……向けようとした。
だがその動きはスムーズと言うには程遠く、まるで油の切れたブリキの玩具が如く不自然な動きだった。
「メ……ル……」
動きだけでは無い。
彼女の言葉は掠れ、注意して耳を
「シェ……シェキ……あ……た……それ……」
メルルはゆっくりと右手を持ち上げ人差し指だけ伸ばすと、そのままシェキーナを指差したのだった。
「ち……が……」
その動きを受けたシェキーナは、錆びた機械の様に、今にもギギギと音を発しそうな動きで首を横に振る。
メルルの人差し指が、小刻みに震えている。
シェキーナの頭が、左右に振られる。
「シェキ……あんた……」
「ちが……違う……」
メルルの人差し指が大きく、そして激しく振動しだした。
シェキーナの首が早く、そして大きく振られる。
「シェキーナ―――ッ! それ、あんたの子―か―――っ!?」
「違うっ! 違うんだ―――っ!」
「ほわぁぁっ!」
二人の感情が爆発した直後、眠っていた赤子が驚きでだろう泣きだした。
「わぁっ!」
「うわっ!」
その泣き声を聞いて、メルルとシェキーナは同時に驚きの声を上げる。
特にシェキーナは、すでにパニックの様相を呈している。
エルスの傍らで眠っていた赤子を腕に抱いたのは、特に何か考えがあっての事では無かった。
ただ余りにも安らかな寝顔を見て、ついその子を抱いてしまっただけだった。
しかし今、それが思わぬ事態を招いている。
腕の中で、儚く弱々しい声で無く力ない存在……。
それをどうしていいのか、シェキーナには判断が付かなかったのだ。
出来るならば放り出したい……。
だが、そんな事など出来る訳も無い……。
兎に角、泣き止ませたい……。
しかし、何をどうすれば泣き止むのか見当も付かないのだ……。
「シェキーナ、とりあえずその子……あやしいや」
近づいて来たメルルが、赤子を覗き込みながらシェキーナへと進言する。
「いや……しかし……どうすれば良いのだ……?」
「どうすればって……」
殆ど子供を持て余し気味なシェキーナは、
当然と言えば当然なのだろうが、シェキーナは未婚である。
ましてや、出産の経験など……ない。
エルフの郷では新生児自体が珍しく、シェキーナ姉妹が郷では最年少でもあった。
そんな彼女に今まで、幼子をあやす経験など訪れなかったのだ。
その間にも、赤子の泣き声は止む事が無い。
慌てふためくシェキーナに、メルルが小さく溜息を吐いた。
「……んん……何だか……やけに賑やかだな……」
メルルがシェキーナからバトンを受け取る為に声を掛けようとした瞬間、ベッドより明らかに寝起きと思われる声が掛けられた。
「エルスッ!」
「エルスッ! 目覚めたのかっ!」
眠そうに眼をこすりながら上半身を起こすエルスに、メルルとシェキーナは喜色ばんだ声音を同時に発した。
その声量に、エルスはビクッと体を震わせて二人の方へと体を向けた。
そしてその声量に、赤子の泣き声は更にヒートアップしたのだった。
「……何だ、その赤ちゃんは……? ……ひょっとして……シェキーナの子……か……?」
シェキーナが赤子を抱く姿を見て、エルスは真っ先にそう考えたのだった。
もっとも、シェキーナにしてみれば誤解でしかない。
「ちが……違うっ! 違うぞっ! この子は……お前の傍に……」
顔を真っ赤にして反論するシェキーナは、照れているのか怒っているのやら……。
その瞳には涙が浮かび、正しく“半泣き状態”である。
「……俺の……傍に……?」
シェキーナの絞り出した声を聞いたエルスは、暫し思案の後、突然自身の掌を見たかと思うと、そのまま全身を
「……何や? どうしたんや、エルス?」
突然始まった余りにも不自然な行動に、メルルがエルスにそう問うた。
そんな問い掛けに答えず、エルスは一心に体中を探った後。
「……悪い、シェキーナ……メルル。その子は……俺の子かも知れない」
二っと笑顔を浮かべ、何ら悪びれた様子も見せずに、エルスはあっけらかんとしてそう言った。
頭を掻きながらそう答えたエルス。
その答えを聞いたシェキーナとメルル。
3人の動きは止まり、誰からも言葉が洩れ出ない……まるで全てが止まったかと思う様な刻が流れる……。
ただ……赤子の泣き声だけが規則正しく、そしてこの部屋に余すところなく響き渡っている。
「……エ……」
そんな時間が永遠に流れる訳でもなく……。
シェキーナとメルルから、同時に同じ発音の言葉が紡がれ出した。
「エ……?」
その言葉を、エルスがオウム返しするも。
「「エルス―――ッ!」」
その直後、二人の怒声がエルスへと向けて放たれたのだった。
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