第2話 夢の狭間で
橋の上から池へ落ちたことは、はっきりと覚えている。
身動き一つできない暗闇の中で柚は子供ながらに思った。
(私、このまま消えてしまうのかな……親不孝な娘でごめんなさい……)
なんて馬鹿なことをしたのだろうと考えていると、暗闇の中でふいに小さな光の玉が現れる。
その球は柚にゆっくりと近づき、目の前に来ると柚の周辺を足元からくるくる回り始めた。
回るごとに少しずつ大きくなっていくそれは、人の顔ぐらいのサイズになると動きを止め、柚の顔をゆっくりと包み始める。
柚は驚き抵抗しようとするも身動きが取れないため、仕方なくそれを受け入れる。
光が柚の顔を完全に包み込むと、白く眩しい世界から視点が急に切り替わった。
病院のベッドで赤子を抱く少しだけ若い頃の椿と、遺影写真でしか見たことのない善二の姿が見て取れる。
「この子の名前は柚にしよう」と善二が言うと、椿は嬉しそうに頷き「柚!この子の名前は柚ね!」と涙を流しながら何度も名前を呼ぶ。
それを見ていた柚は「お母さん!私はここにいるよ」と声を出そうとするも、思うように口が動かない。
暫く柚がその様子を眺めていると、また視点が切り替わる。
胸に柚を抱いた椿と善二が肩を並べ、吊り橋付近を仲睦まじげに歩いている。
橋を渡り始め、中央付近に差し掛かると椿が足を止めて顔を伏せ祈り始める。
すると柚の脳に直接、椿の祈りが聞こえ始めた。
(善二さんとの間に子を授かりました。これから三人で仲良く暮らしていきたいと思います。この子が健やかに育ちますように……)
椿の祈りが終わると、柚と椿が暮らしている家の中に視点が切り替わった。
そこには布団の上へ横になっている善二の姿と、必死に看病をする椿の姿が映る。
苦しそうに咳をする善二が力なく椿に語りかける。
「すまない椿、最後まで迷惑をかけてしまって、店のことは任せたよ」
椿はその言葉を聞いて悲しそうな顔で善二に言う。
「善二さん。そんなこと言わないで!私、善二さんがいなくなったら、これからどうしていっていいかわからないわ。私もすぐに善二さんの後を追うから……」
今にも泣きだしそうな椿を見て、善二は優しくも厳しい口調ではっきりと言った。
「椿、君がいなくなったら柚はどうする。誰が育てていくんだ?これから先の未来、柚にはたくさんの出会いや希望が待っているんだ。僕から君へ最後のお願いだ。柚をどうか頼む。先に逝く無責任な私を許してくれ」
椿はその言葉を聞き、肩を震わせながら頷いた。
すっと視点が切り替わると、少し成長した柚の姿がそこにあった。
椿のサポート無しに一人で歩けるようになった柚を椿が嬉しそうな顔で見つめる。
その光景を見ていた柚に、また椿の心の声が聞こえてきた。
(ねえ善二さん。聞こえますか?柚が歩けるようになりました。目の形があなたそっくりです。柚の笑った顔を見ると、あなたの顔を思い出します。善二さん。この子は私の希望です。私達をいつまでも見守っていてください)
柚の視界がゆっくりとぼやけ始め、暗闇に戻ると体の自由がきくようになった。
暗闇の奥に一本の細い光の筋が見える。
柚はその光を目指して歩き、光に辿りついて手を伸ばし触れると暗闇が綺麗な青空に変化した。
柚の体がふわりと浮くと、背中から下に向かってゆっくり降りていく感覚がする。
地面に体がつき、柚が体を起こすとそこには青々とした草原が広がっていた。
ふいに遠くから、柚の名前を呼ぶ声が聞こえる。
その声はどこか懐かしく、聞き覚えのある男性の声だった。
「柚、こっちへおいで」
柚が声を頼りに草原を歩いて丘を一つ越えると、一本の楓の木が生えていた。
楓の葉は如何にも目印だと言わんばかりに紅く色づき、存在感を顕わにしている。
楓の木の裏側へ回ると、木の幹を背にした人型の光が「待っていたよ」と柚に声をかけた。
柚が「お父さん?」と人型の光に声をかけると、その光は何も言わず頷いた。
「柚、大きくなったね。柚は好奇心旺盛で時々危なっかしいところがあるから、お父さんいつもハラハラしながら見ていたんだぞ」と善二が柚に語りかける。
それを聞いた柚は頬を赤く染め下を向いた。
すると善二が、自分の膝を指さしおいでと手招きをする。
柚は善二の膝上にちょこんと座ると「心配かけてごめんなさい」と素直に謝った。
それを見た善二が柚の頭を撫でながら語りかける。
「なあ柚、柚がいなくなったらお母さん凄く悲しむぞ、ここへ来る前に見せた映像だけどな、お母さんがどれだけ柚のことを大切に思っているのかをわかって欲しくて見せたんだ。だから柚、お父さんと約束しよう。人は凄く脆い生き物だ。もう危ないことをしては駄目だよ。もっと自分の体を大切にしなさい」
そういって柚の体を抱きしめた。
それを聞いた柚は「ごめんなさい、お父さん」と言って涙を流す。
暫く柚の頭を撫でていた善二が、泣き止んだ柚を膝から退けて「もう大丈夫か」と柚に語りかける。
父親との別れの時間が近づいていることに気付き、柚は首を横に振った。
善二が「柚は甘えん坊だな」と言いながらもう一度柚の頭を撫でて、その場からすっと立ち上がった。
「ごめんな、柚。お父さん時間だからもう行かなきゃいけないんだ。目が覚めたらお母さんにちゃんと謝るんだぞ!それとお母さんのこと頼むな!」
そう言ったあと、善二はゆっくりと空に登り始める。
「嫌だ!お父さん!行かないで!」と柚が泣き叫ぶと、天に登っていく善二が体勢を変え柚の頭を名残惜しそうに撫でる。
善二の手が柚の頭から離れた後、善二は思い出したかのように柚へ語りかける。
「柚が池で溺れた時に、助けてくれた男の子が実はいるんだ。その子に感謝するんだよ」
そう告げると、善二が柚へ手を振りながら空へ消えていった。
柚が「お父さん……」と寂しそうに呟き、そっと目を閉じた瞬間、意識がそこで途切れた。
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