第1話 奥泉 椿《おくいずみ つばき》

 椿は朝が来ると店舗前の掃除を始め、掃除が終わるとまだすやすやと寝ている柚に声をかける。


「柚、朝ごはんを作るからそろそろ起きなさい」


 声をかけてから暫く朝食作りに専念していると、柚が眠い目を擦りながら居間のテーブルに座った。


 順番に並べられる朝食へ柚が先に手を付けようとしたところを見て「こらっ!お父さんに挨拶してからでしょ!」と椿が柚を叱る。


 柚が仏壇前へ腰を落とすと同時に、椿が仏壇にお供えをして柚の隣に並び手を合わせる。「善二さん。今日も一日私達を見守っていて下さい」と椿が声に出して言うと、合わせるように柚が「ください」と呟く。


 その後二人でゆっくり朝食を摂り、柚は自室へ向かい、椿は開店準備へ取り掛かる。


 開店準備が終わり、椿が「ふう」と一息ついていると、お客さんがやってきた。


 毎年秋頃になると、紅葉を見るためにツアー客の集団が町を通る。


 紅葉を見るための通り道に土産屋自体がこの一店舗しかないため、朝から晩まで客足が絶えないのだ。


 レジに列ができ、一人一人丁寧に対応ができなくなってしまうため、椿は柚に店の手伝いをするよう声をかける。


「柚!店を手伝って!」


 自室から店舗側へ降りてきて観光客の多さに慌てる柚を見ながら微笑む椿は、自分の子供が日々成長していることに喜びを感じていた。


(初めて手伝いをさせたのは小学校三年生になったばかりの頃だったかな……あの頃は私の後ろによく隠れていたのよね……あれから六ヶ月、随分成長したものね)


 そんなことを思いながら柚を見つめていると、視線を感じ取ったのか柚が此方を振り向く。


「お母さん、どうしたの?」と不思議な顔をして尋ねる柚に「ううん、なんでもないの」と椿が微笑みながら返すと、柚は頬を膨らませそっぽを向いた。


 椿がどうフォローをしようか少し悩んでいると、子供連れのお客さんに声をかけられ、タイミングを完全に見失ってしまう。


 接客が終わり一息ついて店舗の中を見渡すと、柚の姿がないことに気付く。


 いつも通りの流れで、少し客が落ち着くと散歩と称し勝手にいなくなってしまう娘に椿は「また池の付近にいるのかな」と溜息混じりに呟いた。


 お腹が空く頃には帰ってくるだろうと思い、のんびり接客を続けていると店舗の外が騒がしいことに気が付いた。


「おい、池に子供が落ちたみたいだぞ」


 椿はその声に不安を感じながら更に聞き耳を立てていると、池から落ちた子供の特徴が柚と似通っていることに気付いた。


「楓葉の髪留めをしている小さな女の子だった」


 その声を聞いた途端、椿の疑念は確信へと変わり勢いよく店を飛び出した。


(柚……柚……ごめんなさい……私があんなこと言っていたから……)


(あなた……どうしよう……私あの子を失ったら……)


(善二さん、お願いです。柚をどうか……助けて下さい……)


 椿が我が子の無事を祈りながら走っていると、温泉宿を営んでいる夫婦が宿から怪訝な顔をして出てくることに気がつく。


 話をしている暇はないと椿は軽く会釈をし、そのまま通りすぎる。


 普段であれば話に割って入ってくる椿なのだが、軽く会釈をしてそのまま急ぎ足で通り過ぎる椿に主人と女将は不信感を覚え、後ろからぐっと腕を掴み強引に引き留めた。


「おう、椿!血相抱えてどうした?悪い物でも食ったか?」と温泉宿の主人がニヤつきながら言う。


「違う!違うの!柚が!柚が!」と言ったあと突然はらはらと涙を流し始める椿に温泉宿の主人が慌てていると、それを見た女将が二人へ落ち着きなさいと促す。


 主人の頭を「この馬鹿、あんたが慌ててどうするんだい」と言いながら小突いたあと、女将が落ち着かせるために椿の肩を抱き理由を尋ねる。


「なんだか表が騒がしくてね。何があったのか気になって出てきたんだけど、一体どうしたんだい?」


 泣きながら話す椿の背中をさすり、一頻り話を聞いた女将は「椿ちゃん!あんたの足じゃここから走っても二十分はかかるよ!お店のことは私に任せて早く行っておやり」と言って、主人に車を回すよう指示を出した。


 車が温泉宿の表へ止まると、女将は車の後部座席を開けまだ泣き止まない椿を半ば強制的に押し込み、椿の土産屋へ向かうため仲居と自分の娘へ指示を仰いだ。


「事情があって椿のお店を見ることになったから、宿のことはあんた達に任せるよ!」


「ハイッ!」と小気味良い返事が返ってきたことに安心しながら、女将はまだ少し不安そうにしている自分の娘へ耳打ちする。


「二人が戻ってきたら連絡するから、あんたも後で来るんだよ」


 そう言い残すと、颯爽と宿屋を出て女将は椿の土産屋へ向かった。


 池に向かう車中で、宿屋の主人は椿に声をかける。


「椿!善二がきっと柚ちゃんを守ってくれる。心配しなくても大丈夫だ」


 椿はその言葉を聞いて、少し安堵した表情を見せる。


 車で池に向かうこと数分、池付近に差し掛かると橋から若干離れたところに人だかりができているところを目にした椿は「ここで止めて」と温泉宿の主人に声をかけ車を止めさせた。


 車を降りた椿は急いでその場に駆け寄ると、人だかりのできている場所に「柚!柚なの?」と割って入る。


 草の上に静かな寝息を立てながら横たわっている柚を見て、椿はその場へ脱力した。


 それを見た観光客のおばさんが「あなたその子の親御さん?その子が落ちた瞬間あの男の子が飛び込んで、ここまで引っ張り上げてくれたのよ」と椿に声をかける。


 観光客のおばさんが指をさす方向を見ると、そこに男の子は存在せず、おばさんも「あら、どこにいったのかしらね」と周りを見渡し、ふらふらとその場を離れてしまう。


 椿は他の観光客にも声をかけてみたが、容姿しか覚えておらず、柚を助けた英雄は忽然とその場から姿を消してしまったのだと皆、口を揃えて言った。


 椿はその場の皆へ感謝をして柚を抱えながら車へ戻ると、柚を抱えた椿を見た温泉宿の主人がホッとした様子で胸を撫でおろす。


 帰りの道中、柚が目を閉じたまま一筋の涙を流し、寝言で「お父さん」と言っているのを聞いた椿と温泉宿の主人は驚き、彼が守ってくれたのではないかとお互い顔を見合わせ言った。


 帰路に着くと、温泉宿の女将と娘が柚を抱えた椿の元へ駆け寄る。


 温泉宿の娘が開口一番「よかった」とその場で泣き崩れ、椿が「心配かけてごめんね」と温泉宿の娘を慰める。


「まだ寝ているみたいだから起きるまで傍にいてあげな」と温泉宿の女将が娘に促すと、椿は温泉宿の娘を柚の自室へ案内した。


 椿が「柚が起きたら声をかけてね」と言うと、温泉宿の娘は「うん」と頷き、柚の側へ寄り添う。


 その後、店舗側へ降りた椿は温泉宿の女将へ「ありがとう」と何度もお礼を言うと、女将は照れ臭そうに頭を掻き「それじゃ、私は戻るよ」と言ってそそくさと土産屋を出ていった。


 客の入りも無くなったので店舗を閉め、椿は仏間へ行くと善二へ「柚を守ってくれてありがとう」とお礼を言い、柚が起きてくるまで待つことにした。

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