紅葉の歌が舞う吊橋の上で

Mirai.H

プロローグ

 木々が鮮やかな秋色に色づく頃になると、幼い頃の記憶が蘇ってくる。


 山奥にある小さな温泉町。


 宿の立ち並ぶ場所を先へ進むとトンネルがあり、抜けた先には池に架かる大きな吊橋。


 橋の中央付近に立てば、エメラルドグリーンの中に鮮やかな白縹色の不思議なコントラストの池が望める。


 ゆずの家は二階建てで一階に店舗のある造りになっている。


 柚が朝食を食べ終わり自室で寛いでいると、店舗側から母である椿つばきの声が聞こえてきた。


「柚!店を手伝って!」


 ここは紅葉の名所としても名高い場所である。


 温泉に土産屋、他にあるものと言えば食事処と喫茶店ぐらいだろうか。


 毎年秋頃は、観光客が増えるとともに店が忙しくなるため、柚はこの季節がくるのをいつも憂欝に感じていた。


 家が土産屋を営んでいるため、のんびり過ごすことが許されないのである。


 そのため散歩と称し、店の裏手にある山や池で遊んでいることも多かった。


 はいはい、わかりましたよと訝しげな顔をしつつ階段を下ると、店の中は多数の観光客で溢れ返っていた。


 店の手伝いといえばレジ打ちなどを想像できるが、身長が低く幼い柚は、商品の陳列やお客さんの案内を任されている。


 ある程度お客さんが捌けたところで「少し散歩へ行ってきます」と遠目から椿へ声をかけると逃げるようにいつもの池へ向かった。


 覚えたての口笛を吹きながら軽い足取りで池に到着し、吊橋の中央付近で立ち止まると、居間のテーブルから拝借してきたお饅頭の包装を解いて口に咥える。


 柚がもう少し小さかった頃、何度も椿に連れられて来たこの場所は、椿からとある伝承を聞いて以来柚のお気に入りの場所だ。


 最初は不思議に思わなかったが、来るたび同じ場所でよく立ち止まることに気づき、何故かを尋ねてみたところ、池には恋の神様が住んでいて、吊橋の中央で恋の祈りを捧げると成就するのだという。


 柚の父親であり椿の夫である善二ぜんじと出会わせてくれた神様へ、お礼をするため立ち止まっているのだと教えてくれた。


 この池については椿に沢山の話を聞いたが、「あの波間に見える水色の部分は神様の半身なのよ」は、まだ幼い柚に一番の衝撃を与えた。


 椿の作り話ではあるが、完全に信じ切ってしまったのだ。


 それからというもの、同年代の子供達より若干ませていた柚は、未だ見ぬ理想の旦那様を神様へ伝えるため足繁く池に通っているのである。


 のんびり池を眺めていると、波間に見える白縹の部分が風も吹いていないのに、いつも以上にゆらゆらと揺れているのに気が付いた。


 疲れているのかなと思い再度目を凝らして確認するものの、その白縹色はゆらゆらと変わらず動いている。


 暫く柚が見つめていると急に強い風が吹き始め赤に染まった木々の葉が風に舞い、池に少し高めの波が立つ、不思議とその風は爽やかで嫌な感じがせず、赤子の時に感じた母親の胸に包まれているような安心する感覚に柚は身を任せ、そっと瞼を閉じた。


 不思議な感覚に戸惑っているとふっと風が止む。


 恐る恐る瞼を開けるといつも遠目にあった白縹色が橋の上から見て柚の足元付近に移動していることに気付く。


 柚がいつも遠目で見ていたその部分は間近で見ると、より一層澄んだ水色をしており、柚は「綺麗…」と呟くと、再びその澄んだ水色を凝視した。


 その刹那に柚は「あの水色に飛び込んだらどうなるのだろう」という衝動に駆られ、いてもたってもいられなくなってしまったのだ。


 他の子供達よりも成熟していた柚ではあったのだが、こういった部分では幼子が興味を持つと手あたり次第口に咥えてしまうように、柚もまた幼子同様の興味本位で実行に移してしまう。


 柚は橋の欄干から外側へ身を乗り出し、そっと目を閉じるとそのまま橋の下に落ちていく、その最中大きく風が吹き柚の体を覆うと、柚は言いようのない不思議な感覚に包まれた。


 落下する柚を見ていた観光客は悲鳴をあげ、人が落ちたと騒ぐ声が周囲に響き渡るが、柚にはその声が聞こえず落ちていく瞬間の時間が無限にも感じられた。


 とてつもなく長く感じられる落下時間の中で、柚に悲鳴とは別物のはっきりとしない不思議な声が聞こえてくる。


「柚……」


「柚……あなたの……」


「柚、あなたの願いは!」


 ――ハッ!


 はっきりと声が聞こえた瞬間、我に返った柚は背中から水面に叩きつけられ沈み始めた。


 柚は必死にもがいたが、抵抗空しくゆっくりと水中へ飲み込まれていく。


 すると同時にもう一つ高い波音が周囲に響いた。


「もう一人飛び込んだぞ!」


 遠くからその声が聞こえたと同時に柚の意識はそこで途切れた。

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