第一章 魔女の居ない国

一節 夢の狭間に

柔らかな声が、耳朶を撫でた。


そよ風のようにたおやかで、どこか懐かしい。


不思議な声は、やがて薄らぎ。底なしの蒼に、消え———





「おい!タクト!」


荒々しい声に目を開くと同時、彼は背中に強い衝撃を感じた。思わずむせ返りながらも、「タクト」が顔を上げる。まだ頭が重く、意識が朦朧としていた。短く刈り込まれた深藍しんらんの髪は乱れ、明るい青の瞳も眠たげな色を映している。


視線の先には、どこか狐を想起させる顔立ちをした赤毛の男。どうやら、タクトの背中を叩いたのは彼らしい。身なりは軽く、いかにも傭兵といった出で立ちである。僅かに吊り上がった口角が彼の呆れをうまい具合に表していた。


「う…なんだ、イェンス」


「なんだ、って。お前、よく寝てた口で言えんな」


いよいよ脱力した様子で赤毛の男———イェンスが言うや、青年は「酒には弱い、知ってるだろう」と抗議する。早口でこそあるものの、勢いはない。消え入るような声だ。


「…奇妙な夢を見た」


「言い訳にもなってねえよ、それ」


話題の切り替えに失敗し、微かに悔しがる表情を上機嫌に覗き込みながら。男は快活な笑い声を上げた。その声も、辺りの喧騒に飲み込まれて消える。


当然。ここは酒場だ。


今や大陸内で屈指の栄華を誇る先進国であるこの国・エルレイム皇国の宮殿には、数え切れぬ程の人数が仕えている。夜勤めで帰れない衛兵もいるものの、大半は貴族街の傍に住みつつ通う。


今は丁度多くの兵士が勤めを終える夕刻。貴族街を出てすぐのこの場所は、城帰りの騎士やら召使いやらが集う憩いの場である。…最も、「憩い」だなんて穏やかな場所でもないが。まあ、城勤めにつかれた兵士たちを癒やしているのには間違いないだろう。


笑い、騒ぎ、思い思いに羽を伸ばす人々の例に漏れず、二人———王宮騎士・タクトと認可傭兵・イェンスもまた、杯をあおっていた訳なのだが…


「…にしても。容姿端麗で傍系王族の聖騎士パラディンが、こんな安い酒に潰れて寝ちまうとはなぁ。いい笑い話になりそうだぜ」


「や、やめろ」


彫刻のように整った精悍な顔が、赤く染まる。いつもはアンシュトレン領———彼の家系が統治する領地の名である———公子として、そこそこに引き締まった表情をしているものの、今は見る影もない。


「あー、ところでだ、イェンス」


妙に肩書を強調しながら冷やかす友人から目を逸らし、彼はわざとらしい咳払いをした。話題の転換を図ったらしい。


「セレネズの王妃が行方不明になった事、聞いてるな」


発せられたのは、この地から遥か西に離れた島国の名。国名こそ知っているが、エルレイムと交易は殆ど無いので、正直興味は無い。まあ、もともとエルレイムに忠誠を誓う筈の二人は、他国に興味を持ったことすらないのだが。


こいつ、よっぽど話を終わらせたかったんだな。


勘ぐりながら、適当に相槌を打つ。


「ああ、情報屋から聞いた。まー、向こうもすぐに公式発表するだろ」


しばらく、沈黙が流れる。気まずくはないが、何となくそわそわと体を動かした。


「メイサさーん、いつものよろしく」


沈黙を破ったのは、イェンスの少し酔いの回ったらしい声。せかせかと歩み去ろうとした女性はぴたりと足を止め、はきはきとした声で答えた。


「あれれ、今日はよく頼むんだねぇ!あんなに強い酒たくさん呑んで、上官様に叱られちゃったりしない?」


見知った顔の少女は、快活な声で茶々を入れる。それに答え、ちっちっち、とイェンスが人差し指を振った。気障な動作のつもりだろう。


「大丈夫だぜ、メイサさん。前みたいにしくじりはしないからさ?」


「そーお?信用できないねぇ!」


「酷いなぁ!じゃあ、またそれについて話し合う為に、お茶でも…」


「あっはは、やぁだぁ!」


言葉遊びを重ねる友人を前に、今度はタクトがため息をつく番だった。




「ん?なんか静かになったな」


一通り話が終わったのか、メイサを給仕に返した彼が怪訝そうに言った。確かに、さっきまであんなにも騒がしかった酒場が、心なしか静まっている。顔を見合わせ、互いに首を傾いだ瞬間————



重い、重い音を立てて。酒場の木の扉が、開いた。

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