どこでもない

0-5 俺願う、故に俺があってくれ

 ハローハロー。

 誰か俺の声が聞こえますでしょうか?

 俺の姿が見えますでしょうか?

 今の俺はなにも見えず、なにも聞こえず、声も出ているかどうかさえわからない状況です。

 おそらくですが、多分出ていないと思います。

 目の前は黒とも白ともいえない世界。

 音の無い世界。

 そもそも地に足がついてさえいない世界。

 ただただなにも無い世界。

 そこで無というものを実感している真っ最中です。

 何事も経験だとはいいますが、こういう経験はできればしたくなかったですね。

 まず問題として、この経験を活かす機会は来るのでしょうか?

 1秒ごとに自分という存在が無の中に消えていっているような感覚に襲われます。

 いや、時間の感覚さえもあやふやです。

 過ぎ去ったのは1秒なのか、1時間なのか、それとも1年なのか。

 それを知る手段はありません。

 1つ数える間に、世界がどれだけ進んだのかもわからないのです。

 気が付けば目も、口も、耳も、身体さえもありません。

 なにも見えないのではなく、見るという概念の喪失。

 聞くことについても同じですし、喋ることも同様です。

 自分の手を動かして、自分に触れることもままなりません。

 口も舌も唇も動かそうとしても上滑りして、意思が情報を放出しようともがいているだけにしかすぎません。

 ただここに意識というものがあるだけです。

 この意識はどこに行くのでしょうか?

 聞こえますか?

 見えますか?

 そもそもあなたは誰ですか?

 俺は誰ですか?


 俺は阿柄コウ。


 インターネットの無記名記事とフリーペーパーの店紹介記事と木っ端ソーシャルゲームの小シナリオとあとアルバイトで食いつなぐしがないフリーのライター。



 大丈夫、この認識は生きています。

 本当に?

 疑うと、いくつもの光景が流れ込んできます。

 そもそも、何故俺はこんな事になったのか。

 思い出していきます。

 草原で馬車に轢かれる俺。

 街の片隅の水路の中で溺れそうになっている俺。

 ネクロマンサーと倒す勇者の俺。

 邪法師の俺。

 邪法師のフリをする俺。

 腹と首を痛めベッドで死にかけている俺。

 魔王の俺。

 冒険者の俺。

 それを追う俺。

 学園生活を送る俺。

 スパイの真似事する俺。

 人形のような無表情の俺。

 さらに人形で四つ子の俺。

 そのどれもが曖昧で、正しい記憶なのかさえも不明瞭です。

 そもそもそれらは本当に俺の記憶なのでしょうか。

 考え浮かび消える様々な俺の姿。

 大型馬車と衝突する俺の姿。

 女騎士に刺される俺の姿。

 怪物に倒される俺の姿。

 屋上から飛び降りる俺の姿。

 炎に曝され溶けていく俺の姿。

 そしてそれらに怒り笑う俺の姿。

 俺はどこにいたのでしょう。

 まあ、もうどうでもいいことです。

 今まさに、俺という存在は消滅のその瞬間を迎えようとしているのです。

 これは『死』とどう違うのでしょうか。

 幸か不幸か、死の経験はあります。

 なんというか、死は一瞬でした。

 痛みがあっという間に全てを塗りつぶし、なにも意識することもできなくなり、そうして俺は死を迎えたのです。

 しかし、今のこれは違います。

 少しずつ、確実に、俺という存在が蝕まれ、俺でなくなり、やがて雲散霧消してしまうという未来。

 とはいえ、俺にはこの状況を打開する術はありません。

 俺は勇者でも邪法師でも魔王でも学生でも冒険者でもスパイでも人形でもなく、ライターでもなく、何者でもないのです。

 ひとことでいえば、リセットされつつある存在。

 こういう時、どうすればいいんでしょうね。

 そもそも、何故俺はこんな事になったのか。

 そうだ、異世界に来たからです。

 そしてそこで、馬車に撥ねられた。

 全てはそこから始まり、ここで終わるのでしょう。

 仕方ない。

 不思議と恐怖はありません。

 このまま消えて、忘れて、忘れられていくことでしょう。

 いや、そうじゃない。

 まだ、俺は、やり残したことがあるはずです。

 心残りがあるはずなんです。

 それすらももう曖昧ですが、それが引っかかって、意識を保つことができている、気がします。

 そもそも、何故俺はこんな事になったのか。

 それは、俺がそれを願ったからです。

 願った?

 誰に?

 何を?

 いつ?

 破棄されそうになる意識をその疑問で捕まえます。

 答えは出てきません。

 しかし、どこかからか言葉が帰ってきます。

 言葉にならない言葉。

 二重に聞こえる言葉の片割れ。


『お前の願いを言え』

『1つ目の願い』

『2つ目の願い』

『Xつ目の願い』

『契約完了』


 ああ、そうか。

 ようやくわかりました。

 尻尾を捕まえることができました。

 俺は願いを一つ使い損ねてしまっているんですね。

 ならば願いましょう。

 そして俺を保ちましょう。

 誰に願うのか。

 何を願うのか。

 どうやって願うのか。

 何も答えは出てきません。

 そもそも、今の俺には、もう願うべきことがわかりません。

 心から望む願いなどありません。

 それでも、最後に一つ、願いのない俺が願うとしたら……。


『もう一度、繰り返せ』


 すると、世界に音と光と痛みが満ちました。

 眼に入ってくるのは一面の草原と空に浮かぶ二つの太陽、そして翼竜の影。

 聞こえるのは離れていく複数の蹄の音。

 そして全身に走る衝撃の後の痛み。

 ここは異世界。

 最初の異世界。

 俺はこれから、どうしましょうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る