静寂だ。辺りにあるのは静寂だけで、かすかな光すら届かない暗闇の中に静寂だけが閉じ込められていた。夜目の利く俺だけれども、そんな俺にすら全体の輪郭を掴むことができないほどに暗い闇だった。

 そんな中、しんしんと降り積もる雪の如く、熱を持った血の脈流だけが静かに響いていた。いや、そうじゃない。単に俺の中でのみ、それを強く感じ取っているだけに過ぎない。

「ぅ、ぁぁ……」

 苦悶の呻きが暗闇の中に漏れ出ると同時に、それは暗闇の中へと吸い込まれていく。苦悶の声を上げたところで、誰も助けになどこない絶望的状況。その中で、苦悶だけが今の俺の唯一の友だった。

 硬い岩盤の上に蹲る俺は、ぶるぶると力を入れて仰向けになろうと必死に試みるも、力が入らず、それすらもできない。いっそのこと、気を失いたい――そんな気分だった。

 だが、そんな淡い望みも、この静寂の暗闇の中では贅沢な望みというもので、ただただ苦しめと言わんばかりに、灼熱の痛苦だけが体を苛んだ。

 こんな時、自分の不死身のタフガイぶりを呪ってしまいたくなる。いつもはそのタフさに救われるが、この時ばかりは逆で、なおのこと痛苦を至らしめる要因になっているのだ。

 それでも――と思った。死ぬよりはマシだ。死んでしまっては元も子もない。俺は自分で自分の死に場所というものを決めている。それが叶わないのでは、死んでも死にきれない。つまり、俺はまだこんな暗く湿っぽい地下空間で死ぬわけにはいかないのだ。

 そのかすかな願望だけが、今の俺の糧だった。何が何でも生き残り、松下の野郎どもに鉄槌を下してやるのだ。それが叶わないで死んでいいことなどあるものか。

 体を苛んでいた灼熱の痛みが、徐々に灼熱の業火となって俺の中を満たした。そうだ、こんな場所で死んでいいはずがない。俺にはもっと、相応しい死に場所があるはずだ。生まれは誰も選択できないが、少なくとも死に場所くらい選ぶ権利があるはずではないか。

 その権利を真っ向から受け止めるなら、俺の死に場所はここじゃない。だから生きるのだ。俺は世の中の弾かれ者だが、それでも平等に死に場所を選ぶ権利は与えられている。だから、こんな場所は死に場所として容認できない。

 沸々と湧き上がってきた怒りの業火に、俺は被弾した体に鞭打って起きろと喝を入れ、ぶるぶると体を再び動かした。動くたびに筋肉の収縮が体の中に食い込んだ弾丸との摩擦と圧縮により、全身に激しい苦痛が走った。

 思わず漏れ出る悲鳴。それでも、この苦痛こそが生きている証だと自分を言い聞かせた。出血はしているし、その量もおそらく相当なものだろう。それでも生きているのだ。だからまだ俺は死なない。

 そう言い聞かせて、力が入り切らない腕が決死の覚悟で上体を岩盤の地面から浮かした。今にも体から力が抜けそうだった。それを堪え、岩盤の凹凸に服の表面が切れて露出した肌を容赦なく切りつける。

 もうダメだ……弱気になった俺は、最後の力でもって地面を強く放した。その瞬間、体が仰向けになる。ようやく、ようやくできた寝返りだ。きっと今の俺よりも、生後数ヶ月の赤ん坊の方がまだ上手く寝返りを打てるだろう。それほど長く辛い寝返りだった。

 どしんと背中からどんもり打って呼吸が上手くできなかった。地面に背中を打ち付けた衝撃で、今度は被弾している銃痕にまた衝撃が伝わり、さらなる激痛が襲う。

「ぐぁぁ……」

 情けないが、こんな呻き声で精一杯だった。俺は、その激痛がわずかにでも和らぐまで、そのままの状態で荒い呼吸を続けながら、じっとしていた。

 そのままの状態でどれくらいたったろう。三〇分か一時間か……あるいはもう二時間三時間と経っているのか。まるで時間の感覚がない俺にとっては、それもまた一つの苦痛だった。

 ふと、拷問の種類には、相手に時間的感覚を失くし、徐々に相手の精神を蝕ませていく拷問法があるというのを思い出した。もっとも有効な手は暗闇、それに自分の中の感覚、つまり視覚、聴覚、触覚、味覚、それに嗅覚をも奪うやり方だと聞いたことがある。

 松下が意図的にこんな拷問法を思いついてこんなところに俺をやったのか、それは分からない。いけ好かないあの男のことだから、それは折り込み済みだと考えるべきだろうが、そのことを思い出した俺に、一つの希望が浮かんだのである。

 確かに、こんな暗闇で手足だけに限らず、体の何箇所かをも被弾している人間は、それこそ絶望的だ。確かに、月齢は最も進み、今日は新月期が最も進んでいる頃だ。だが、俺はそんじょそこらの人間じゃない。狼と同様の、超嗅覚の持ち主なのだ。

 そんな基本的なことすら忘れているなんて、とんだおっちょこちょいなのだ、俺という人間は。だから、それを思い出せ。きっと、今まで以上にスリルに満ちた、素晴らしい時間を迎えられるかもしれない。そんな気分で俺は自分を鼓舞した。

 感じろ。臭いを。何がある。全くの無味無臭などあり得るか? いいや、それは違う。確かに存在する。分からない連中は、それが感じ取れないだけだ。ましてや、俺は狼を祖にする人間なのだ、できないはずがない。

 俺は仰向けになったまま、最大限に鼻を使って現状とこの場の空気を嗅ぎ取った。何か、何かあるはずだ……何でも良い。何か、何か……。

 その時だった。仰向けに寝る俺の足元から先で、かすかに物音がした。鋭すぎる嗅覚が、鋭敏になりすぎた臭いを音、形状音として捉えたのだ。臭いの流れによって起こった空気のかすかな摩擦と振動で、臭いが俺の中に一つのイメージを齎すのである。

「な、なん……だ?」

 その臭いの異変に気付いた俺は、自分のものとも思えない枯れた声で言った。かさつき、それでいて何かが擦れるような臭いのイメージだった。

 最初は単なる偶然かと思ったが、そうではなかった。その形状音を齎すような臭いのイメージは、今度ははっきりと俺の耳にも聞こえたのだ。ぶるぶると首を上げようとするが、そうしようとすると全身の筋肉が緊張してしまい、銃痕に激痛が走る。

 おかげで、一瞬だけ足先を見るだけにとどまり、俺は首から力を抜いて再び仰向けになってしまう。後頭部が地面に当たると、ぬるりとした嫌な感触があった。夥しい出血によって、周囲に流れ出た血液が俺を中心に血溜まりを作っていたのである。

 しかし、そんな嫌な水音に混じって、あのかさついた摩擦音は、より大きくなって響いた。その異音に、俺の本能が警鐘を鳴らしだした。この音は異常だ。この音は危険だ。野生の本能が、狩猟者である狼の本能がそう告げている。

 だからこそ俺は必死になって全身に力を入れて起き上がろうとするも、なかなか思うようにいかない。その間にも摩擦音は大きくなっていき、次第に連続して絶え間なくその音を響かせるまでに至った。

 一体何が起きているのか、俺にはまるで想像もつかないが、とんでもないことが起きていることだけは間違いなかった。それも、命の危険に晒されるようなとんでもない事態である。

「ちく、しょうめ……」

 再び首を起こして足先の向こうに目をやった。すると、朧げながら、暗闇の向こうに何かが蠢いているのがかすかに分かる程度だが、確かに何かが動いていた。夜目が利いていてもこの程度にしか判断できないのだから、これが普通の人間ならとんでもなく恐怖に感じられたことだろう。

 全身を走る銃痕による激痛が辛いが、今はそんなことは言っていられなかった。この事態を一秒でも早く見極める必要に迫られている状況なのだ。かさつく異音は、もはや幻聴とは決していえないレベルで、はっきりと音をさせながら連続的になっていた。

 俺は、激痛のする体で首を上げると、その音の正体が分かった。白い骨そのものだったのである。それもそこらに散らかっていた単なる骨ではなかった。散らばっていた骨は、いつの間にか一箇所に集まっていただけでなく、それがあり得ない形状へと変化していたのである。

「……ば、馬鹿な」

 俺の足先、ほんの二メートルか三メートルほど先にガラクタ同然に散らばっていた骨と骨同士が、かちゃかちゃと音を立てながら組み合わさっていっているのだ。

 死者の証であるはずの、むき出しの骨が目の前で結合していき、果てには生前の骨格にまで組成されていく様を目の当たりにして、出来の悪いフィルム・ストーリーでも見ているかのような気分だった。

 カタカタと骨格標本さながらの、乾いた音をさせて出来上がった骨の組成体。人気のない洞窟の奥底で、暗闇の中に佇んでいるというだけで、それはまさに恐怖の対象そのものだった。

 俺は、声にもならない声でブルブルと声を上げようとしていた。自分でも情けないと思うが、それが現実だった。骨が突然、ひとりでに動き出しただけでなく、結合して一体の骨格標本になどなる様を目の当たりにすれば、誰だってそうなるに違いない。

 おまけに今の俺は、ほぼ通常の人間と同等並にまで落ちぶれている身だ。精神まで恐怖で参ってしまっているのだ。

 出来上がった骨格標本のそれは、徐々にカタカタと腕をあげようとしていた。尖った指の骨が何を指し示そうとしているのか理解できず、俺は恐怖で一センチでも遠くへ、スケルトン・モンスターから離れたい一心だった。

 しかし体は動かない。激痛はもちろん、まだ着弾のショックで体が上手く言うことを聞かなかったのだ。まずい。非常にまずい。洞窟の奥で、まさかこんなモンスターと出会うなんて考えたこともなかった。

 力を入れようとすると途端に力が抜け、上げていた首がゴツンと岩盤にぶつかった。その音がまずかったのか、はたまた初めから俺がここにいると理解していたのか、スケルトン・モンスターはカタカタと震えながら、のろのろとこっちへ向って一歩を踏み出した。

 数センチだって動けない今の俺には、向こうの一歩はあまりに大きな一歩だった。確実に距離を縮められるのだ。

 俺は何度も動け動けと体に念じたにも関わらず、体はまるで動こうとしない。ただただ、モンスターがまた一歩近づくのを恐怖に慄きながら見つめているだけで精一杯だ。そんな不甲斐なさが、俺の頭の中のどこかで弾けた。

 ぶるぶると震えながらも、乾いた音をさせて近づくスケルトン・モンスターだが、見たところ、骨しかないはずなのになぜ動けるのか、そんなどうでも良さそうな疑問が浮かんだのである。

 そもそも体の動きというのは、あくまで筋肉があり、その筋肉を神経で繋ぐことでそこに脳から発信されるかすかな電気信号を元に動くことが可能になるもののはずだ。であるはずなのに、なぜこの骨野郎は動いているのか。こんな疑問だった。

 骨はあくまで筋肉や内蔵など、自立できない柔らかい組織を固定させると同時に、急所足り得る部分を保護する、一種のプロテクターとしての役目を持った組織だ。つまり、骨および骨格単一で動くなど、ファンタジーでしかあり得ない。

 ならば、目の前のこれには、目を凝らしても判別しにくいほどの、神経系や筋肉などがあるのではないか。そんな答えに辿り着いた。つまり、こいつはほとんど死にかけているが、まだ死んでいない、そういう結論に達した。

 こんなの論理的でないことは重々承知の上だが、今はそういうことにしておきたい。これは俺が考えうる心の安寧のための言い訳だったかもしれないが、ともかく俺にはそんな風にしか思えなかった。

「……いや、論理的じゃないのは俺もか」

 突然自分が冷静になるのを感じた。かちゃかちゃと不穏な足音を立てながら近づいてくる骨野郎に対して、俺は論理だなんだというのが吹き飛んだのだ。今、目の前で起こっている事実だけを受け入れる。それが確実に自分を助ける確かなものだからだ。

 すると、これまで緊張で動かなかったはずの体が、不意に軽くなったような気がした。緊張がほぐれ、少なくとも上手く体が動かせない最悪の状況だけは脱したようだった。

 だが、それだけではまだ足りない。俺の体は今、人間並みにまでコンディションが落ちている。銃撃により被弾した体の激痛という点では、なんら改善することがないのだ。

 それでも意識が明瞭になったこと、冷静になったことで頭が回転し始めたこと、これらが自分の中で確かなものとして認識できるようになっただけ、いくらかはマシになっている。危険は変わらないが、冷静さを失った時ほど厄介なものはない。

 俺は銃痕から夥しい量の出血をしていることなどお構いなしに、骨野郎から逃れるべく気合を込めて地面を背にしたまま這いつくばるように地を蹴った。しかし、蹴る足は血溜まりになった地面を滑って上手く動かない。

「くそ……動きやがれ」

 悪態を吐きながらも、必死になって手足を動かし、地を腹ばいのまま這いつくばった。ゴツゴツした岩盤に表面に肌が傷つこうが、もはやどうでも良い。骨野郎がさらに近づく。白骨そのものの腕が、俺の足に伸びる。

「やめろ、触るな……」

 ぶるぶると震える白骨化している腕が俺の足に触れた。軽い、それでいて硬い、そんな感触だった。しかし尖った指骨の先が気色の悪いさめざめとした感覚でもって足首を掴む。

 俺はなりふり構わず叫んだ。とにかく逃れたい一心だった。叫ぶと体が熱くなり、その熱さが食い込ん弾丸の熱さを消した。

 シャアアア、と奇妙な呻き声とも単なる風の音とも知れない音が俺のすぐ上で鳴った。骨野郎がすぐ真上にまでやってきており、不自然なまでに尖った犬歯を持った頭蓋を大きく開いた。

 その瞬間、こいつが何をやろうとしているのか理解した。骨野郎は俺の血を吸う気なのだ。白骨化した死体が、人間のものとは思えない長く鋭い犬歯でもって人の血を吸う……それはまさに吸血鬼の持つ特徴そのものだ。

 襲われて初めて認識した。今までだって単なる人間とは思えないような連中と出会ってきたことのある俺だが、確かに死してなおも生きる、闇の住人というのが存在するのだとはっきりと認識したのだ。

 大きく上下に開いた頭蓋が不意に俺の腹の上に落ちた。骨ばかりで構成された体だけに、それを支えるための筋肉がほとんどないせいで、重い頭蓋が下を向くと途端に落ちてしまうのだ。

 俺の腹の上に落ちてきた頭蓋骨は、その犬歯を肌に食い込ませた。皮膚が裂け、注射針などおもちゃに思えるくらいに太い吸血歯が、俺の腹に刺さっている。その現実が、痛みとはまた違う恐怖感を伴わせた。

 その恐怖感に打ち震える俺をよそに、骨野郎はちゅうちゅうと俺の中から何かを吸い取り始めた。それが何なのか考えるまでもない。血だ。骨野郎は俺に流れている血を吸い出しているのである。

 単なる注射でも気分が悪くなる、ある意味で繊細な性格である俺の血を白骨化したスケルトン・モンスターに血を吸われるという事実が、嫌悪感を強くさせた。

「野郎……放せ」

 銃弾の食い込む腕を、強引に離そうと骨野郎の頭蓋骨にやった。ところが、その頭蓋骨に触れた途端、またも俺は嫌悪感に表情を引き攣らせる。頭蓋骨の表面が、ぬるぬると粘液混じりに粘体の膜が覆っていたからである。

 ぶよぶよなゼラチン質のものを、もっと液状化させたような感触で、思わず手を離した指や手の平にまとわりつくように残っていた。松下たちが照らしたところを覚えている限りでは、白骨群は全てカラカラに乾いている様子だった。だというのに、こいつの表面はまるで、今肌の下から露出したかのような、新鮮さを持っているのである。

 なおもちゅうちゅうと吸血する骨野郎に対し、俺も怯えるばかりでは出血多量で死なないとも言えない。俺はそこらの人間よりもタフだが、出血多量で死なない保証はどこにもないのだ。

 だからこそ、俺は再び骨野郎を引き剥がすべく頭を掴んだ。何度も押しのけようとするも、こんな文字通り、骨だけ野郎のどこにそんな力があるのかと不思議なくらいに、骨野郎の俺を押さえる力は強かった。これが単なる姿勢と、俺の出血による体力減であるだけとは到底思えない。

「畜生め……」

 引き剥がそうにも、だんだんと俺の押しのけようとする力が弱まっていくのを実感した。吸血されて、俺は確実に体力をも奪われていることは確実だった。その事実が、俺の意識を朦朧とさせ始めていた。

 大量の出血に、追い打ちをかけるように吸血された体には、もはや骨野郎を振りほどくほどの力すら無く、むしろ意識すら失わせるほどに達していたらしい。だんだんと遠のき始めた俺の意識は、いつの間にかブラックアウトしていった。



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