第4章 囚われの狼
1
時刻は深夜の四時を回り、そろそろ五時になろうという頃だった。深夜というよりも、むしろ早朝と言っても良い時間帯だ。
そんな早朝に俺はブルーバードの中で一人、冷え切った車内に息を吐き出した。かすかに白っぽい息がすぐに透明になって消える。昨日もこの時期にしては寒く、薄着ではいられないほどだったが今日はさらにも増して寒かった。
しかし、今の俺にはそんなことに構っている余裕はない。視線の先にある松下邸を監視している必要があるのだ。ちょっと前までならクレオがいたからこっちで勝手に動くことができたが、今回ばかりはそういうわけにはいかなかった。そのクレオが拉致されているのだ。
もう一度息を吐き出す。白っぽい息が消えて、かじかんだ手を口にやって息を吐きかけた。手の中で湿っぽい、暖かな空気はにわかに溜まってすぐにそれもなくなると、手を握っては開き、少しでも筋肉を解して暖かな血が巡るように運動させる。
早く出てこい。何度目かも分からない呟きの直後、ようやく動きがあった。視線の先にある松下邸の敷居を区切る門から、一台のリムジンが出てきたのだ。リムジンの中にはご丁寧にもレースがかけられており、中の人物の顔を拝むことができないが、それが誰か俺には分かっていた。
この屋敷の主である松下だ。ほんの何時間か前まで、名前すら知らなかった男の屋敷の前まで来て、三〇分ほど動向を監視していたのだ。理由はもちろん拐われたクレオの奪還にあった。
今乗るブルーバードの車底に発信機を取り付けた、小賢しい野郎、それがあのキザったらしいリムジンに乗っている松下という男だ。俺は何が何でも奴の正体を暴き、クレオを救出せねばならなかった。
そのために、松下について早急に知る必要があった俺は、深夜であるにも関わらず情報屋の神崎を電話で叩き起こし、松下について調べさせたのだ。奴は専用の回線を独自に使っているため、奴に電話するということは即ち緊急であることを意味する。
そもそも、その緊急の専用回線を知っているのも俺くらいなものだから、それがかかってきたということで神崎もまた、かかってきた段階ですぐに要件を問いだした。要件を伝えると、神崎は直ちに松下について調べてくれたというわけだ。
最も、俺が一番知りたかったのは松下がどこにいるか、である。ヴィクター日本支社の役員であることはすでに分かっていたので、後はそいつの住所と勤務先の住所さえ分かれば、後はこちらでどうとでもできるからだ。
しかし、今回はというと、そんなことばかり言ってはいられなかった。今は新月期、それも月齢が最も進んだ時期だった。そうなっては流石の俺も、もう少し情報を仕入れておきたいという気にもなった。
それを察したわけではないだろうが、神崎の奴は俺の知りたかった以上のことも教えてくれた。正確には、そうではないかという推測を含む情報なので、これについてはおまけと付け加えてきた。
「松下とはあるが、本名をタクミ・ヴィクティム・マツシタという。日本での出生で、その後アメリカに移り住んで現在の名に変わってる。ジョージア大学を経てヴィクター社に入社後、十数年を経て日本には半年ほど前に来日したみたいだな。ヴィクターの日本支社の役員という肩書で、異例のスピードで出世したやり手だ。
日本では新事業の一端で、主に医療方面でいくつかの研究機関に投資してるって話らしい。どうも、次期日本支社長として来日したっていう噂もあるようだ。まぁ、ここまで異例の出世した人間ならそれもあり得る話だが。
……まぁ、ここまでは表向きだ。松下って男、海外じゃ武器を地元のゲリラや反政府勢力との繋がりもあるだけでなく、各国正規軍へ新兵器売買の介入も行ってる。他にも、CIAの幹部とも繋がりがあるという黒い噂もある。こいつは相当な怪人物だぞ。
なんでこの人物を追ってるのか知らんが……気をつけろよ、ウルフ。細菌兵器なども売買のリストにあるっていう話もあるから、もしかしたら相当にヤバい取引がどっかで行われてる可能性もある」
そういって神崎は電話を切った。ついでに、松下が今日は朝早くに東京は海にまで行く予定があるらしいと告げて。そこで教えてもらった住所に張り込み、奴がそこへ向かうのを追跡することにしたのだ。
こういった事情を背景に、リムジンの後を俺の運転するブルーバードが追った。今日は新月期でも最も危険な日をまたぐので、最も警戒せねばならない日でもある。ちょっとやそっとでは死なないと自負している俺だが、それでも、一番人間に近くなることを思えば警戒しておくに越したことはない。
徐々にスピードを上げて、リムジンはまだ半分眠りこけた東京の街を走り、ついには高速へと入った。俺もそれに従い高速に入ると、たちまちリムジンはスピードを上げていき、追ってこちらもスピードを上げる。
早朝の首都高速は、こんな時間からでも働きに出ている運送屋や会社の営業車両が多かった。はたまた深夜から走り抜け、ようやく東京へと入ってきた車なのかもしれない。ともかく、思った以上に早朝の首都高速は車両がスピードを上げて賑わっている。
その中をリムジンは百キロ近いスピードで走り、いつしか湾岸線へと入っていった。俺もそれに続き、一台置いて湾岸線へと入った。一体どこに向っているのか、神崎からの情報でもそこまでは掴めなかったので不明だが、とにかく今はついていくしかない。
湾岸線をそろそろ東京を出ようかという頃、リムジンは高速を降りた。もう眼下に広がるのは東京湾に沿って敷き詰められた港のコンテナとコンクリートくらいしかない。どうやら松下の奴は港のどこかに用があるらしい。
俺も高速を降りて港近くのビルへと入っていくリムジンを見て、あえてその場をやり過ごした。近場の路地に車を置いて、足早にリムジンの入ったビルへと向かう。
港にほど近い場所に建つビルだけあって、ここはその関係のものかと思ったが違った。敷地に入ろうとして門の横にかかった会社表札を見て驚いた。そこには、辰野葬祭の文字が彫られていたのである。
辰野葬祭とは、岡部と大野の六道会とが関わった例の葬儀屋の名だ。辺りを見てみると、確かに周囲に何か特別なものがあるわけでもなく、小さなビルが点々としているだけで周りに大きなトラックが入っていきそうなものは見当たらない。
何日か前に神崎がハッキングして調べた時に似た周囲の風景と地形に、どことなく見覚えがある。俺は半ば嬉しいような、呆気に取られてしまったような、曖昧な空笑いに途端に肩の力が抜けた。
俺はなんて馬鹿だったのだ。もっと注意深くなる必要があると、これまで何度自分に言い聞かせてきたはずなのに。気が動転してそれを怠ったとは、そりゃ間抜け過ぎて笑いしか出なくなるのも当然だろう。
昨日、大野や岡部の口から辰野葬祭の名を聞いた時、あるいは神崎から情報を買った時、すでに関連付けられていたはずなのに、一度だって選択肢として考慮していなかった。これほどまでに馬鹿で、間抜けな話があるはずがない。
昨日の今日で、拐われたクレオたちの身柄がどうなっているのか不明だが、少なくともこの辰野葬祭を選択肢に入れなかったのは、完全に俺の落ち度だ。俺はもう一度乾いた笑いで自嘲し、大きくため息をついた。
良し。ともかく、これで明確になった。武器も売りさばくというヴィクター社の松下が、六道会と関連していることは間違いない。今俺たちの周囲に取り巻くピースに当てはまりそうなのは、こいつのバックにいるらしい武装勢力くらいしかないので、六道会と岡部運送との間を取り持つ松下の部隊が極めて濃厚だ。
まだ選択肢の一つ程度であっても、答えはすぐに見つかるだろう。俺は表情から一切の笑みを消して、プロフェッショナルとして辰野葬祭に乗り込んだ。
辰野葬祭そのものは、外観上何らおかしなところは見当たらなかった。それでも念には念を入れて、俺は人目のつかなさそうな裏口近い場所から塀をよじ登り、辰野葬祭の敷地へと侵入した。
流石に葬儀屋ということもあって火葬場も併設しているので、敷地の奥にはそれらしい煙突や施設が見える。その裏口近くの建屋の横に、松下が乗ってきたリムジンもあった。
俺は足早に無人になったリムジンのそばへ行き、車体にそっと触れる。温かい。つまり、ここへは今やってきたということなので、間違いなくここに松下の奴がいる事を物語っていた。記憶に控えておいた車のナンバーも同じだから間違いない。
すぐ近くの裏口へと行き、そっと扉を開けた。奴が入ったわけだから当然扉は開いており、難なく建屋の中へと侵入した俺の敏感な鼻に、微かに嗅ぎ取れる死臭。やはり葬儀場なのだなと思った。
しかし、新月期の俺にはその超嗅覚も鈍っていた。それでも、十分に近づけばそれらを嗅ぎ分けることには問題ないが、この時期の俺には事細かくそれらを嗅ぎ分けることは不可能だった。
にも関わらず、なおも明瞭である死の香り。それだけこの葬儀屋には死が充満しているということだろう。なんだが背筋がぞっとしないようで、俺はその悪寒を振り払うように松下の後を追った。
ざっと建屋を探索するうちに、妙な雰囲気であることに気がついた。死の臭いが充満しているというのに、まるで人の気配が感じられないのだ。葬儀屋の建屋で人の気配など謳ってみたところでおかしな話だが、こんなにも死の臭いがあるのに、そこに詰めている人の気配がしないのだ。
俺は地下へと降りていく階段を、火葬場と書かれた表示版に従って廊下をそちらに向った。廊下は一応の心の慰めにだろうか、地下であることを忘れさせるために木や草花が植えられ、周りを白い砂利石で敷き詰められていた。
その廊下を端までやってきたところ、閉じられている観音扉の入り口を前に聞き耳を立てた。まだ向こうから人の声がしないので大丈夫だ。新月期に入っている今は、いつも以上に用心深くならないと、ちょっとしたことでミスをしないとも限らない。俺は細心の注意を払いながらドアを開けて火葬場へと入った。
火葬場は三つ並び、普段はここで火葬する遺体の入った棺桶の引き入れなどをしているのだろう。その火葬場の奥には、普段職員くらいしか使わなさそうな通用口があった。そこを注意しながら入っていった。
すると、ようやく向こうから人の気配が感じられた。ぼそぼそと不明瞭ながら人の声も聞こえる。俺は丹田で呼吸を繰り返しながら廊下を声のする方へと向った。狼の習性である音無の歩み方だ。
どうやらそこは火葬場の最も重要な場所と言っても良い区画で、一〇畳程度の広さの部屋に良く分からない機械が一辺の壁にずらりと並んでいた。ここが遺体の入れられた火葬場の火を調整するコントロール・ルームだった。
機械上の画面には、火葬場内部をモニターしているらしい温度計や時間を計測するための数字が表示された枠などが設けられている。さすがに映像などあるはずもないが、これがもし映像まで映せるような仕組みだったら、ぞっとしない光景が映し出されそうだった。
俺はさらにその奥へと通じている部屋の扉に近寄った。どうやら、人の声はこの扉の向こうからしているようだった。今まで以上に気を張ってその向こうの話し声に耳を傾ける。
「それで、彼がロシアのスパイだと?」
「確証はありませんが」
「まあ良いでしょう。彼の素性については私の友人に聞けば何とでもなる。それよりも、なぜ嗅ぎ回っていたのか、そちらの方が重要です」
そんなやり取りがされていた。気配から察するに、他にも数人、最低でも五人か六人、あるいはそれ以上いることが確実だった。度々聞こえた足音や呼吸などから、それくらいの人数がいることが分かる。
俺は扉から一歩引いて、小さなため息を漏らした。安堵のため息だった。中がどういう状況か不明だが、今のやり取りを聞いている限り、まず喋っていたのは松下という男であるのは間違いない。キザったらしい喋り口調が何だか癪に障る奴で、即座に俺の中の誰かが本能的に牙を剥くように言った気がした。
それと、中にはクレオもいることも分かった。それもまだ生きている。最悪を想定した中では、まだいくらか望みが繋がった状況だ。もう死んでしまっていては話にならないのだから、一先ず安心したのだ。
だが、安心しきるにはまだ早い。松下に報告していたのは誰だろう。第一候補は昨晩クレオたちを拐った実働隊の内の一人だ。それに、ロシアのスパイがどうと言っていたのも、おそらく大野の爺からのタレコミであるに違いない。勝手な妄想に過ぎないが、信じた様子だったから爺さんの妄言をそのまま伝えたというところか。
さて、どうすべきだろう。内部の様子は一切分からない。袋小路なのか、それともまだ先があり、退路があるのか。それによって攻め方も変わる。個人的には後者であってほしい。退路があれば追っていけるし、その先でこちらの得意なゲリラ戦に持ち込めないとも限らないからだ。
退路が無いとなると、時間との勝負になる。今はまだ早朝なので職員もいないが、そのうちに早くにやってくるであろう職員に見つかろうものなら、それこそ厄介な話になる。しかも、袋小路に追い込んでいるにも関わらず、人質を始末してでも何とかしようとしないとも限らない。
俺はどうすべきかを考えた。しかし、考えている時間を敵が与えてくれるはずもなく、中からこちらに向って移動する足音が聞こえてきた。焦った俺は、コントロール・ルームの中央付近に置かれている大きなテーブルの下に隠れるしかなかった。
向って奥なら、連中からも俺の姿が見えるはずはないだろう。そう思って隠れた俺の予想通り、奥の部屋から出てきた連中は俺が隠れていることに気づくこと無く部屋を出ていこうとしていた。
その数、五名。プロと呼べるのは先頭と殿にいる二人だけで、後の三人はもはや馴染みの大野の爺と岡部総一、それに見知らぬ気取った服の男。カールした髪の襟足などを跳ねさせ、少年を思わせるような軽薄そうな笑みを浮かべている、奇妙な男だった。
人数を思えば、あの男が例の松下に違いない。俺はそう思い込み、テーブルから抜け出るとそのまま置くの部屋へと入っていった。それが誤算だった。
「誰だ」
中にいるのは以上のメンバー以外に、クレオくらいだと思っていたらそうじゃなかったのだ。台に寝かされているクレオの他、武装した大男一名ともう一人、高そうなスーツに身をまとった長身の男だ。
武装した男が侵入してきた俺に向って叫びながら、持っていた銃をこちらにむけて構えるのを視界に収めながら、引き金が絞られる前に男の懐近くまで前ひねりで飛び込む。
その俺の上を、何か熱い物が掠めていった。引き金が絞られたのだ。ほんの僅かな差で俺は奴の初撃を逃れることができたのである。
回転の勢いのまま身を起こして武装した男の腹に組み付いた。体重七〇キロ足らずの俺だが、回転と飛び込んだ勢いとで男に組み付いたため、さすがに向こうも耐えきれずに尻もちをついた。
「何者だ!」
男が叫ぶ。月齢が一番進んでいるこの時期、とにかく今の俺を支えるのはこれまでの経験から養われた闘いの直感だけだった。拳銃のグリップで頭を思い切り打たれようが、俺はお構いなしだった。
男は拳銃で何とか組み付いた俺を剥がそうと必死の抵抗を試みていた。体格も俺よりも一回りはある大男で、人間並みになっている俺にとっても、決して馬鹿にはできない大きな体格差だ。
しかし幸運だったのは、組み敷いた状態では男も簡単に手を出しにくい位置に組み付いたことだろう。思い切り殴りつけようとしても、十分に力の伝わらない位置では、男も狼のごとくへばり付くように組み付いた俺を剥がすのはよほど困難だった。
「野郎」
男が悪態を吐きながら、俺の頭を掴んだ。短めとはいえ、しっかりと生えそろった髪が思い切り掴まれて引き上げられようとしていた。俺は余って不意に不沙汰になった腕を男の首にやった。
察した男が首にかかった腕を離そうともがく。しかし、内に秘めた野獣の血が騒ぎ、俺はこの体勢からは信じられないほどの男の首を締め付けにかかる。
「う、ぐっ」
漏れる苦悶の声。それが最後だった。もうあと少しで男を締め上ることができる……そう思った直後、脇腹に猛烈な痛みと衝撃が伝わり、俺は組みついた腕と足を緩めてしまう。
「がっ」
脇腹を思い切り蹴られたと分かったのは、組み敷いた男から離れて床に体を投げ出したときだった。蹴ったのは誰だ……痛みを堪えながら、忌々しくその人物を見上げた。
「ちょっとは遠慮したまえよ、無様な三流探偵くん」
癪に触る口調で、スーツの男が言った。やや、声を荒げてスーツの襟を直しているのが、なお腹立たしかった。
「き、貴様……」
なんとか地べたから起きようとする俺は、今度は逆に組み敷かれてしまい、台詞も途中のまま床にうつ伏せにされる。直後に、退出した武装メンバー二人も大男の銃声に気付き、駆け込んできた。完全に形勢が逆転してしまった瞬間だった。
「全く、君もだらしないよ。こんなチンピラ風情にこうも簡単に不意を突かれるなんてね。こういう時のために高い給料を払っていることをもう一度良く考えなさい」
「も、申し訳ありません」
男はたじたじになってスーツの男に平謝りした。なんだか珍妙な光景だった。スーツの出で立ちである男は、身長こそ俺よりも高いが小さめのサイズであるのに、俺よりも一回りは大きく屈強そうな男が申し訳なさそうに頭を垂れている様子なのだ。
「まぁいい。その男を餌にすれば、必ず君はやってくると思ってましたよ、大神くん。いや、君の場合はウルフと言った方が名通りが良いらしいから、ウルフと呼んだほうが良いかね?」
「お前が松下だな」
男からの質問に答えることなく言った。こんな野郎にいちいち律儀に言葉を交わしてやる必要もない。しかし、完全に安全圏に自分がいることを知っている男は、余裕の笑みを浮かべたままだ。
俺は根比べに負けたような気分で、ため息をつきながら言った。
「……好きにすりゃいい。それよりも、このむさ苦しいのを早くどけるよう言ってくれないか」
「君の自尊心に則って私もウルフと呼ばせてもらおうか。そう、私が松下だ。こんなことは知ってるだろうが、ヴィクター社の日本支部に身を置いている。
それにしても自分が不利な状況だというのに、よくもまぁそんな減らず口が叩けるものだね君は。チンピラだが、中々に骨はありそうだ。うちの社員にも、ぜひ君を見習ってほしいくらいにね」
「ああそうだな、お前よりも遥かに骨太だぜ。本気を出せば、それこそお前らなんかマッチ棒みたいにへし折ることだってできるくらいにな」
「そのマッチ棒に組み敷かれているというのに、かね?」
「言葉もないね。だが、本調子なら可能だぜ。それよりも、あんたが松下ってことは、さっき出ていったあの男は何者だ」
「ああ、彼は辰野冬彦だ。顔を見たのは初めてのようだね」
見下した笑みを向けるスーツの男――松下は、まぁいい、と頷いて唐突に話を切り替えた。辰野や岡部はもちろん、大野の爺のことなどもはやどうでも良いといった顔だ。
「チンピラとは言ったが、半分は君のことを買っているんだ。実を言うと、君のことはもう知っていた。何でも警察と組んで、我々のことを嗅ぎ回っているそうじゃないか。
そこで、君と会ってみたくなって罠を張ってみたんだが、それをこんな短時間で気づいただけでなく、今こうして私の前に現れた……これは相当にすごいことだよ。君は動く時はほとんど一人のようだが、その実、優秀なバックアップチームがいるのだと分析している。でなければこうも簡単に、我々のことを見つけ出せるはずもないだろうからね。
だが、だとしても君の人探しにおける能力は一級品、いや超一級と言っても良い。我々ですら、君ほどの探査能力は持ち合わせていないよ。どうやったらこんなことができるのか、こちらが不思議なくらいさ。もし良ければ、一度ご教授願いたいね。
おまけに、君はとんでもなくタフらしい。ちょっとやそっと殴られたくらいじゃものともしない。しかも、そこらのアスリートや格闘家顔負けの体力もあるという。この際だ、高い知能を持っていることも認めようじゃないか」
「……俺を買ってくれてるってのは十分に伝わったが、そういうまどろっこしいのは嫌いなんだ。結局、何が言いたいんだ」
俺はつらつらと口上を垂れそうにしている男に向って吠えた。この松下という男は、腹に本音を隠し持ち、相手を煽てるだけ煽てて全く本気にしていないタイプであるに違いない。俺が最も嫌うタイプの人種だった。俺が嫌うときもまた、よく勘が当たる。
「簡単なことだ。君が一体どこまで我々のことを掴んでるのかと思ってね。ついでにいうと、私は君のそのタフさを買ってちょっとした実験をしたい、といったところだ」
鼻持ちならぬ笑顔で男は言った。そこから滲み出るのは凶悪にどす黒い、人間世界でも許されない凶悪な欲望だ。
俺は瞬時に理解した。こいつは、俺の体を実験台にして、とんでもないことに使おうという魂胆だ。それも単なる実験じゃない。凶悪極まりない死の実験だ。これまでの経験上、こういう雰囲気を何度か体験してきているからこそ感じ取れる、死神すら可愛く思える人智が尽くす限りの、暴虐な実験台にだ。
「悪いが断らせてもらう。あんたが考える実験ってのは、とんでもなく凶暴で危険だってのはもう分かってるんでね」
この一言が余計だった。ただ経験でそうなることを知っていたというだけで言った台詞だったのに、この男はこの言葉の裏の裏まで読み取った。つまり、こいつの本性を知られたと、そう勘違いしたのだ。
案の定、男からは今まで見せていた営業用の笑みから一転、目が据わり、どこまでも冷淡で感情の揺らぎがなくなった表情に早変わりした。思わずこちらもゾッとさせられるような、そんな無表情さだった。
「……やれやれだ。これまで必死に自分の趣味は隠してきたつもりだったんだが。どうやってそこまで調べたのか知らんが、そこまで知られたんでは仕方ない」
男が顎を使った。俺を立たせろという指示らしい。組み敷かれている俺は、後ろ手に腕を極められたまま立たされ、部屋の壁まで歩かされた。
「待て! クレオ、その男はどうする気だ」
俺は台に寝かされたままのクレオの身を案じて喚いた。しかし、男たちは答えない。代わりに俺を引き立てた大男が耳元で囁く様に言った。
「黙ってついきやがれ」
どん、と背中を強く押された。俺よりも一回りも大きな大男から小突かれたら、流石の俺でもよろめかざるを得なかった。ようやく本調子を取り戻したと言わんばかりに、男は殺気立っていた。
無言を貫いたまま松下が、胸の内ポケットから一枚のカードを取り出した。それを壁のある位置にかざすと、そのカード情報を読み取ったらしいセンサーが反応し、目の前の壁が大きく四方に割れて動いた。何もない壁だと思ったそこは、巨大な扉だったのである。
大男がさらに小突いた。進めという意思表示だ。大男の部下二名も一緒だった。苦い思いで、俺は視界の脇にまだ意識なく台に乗せられたクレオの姿を収めながら仕方なく進んだ。クレオのことが心配ではあるが、仮にもクレオは警察官だ。連中も簡単には手出しできないはずだ。
もっとも、それは単に俺の願望にすぎないかもしれないが、部下も一緒だということは、あいつも一時的に命が繋がると見ていい。松下の部下がこれだけとは思わないが、こっちのも手立てのしようがないのだから、ここはクレオの悪運に賭けるしかない。
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