その日の夜、クレオから連絡を受けた俺は午前中も訪れた、茂夫の事務所が入ったビルの近辺に身を潜めて動向を伺っていた。

 この一帯はオフィス街ということもあり、辺りにはビジネス関係であろう車両が何台も停車しているので、俺達の乗る車一台くらい停まっているところで怪しまれることはない。

 万一、交通課の連中に呼び止められたところで捜査中と言えば、すぐに連中も退散するだろうから問題はない。だからこそクレオも、大胆にビル玄関が思い切り見渡せる場所に車を停車させたのだ。

「茂夫の奴、まだ動かないのか」

 いい加減待つのに辟易していた俺は、つい、そんな弱音を吐いてしまっていた。昼間の地道な作業に続いて、今度はまるで動きがない状態に業を煮やしていた。こういう時こそ忍耐とは思うのだが、文句の一つくらいは吐いても良いだろう。

「大神さんと別れた後、近藤は秘書と共に六道会会長、大野幾三の元を訪れました。わずか三〇分にも満たない短い会談でしたが、その後こっちに戻ってからと言うもの、動きはありません。

 部下の報告では、大野はその後、行きつけのキャバクラに出向いたようで、現在もそこにいます。おそらく、会談時に何か指示をされたものと思われますので、何かアクションがあるとすれば今夜か明日あたりが濃厚ではないかと」

「ああ、そうだな。なら、是非今日何か起きてほしいもんだ」

 ぶっきらぼうに言った。そうなのだ。茂夫の奴は、何か重大な問題がある時に限って、えらく行動が早い奴なのだ。今度のこともそうで、明らかに動揺していた分、必ずすぐに行動を起こすに違いないことは予想済みだ。

 車内のクレオ、運転手を含む部下二名がビルの方に目を向けている中、俺はふと、その方から視線を外し、反対車線を走ってくる一台の車に目を向けた。本当にただの偶然で、何かおかしいことを感じたわけではなかった。

 目をやったその車にどことなく覚えがあった。黒塗りのバンだった。そのバンを見るや、俺はあの日の夜、高速道路でトラックを襲撃したあの黒いバンを思い出して、悪い予感がよぎったのを実感した。

「あのバン……」

 バンは俺達の乗る車の横を通り過ぎ、ビルの裏へと回っていった。俺は突如として湧いてきた嫌な予感のお告げに従い、車を降りた。

「クレオ、俺はあのバンを追う。なんだか嫌な予感がするぜ」

「どうしたんです突然」

「あのバン、俺が首都高速で見たやつだ。トラックの襲撃事件を起こした時のやつだ」

「なんですって」

 言うが早いか、俺はまだ車の流れが途切れない中、強引に道を横断してバンを追った。突然飛び出してきた横断者に驚いて急停止する車の間をすり抜けて、ビルの裏へと回るとバンがどこへ行ったかを確かめる。

 すでにバンは視界から完全に姿を消していたが、確認するまでもなくビルの地下にあるに違いない地下駐車場だろう。俺は車両専用の出入り口から地下へと急ぐ。

 実に二〇〇台近い車を格納できるだろう地下駐車場だが、ほとんど利用者がいないのか、停まっているのはわずか数台しかない。その中に、一台だけえらく目立つ大きな車両が地上のビルへの連絡通路と通じる出入り口付近に停まっていた。例のバンだ。

 俺は自然と足音を消して走り、バンに近付く。窓ガラスなども車体同様に黒く、ほとんど中が拝めない仕様になっているため、中に人がいるかの確認を目視することができない。だが、変に荒事を好む俺の感覚は中に人がいないことを告げていた。

 バンに触れて、温度を確かめる。まだ温かかった。まだ夜は肌寒さを感じる季節なので、表面に感じる温さは、内側からの予熱によって温められたものだということがすぐに分かった。つまり、つい今しがたまでエンジンがかかっていたことを意味している。

 そして、中から漏れ出てくる危険な匂い。火薬と武器、それにそれらの中に微かに馴染ませてある薬液の匂いだった。つまり、俺にとってはもはや馴染み深い匂いだった。

 俺の中にあった悪寒は大きくなっていき、警鐘を鳴らしていた。人目であってもお構いなしに銃をぶっ放した連中だけに、この匂いが意味するのはあの日の晩と同様、これから人が死ぬ予兆であろうことを感じ取っていたのだ。

「ちっ、野郎」

 舌打ちしながら、出入り口を連絡通路に入ってビルの最上階を目指した。殺人もいとわない危険な連中がこのビルにやってきた理由は明確であるといっていい。連中のターゲットは間違いなく茂夫だ。

 このビルにおいて、武闘派である六道会がその何らかのしがらみを抱えている問題があるとすれば、茂夫以外に考えられない。もし俺のところに用があるとすれば、直接俺の所に来るだろう。もちろん、それはクレオに関しても同様だ。

 しかし、クレオはもちろん、そもそも俺たちについて連中が動向を把握しているとは言い難い。仮に俺達を付け狙っているとしても、こんなにも早く、こちらの動向を掴めるほど連中が動いていたとは到底思えない。そうなると、連中の狙いはただ一人、茂夫以外に考えられないのだ。

 もっとも、その理由までは分からない。茂夫は仮にも六道会の幹部の座に収まっている奴だ。その幹部を狙って実働隊が動くなど、それこそおかしな話だ。もちろん、命令を下したのは会長である大野幾三だろうが、舎弟である茂夫をなぜ無慈悲に切り捨てようとしたのか、そこが分からない。

 俺は二段、三段飛ばしで階段を駆け上がっていく。これが満月期ならそれこそ、こんな手間のかかることをする必要もないのだが、今は並の人間へと近づいていく新月期だ。これくらいが精一杯だった。それでも、人間には真似出来ない速い動きではあるが、それすらもどかしい。

 息を切らして、ようやく事務所のある最上階へと到着すると、非常口をそっと開けて扉の向こうをそっと覗いた。誰もいないことを確認すると、静かに身を滑り込ませて扉を抜け、廊下を事務所の方へと足早に向う。

 すると曲がり角にやってきたところで、複数の人間の臭いがして俺は足を止めた。壁を背に窺ってみると、あの日見た黒服の連中が機銃を手に、事務所の扉前にぞくぞくと集まってきているところだった。

 どうやら、圧倒的に体力に自信のある俺が、連中の移動よりも早くここに到着することができたというわけだ。まだ、かすかに満月期の余韻が残されているらしい。

「三人、か」

 俺は壁に身を隠し、大きくため息をついた。せめてあと二日か三日早ければ、ここらで身を乗り出して、ちょいと声をかけるだけでいい。おい、お前らそこで何してる。そんな玩具持ってサバイバルゲームでもしてるのか、と。

 だが、あの機関銃に蜂の巣にされたりでもしたら、今の俺では流石に一溜まりもない。最悪、死なないとは言い切れない気がする。武装した三人相手に、どこまで立ち回れるか、正直確率は五分といったところではないか。

「……はっ、普段は不死身だなんだと言っておきながら」

 思わず漏れ出る自嘲。満月期の時、あるいはそれに向っていく上昇期にだけは威勢が良いくせに、下降期から新月期に限ってはどんどん弱気に、そこらの人間と同様になっていくのが堪らなく嫌で仕方がなくなる。そんな自分に嫌気が差すのだ。

 だが、こんなのはいつものことだろう。今までだって、何度となく命の危機に身を晒してきたではないか。その中には今日のように、決して良いコンディションであったとは言い難い日もだってあった。死にかけたことも一度や二度じゃすまないが、それを乗り越えてきたはずだろう。

 それを今になって、ちょいと死を予感しただけでこんなにも弱気になるとは、不死身のタフガイなどとよくもまぁ吹聴できるものだ。不死身のタフガイとは、こんな時にこそ真価を発揮してこそではないのか。

 勇気を持て、狼男。俺はそう、狼男だろう。新月期だろうが満月期だろうが関係ない。人間には真似出来ない、圧倒的な力でもって蹴散らしてこそ、それに相応しいはずだ。

 俺は大きく深呼吸した。昔習得した武術の中にある呼吸法で心を整え、平静さを齎す長い呼吸を一度、俺は意を決して廊下へ飛び出した。

 体は実に快調、とは言わないが、ベストコンディションとは言い難いこの時期にしてはかなり良い方だった。今にも事務所へ踏み込もうとしていた連中は、俺が二歩目を出した時、ようやく一人目が突然飛び出した謎の影の存在に気付いた。

 しかし、そいつが銃口をこちらに向けた時には、すでに二歩目を踏み出して三歩目へと踏み出そうとしていた。当然その足は俺の攻撃の間合いと同義だ。踏み出した足は、一人目の脛を思い切り蹴飛ばす。

 疾風の如く速い動きを伴って繰り出された蹴りを食らった男の脚は、嫌な音がして変な方向に折れ曲がる。骨だけでなく、筋肉や繊維もろとも衝撃で潰れたに違いない。

 崩れ落ちだした一人目の肩を掴んで引っ張り、後方の男がこちらに向けた銃口との直線上に一人目の体で遮った。その直後に廊下に響き渡る連射音。後方の二人目が容赦なく引き金を絞ったのだ。

 一人目の短い悲鳴と共に、三人目が確実に俺に銃口を向け待ち構えていた。俺は必死に、その砲身に手を伸ばして横に叩きつける。

 照準を外された銃口は、全く明後日の方向に何発もの弾丸を発射した。その弾丸は、可哀想に一人目の頭に直撃し、頭蓋骨が瞬く間に蜂の巣へと変わっていった。

 四歩目が床に着地すると、その場で三人目の男の脇腹に肘を入れ、その重さと衝撃を利用して身を半回させると、その勢いが乗った拳で顎を打ち抜いた。数本の歯が砕ける衝撃と、下顎が上顎に思い切りめり込む感覚が左拳に伝わる。

 そのまま三人目の男はダウンし、俺はすぐさま身を翻して、事務所の扉を蹴り込んで中へとなだれ込む。

「野郎!」

 ドスの利いた怒声に反応し、中にいた奴が懐から拳銃を取り出すのが見えた。

 あまりに遅い反応だ。本来なら連射音が聞こえた時点で構えてなくてはいけないはずなのに、とんだ鈍感野郎だと思った。

「いや、本来なら部屋の前に敵が来た瞬間には気付いとかなきゃな」

 転がり込むようになだれ込んだ俺は、体勢を整えるや近くの物陰に身を隠しながら言った。

「大神さん」

 茂夫が叫ぶ。声のした方に顔を向けるのと同時だった。茂夫の秘書と二名のボディガードが俺の方を見た瞬間、秘書とその内の一人が凶弾に倒れた。

 黒服は流石のプロというだけあって、俺がなだれ込むのを見計らって、余計な人間を始末したのだ。その射撃の腕は一流と言っても良いだろう。残ったボディガード一名と茂夫は、なんとか座っていたソファーの裏に身を隠すことができたようだ。

「無事か、茂夫」

「なんとか……」

 ソファーの向こうから弱々しい茂夫の返答に頷き、残った一人の身構えている扉を目視した。さすがというもので、奴も壁に身を隠していた。しかしその扉の脇から、ふっと手が覗いたかと思った次の瞬間、その手から何かが放られる。

 ゴツンゴツンと大きさの割に、鈍く重々しい音をさせて床に落ちたそれを目の当たりにした俺は、反射的に叫びながら、さらに物陰の奥へと身をやった。

「手榴弾だ!」

 叫んだ直後、手榴弾は炸裂し室内に轟音が鳴り響く。俺は身を伏せるのが精一杯で、その場から動くことはできなかった。

 室内で炸裂した爆破音に、ビルの警報が反応してビル全体にけたたましく響き渡る。しかし、当の俺はといえば、炸裂音に聴力を奪われて、警報などほとんど聞こえなかった。どこか遠くの国のことのように、警報が鳴っているなと感じる程度だった。

 手榴弾が炸裂したのは、俺とは反対側の方だったことが分かると、俺は耳鳴りのする耳を押さえながら、のろのろと立ち上がる。室内は爆破によって抉れた、コンクリートと床材の粉塵が巻き上げられて視界が悪い。

 俺は一時的に鼻も利きにくい状況になっていながらも、扉に近付くために隠れていた物陰に背をもたれた。向こうも、もうもうとする室内に忍び足で入ってきている。あくまで連中の目標は茂夫だというのが明確になる行動だった。

 奴が俺に背を向けたほんの僅かな一瞬、物陰から飛び出して襲撃者の首に飛びついた。まだ満月期の余韻が微かに残る体にムチを入れ、俺は相手の頭を掴んで押さえ込むと、腕に渾身の力を込め、喉元からありえない方向へと力を加えて縊り殺した。

 体を大きく震わせて、男は途端に全身から力が抜けていった。それが最後の抵抗となり、俺はようやく男の首から手を離す。足元にずり落ちていく男の体が重かった。

(なんとか、生き残った……)

 この時期、危険な目に遭うたびに毎度思うことだった。全く、俺は死にたいのか生きたいのか、判断に迷う。

「それよりも茂夫……大丈夫か、茂夫」

 一度落ち着いたところで、ここの主である茂夫のことが気になって声を出して呼んだ。すると、ごそりとソファーの向こうで音がした。どうやら向こうもなんとか命拾いしたらしい。

「お互い、悪運だけは強いらしい」

 ソファーの裏に歩み寄って倒れている茂夫にそう言った。茂夫はボディガードに覆い被さられた形で、息も絶え絶えに苦笑しながら言った。残念ながらボディーガードは自分に課せられた仕事を全うし、すでに息絶えている。

「あんたほど、じゃないよ……」

 憎たらしい笑みを弱々しく浮かべている茂夫が、自身にのしかかったままのボディガードをどけるように言うのでどかせると、なぜそんなことを言うのか理解した。

「茂夫、お前……」

「最初のね……流れ弾に、当たっちまった……らしいや……」

 胸を赤く染めるのは、紛れもなく茂夫の血だった。言う通り、見ての通りの状況だった。ボディガードは俺が手榴弾だと叫んだ瞬間に、こいつを守るために背中に跳んできた破片によって息絶えているので、茂夫が撃たれたことに気づかなかったんだろう。

 茂夫も茂夫で、体重一〇〇キロは確実にあるボディガードの巨体が覆い被さってきて、流れ弾の当たった傷に障ったに違いない。それが余計な出血と傷を広げたのだ。

「茂夫、しっかりしろ。今に救急車がくる」

「いいや、大神さん……俺はもう助からねえ……分かるんだ……」

 茂夫を抱きかかえる俺にも、確実に茂夫の死の実感が伝わってくる。この男は数十秒後かに息絶えるのだと。

「す、すまねえ……あんたには、何度、助けられた……ことか……」

「もういい。喋るな」

「い、いや、聞いてくれ……こ、こうなることは、いずれはこうなる、と分かってた……からな」

「茂夫」

 息も絶え絶えに、茂夫は何かを伝えようとしていた。

「お、大神さん……お、親父と……岡部だ……」

「何? なんだって」

 ぶるぶると唇を震わせる茂夫の声は、虫の音色同様に小さく、口元に耳をやってようやく聞き取れるほどだった。

「……二人……死体、集めてる……松下……死体……危な……海外から……」

「死体を集めてる?」

 なんとか聞き取れたその言葉を、思わず復唱した。その後も、何か言おうとしていたのは伝わったが、かすかな空気の伝わりがあっただけでもう何も聞こえなくなった。

「おい、茂夫。しっかりしろ、おい!」

 開いている瞳に生気が感じられなくなっていた。体のどこもピクリとして動かない。俺は悔しさにした唇を噛んでいた。廊下の向こうから、複数の人間が走ってくる音を聞きながら、俺は苦々しい面持ちで立ち上がり天を仰ぐ。茂夫は死んだのだ。

「畜生が」

 遅れてきたクレオたちはこの状況を目の当たりにして驚いていたが、今はそんなことに気を留めているような余裕はなかった。最期、茂夫が口にした遺言だけが俺の脳裏に反芻されていた。



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