「あ、何か横切っていったよ、お姉ちゃん」

 ぼうっとスマホを眺めていた月子は、妹の明里の一言によって画面から顔を上げて彼女の方に向けながら言った。

「何が?」

「今、月見てたら何かが横切っていったんだ」

「月?」

 そういって月子も窓から夜空を見上げる。東京の郊外に位置する自宅から夜空を眺めることはあれど、月を何かが横切るなんてありえない。

「見間違いじゃない?」

「見間違いじゃないよ、今何か黒いものが横切っていったもん!」

「なら、多分飛行機か鳥だよ」

「違うもん! 絶対に飛行機や鳥とかじゃなかったんだから!」

 ややふくれっ面になった妹に、月子は当然そんなことを信じるはずもなかったが、はいはいと適当に頷いて受け流した。再び窓から夜空を見上げる妹を尻目に、月子はため息をもらした。

 またいつものことだと受け流しはしたものの、正直なところ、そんな妹のことが心配だった。今年受験生だというのに、明里は未だ子供っぽいところがあり、今のようにどうでも良いことを大事件のように言っては、周りにそれを求めようとするきらいがある。

 そのせいなのか分からないけれど、明里はどこかオカルトめいた物も大好きな性格だった。そんなものは迷信といつも言うのだけど、彼女はそれをまるで聞き入れることなく、しばしばこちらを混乱させるような言動をすることもある。

 これがお互い子供なら良いが、もう一五にもなってそういうのはいい加減卒業してほしいというのが月子の本音だった。もっと言うならば、別に好きなら好きでいても良いのだけれど、わざわざそれのために周囲を巻き込むのをやめてほしいのだ。

 皆が皆オカルト好きというわけじゃない。この妹はオカルト方面には敏感なくせに、どういうわけか、身につけておくべき常識に疎く、鈍感だった。まるで人のことなど、どうでも良いと言っているかのような雰囲気すらある。

 こちらに完全に背を向けている明里の様子に、再びため息をついた月子は呼びかけられる前に気になった、ある単語の見出しがついた記事を見るべく、スマホに視線を移した。

『また吸血鬼か――!?』

 スマホの画面にはそんな見出しのついた記事がピックアップされており、月子はその見出しにつられてタップした。吸血鬼事件とは、ここ数ヶ月間に渡って東京の街で起こっている謎の失血死事件について、マスコミが面白おかしく名付けたものだ。

 吸血鬼事件とはいうが、実際には大量の失血死だから吸血鬼というのはおかしい……というのが当局による見解なのだけど、ネットの某大手掲示板や各SNSでは、体に小さな穴が二つ開いているという根も葉もない噂も流れているため、マスコミもそれに便乗する形でそう名付けたというのがネット住民たちの大まかな見方だ。

 しかも、その穴はおかしなことに人体の奥深くまで達しているにも関わらず、一滴も血が流れていないというのだ。それがまるで吸血鬼のそれだというネット住民の声が大きくなり、いつの間にかその声がSNSにも流布したというわけである。

 マスコミも今や、急激な情報化社会の波の煽りを受けて、新聞が売れなくなっていると聞く。紙面よりも、こうしたスマホで記事を載せる方が得策と考えたのだろうけど、おかしなもので、一応大手のはずの新聞社がそこらの三流紙と変わらないネタをあげる事自体、どうかしてるというのが月子の正直な感想だった。

 にも関わらず、つい気になってその記事を見ていた。馬鹿馬鹿しいとは思うけれど、とにかく奇妙な事件であることには変わりない。こんな奇妙な事件がこの数ヶ月、ずっと起こっているにも関わらず警察は捜査中というだけで、それ以上何も語ろうとしないのだ。

 月子は、オカルトめいたものは無しに、何か隠していることがあるのではないのか。そんな風に思えてならないのだ。思えば、数年前から警察や検察も、ずっと定期的に不祥事を起こしており、それを知られまいとする隠蔽体質に問題があると見ていた月子にとって、何か政治的な思惑、スキャンダラスなことがあるのかも、という何かが見え隠れているように思えたのだ。

『俺、ヤバイもの見ちまったんだが……ちょっと見てくれオマイラ』

 吸血鬼事件に関する情報を探して、ネット上の某掲示板を流し見ていた月子の目に、そんなレスと共にレス主が撮ったらしい動画のURLが載せてあった。好奇心に負けて、月子はそのURLをタップした。

 とあるビルの一室から撮影されたものらしい動画は、若い男たちのはしゃぐ声と共に始まった。初めの何十秒間は何の目的で撮影されたのかも良く分からない、他愛もない内容のもので、撮影者は新しく変えたという、スマートホンによる映像の美しさに驚きを持っている様子だ。

 そのうち、暗闇も映せるに違いないということで、撮影者の若い男は窓へ近寄って暗い夜の街を撮影し始めた。異変が起こったのはその時だった。

『なんだあれ?』

『どしたん?』

 異変に気付いた撮影者に、背後にいる友人らしい男が側に寄ってきて指さされた方を眺め見た。二人共、その異変を少しでも収めようと、窓を開けてぐっとそちらの方にズームさせる。

『……ちょ、あれ、なんかヤバくね?』

『警察、通報した方が良くないか?』

 二人はそんな会話をしながらも、そこに目が釘付けであった。ズームされたカメラが映し出した映像に、動画を見つめる月子も思わず目がスマホの画面に固定された。

 あるビルの一室で働いていたらしい女性が、突如現れた謎の男によって襲撃されるという、ショッキングなものだった。どこからともなく現れた男は、濃い灰色のパーカーに、だぼだぼの黒いスエットパンツという出で立ちで、被ったフードのためにその顔は分からない。

 その映像で男はOL風の女へと歩み寄ると、すぐさまその服を強引に引き裂いた。下着もあっという間に剥ぎ取り、露わになった、女性なら羨む大きな乳房に男が噛み付いたのだ。女性のやや後方から撮る形になっているため、本当にそうなのかは分からなかったが、少なくとも月子の目にはそう見えた。

 一女性として、月子にも男から突如襲われるのがある種、根源的な恐怖として思える映像だった。しかも、その噛みつかれたかもしれない部位が、女性として大事な乳房かもしれないというのがそれをさらに助長した。

 だが、真に恐ろしく思えたのは、ただ女が男に襲われることではない。映像の中で、乳房に噛み付いたらしい男によって、女性は露出させた美しい背中をビクンビクンと大きくのけぞらしながら震わせるその様子に、彼女がまるで嫌がっている様子が感じられないということだった。

 突然現れた男に衣服を引き裂かれ、乳房に噛みつかれる……これがどれほどの恐怖であるか、月子ら女性にしか分からない恐怖かもしれない。ところが映像の女性は、衣服を引き裂かれたというのに嫌がるでもなく、むしろ自らそれを受け入れ、捧げているようにすら見えるのである。

 月子には、それが何よりも恐怖に感じられた。何か、人間でないものへと自らの意思で身を捧げるという行為に、言い知れぬ恐怖感を覚えていたのだ。

「なに、これ……」

 乳房に男が噛み付くということだけでもショックであるというのに、男は乳房に噛み付いたまま仁王立ちになったのだ。噛みつかれた乳房だけに支えられて、女性は半ば宙吊りになる。それでもビクビクと小刻みに震えているのがはっきりと分かった。

 月子は半ば無意識に、自分の胸を両手で覆っていた。この震えは痛みによるものに違いないと思ってはいても、なぜか動画に映る女性を見て、を感じ取ったからだった。

 それが何なのか月子にも分からなかったが、なぜか月子には女性は自らの意思で男に噛みつかれたように思えたのである。自ら乳房を押さえていたのは、無意識のうちに痛みを分かち合ったためなのか、それすらも曖昧になるほどに映像は鮮烈だった。

『うわぁ……』

『あの人、大丈夫なん?』

 上ずった調子で、その光景を見つめていた二人の若者は、困惑しているようだった。映像ではフードの男が噛みつき宙吊りにした女性の体を、首の動きだけで放り投げた。部屋の出入り口近くにまで放り投げられた女性は、そのままピクリともしない様子で四肢を投げ出したままだ。

 男はそんな状態であってもフードを被ったままで、その表情を見ることが出来ない。ただ首をこきこきと鳴らしているのか、二度三度左右に振って調子を確かめると、何事もなかったかのように部屋を後にする。それと同時に、動画もそこで終わった。

(何なの、これ……)

 心臓がバクバクとうるさかった。顔や手足はもちろん、全身がやけに熱っぽい。ほんの三分にも満たない動画だが、そこに収められていた映像は、月子の常識や思考を大きく変えるだけの凄まじい何かがあった。

 人間の死。映像の中の女性に感じたのは、まさにその一言に尽きる。しかも、彼女が無残な最期を遂げるという、衝撃的であり、官能的でもあるそこに、理屈以上の何かを感じ取ってしまったからだ。

「お姉ちゃん?」

 いつの間にかスマホをカーペットの上に放り出し、呆然とカーペットを見つめていた。それを怪訝に思った明里が、不安げに姉へ声をかけた。

「お姉ちゃん、大丈夫? 顔色悪いよ?」

「う、うん……大丈夫、大丈夫よ気にしないで」

 月子は妹を心配させまいと、カーペットに落としていたスマホを取り上げて、再生が止まり暗くなった動画をスワイプさせて消去すると、再び掲示板に目を移した。

 掲示板をリロードさせると、早くもログが一〇〇近くも進んでいた。どうやら、多くの人がそれを見て衝撃を受けたらしいことが一目瞭然だった。

『人が死ぬ瞬間とかグロいんだが』

『心臓が弱いヤシはマジで見ないほうがいい』

『閲覧注意くらい書いとけ、ヴォケ』

『漏れもきゅぬーに噛みつきてえわ』

『これ、映画か何かのワンシーン?』

『CG乙』

『こんなので釣ろうったって、そうは問屋は卸さねえぜ!』

『パーカーで顔隠せば、俺もあるいは……』

『つーか、この女の人どうなったの? それが気になる』

 そんな半信半疑で、面白半分のレスで掲示板は溢れ返っていた。たった数十秒だというのに、さらに数十もログが伸びていた。反応は様々だが、概ねこの動画を作りものと証左するような、明確なレスは見当たらなかった。どうやら、これを見た全員が半信半疑ながら本物である可能性が高いことを、映像から感じ取ったことだけは間違いない。

 それは月子も同じだった。掲示板に書き込むなんてことはしないが、月子もこれを見て書き込んだ彼らと同様の意見だった。作り物であってほしいという思いと、なぜそう思うのか、その裏にあるのはこの映像が本物であると予感していたからに他ならない。

 興奮冷めやまぬ思いで、ログを進めていくと、あるコメントに目が止まる。

『これってさぁ、もし本物なら吸血鬼事件と関係ある……? ついさっき、仕事帰りに近く通ったけど、警察とマスコミで溢れてた』

 その書き込みがされると、さらに掲示板が盛り上がった。あっという間にログが消費されていき、千までしか書き込めない掲示板の最後には、なんとも印象的なレスで締めくくられた。

『マジかよ。やっぱり吸血鬼は実在してたってことか』

 吸血鬼……マスコミが面白半分に命名したものだが、月子にとっても、そうとしか思えない映像に思えたのも確かであった。もちろん、頭の奥深い場所では否定していたが、この映像を見た直後の今、本気でその存在を完全否定できない気がしていたのだ。

 ゴクンと固唾を飲み込む月子に、今度は目の前までやってきた明里が姉のおでこに手をやり、心配そうに見つめてた。

「ねえ本当に大丈夫なの? なんか、熱っぽいよ?」

「え? あ、ああ、そうかもね。私、ちょっと疲れちゃった」

 すでに日付が変わろうとしている時刻であることに気付いた月子は、妹の手をどかしながらよろよろと立ち上がる。

 もう忘れよう。これはきっと何か悪い冗談なのだ。そう自分を言い聞かせ、月子は倒れ込むようにベッドへと入った。灯りがベッド脇のスタンドだけになると、明里は再び窓の側に寄り、満月期に入った月を飽きもせず見つめた。幼さを残した顔に、うっすらと笑みを浮かべながら。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る