第1章 異形からの誘い


 月日は流れ――。


 午後二三時五〇分、けたたましく鳴るサイレンが街中に木霊していた。五車線ある街のメインストリートを、何台ものパトカーがサイレンを響かせながら、パトライトの赤い灯りでもって周囲のビルや壁をきらびやかに染めていた。

 ある住宅街の一角へと入ったパトカーは、徐々にスピードを落とし始めたところでブレーキをかけると急停車した。その勢いのまま中から何人もの警察官が飛び出した。最後に一人、のっそりと車外に出た四〇代後半の男――玄田は、安物のスーツの襟を正し、駆けつけていた別の刑事に状況確認を促した。

「ガイシャは」

「被害者は竹山正蔵、八五歳。近隣住民たちの話ですとここ数年は足腰が弱っていて寝たきりだったそうです」

 男は若い部下――高山からの報告に小さく頷き、高山が続けた。

「死因は大量の失血による失血死で――」

「ついでに穴が二ヶ所、だろ」

「はい」

「……またか」

 部下からの報告を受けた男は、気が重くなって言った。寝たきりの老人がある日突然死ぬ。何も特別なことはない。むしろ、それそのものは正常なことで自然と言って良い。例え何らかの病気であろうと、衰弱した老人が免疫機能が低下し、病に対して抵抗できなくなるわけだからそれは当たり前のことなのだ。

 しかし、これは検死が必要な案件であることを男は、もちろん部下を含めて誰もが思っていた。でなければ正確な死因も分かるはずがない。何か見落としがないとも言い切れない。にも関わらず男は、この老人に死に様を知っただけで全てを言い当てた。

 老人は、全身からほとんどの血液が抜かれたことが原因による失血死、であるからだった。目立った外傷はなく、それ以外にあるのは体のどこかにできた小さな穴が二つあるのみ。

 当然ながらそこから血液が漏れ出たのだとすれば、周囲を溜池のようにしながら流れ出るのですぐに分かる。綺麗にしたとしても、そこには何らかの痕跡がなくてはおかしい。ところが死体を見る限り、血が外部に流れ出た形跡が見当たらないのだ。

 これは異常であると言ってよかった。通常失血死と言われれば、何らかの外傷が原因でそこからの流血があってこそのものなのに、これから見る老人の死体にはそれがない。あるのは、体から一切の血液が無くなっているというこの一点のみが、失血死である事実を突付けてくるだけなのだ。

 男は、部下に連れられる形で、ブルーシートに覆われ始めている老人宅へと入っていく。木張りの廊下を進み、開いたままの襖から六畳一間の和室を覗き込む。中央に敷かれた布団で老人が静かに寝ている……傍目からはそんな風にしか見えない状況なのに、当の老人は既に死んでいるのである。

 男は静かに手を合わせて老人の顔を覗き込んだ。薄ら寒さすら感じるくらいに血の気が引き、白いというより青白さをも通り越して、薄紫色になってしまったような白い肌が、こういうことに慣れているはずの男でも触れるのに躊躇ってしまう。

 死体は丁寧なまでに敷かれた布団の上で横たわり、寝乱れた様子すらない。むしろ、横たわる老人に布団が丁寧に敷かれ掛けられたとしても、不自然に思えないくらいの丁寧ぶりだ。あまりの丁寧ぶりに、逆に滑稽と思えるくらいだった。

 ただ、その中で唯一、掛け布団から露出させた左腕がやけに不自然だった。男は、寝間着の裾が捲り上げられて晒された左腕に目をやった。肘の内側辺りに、件の、キリで刺したら出来る程度の穴が二つ並んでできていた。男は、指紋や汚れがつかないよう手袋をつけた手で、細心の注意を払いながらその穴に触れると、そっと広げた。

「玄田さん」

 困惑しつつも、玄田の様子を眺めていた若い部下が窘めるように言った。玄田は気にすることなくその出来ている穴をじっと見つめる。穴自体はあまり大きくないが、それが人体の不自然な場所に二ヶ所、それもよくよく広げてみれば深く、薄っすらとだが中の組織なども分かるほどにぽっかりと開いているのだ。

 こんな穴が、それも二ヶ所並んで出来ているというのに、そこから一滴の血たりとも滲んでいない。これを異様と言わず、なんと言えば良いのか。男にそれ以外に表現できる言葉は見当たらなかった。

「一応、鑑識は呼んでおけ。結果は同じだろうがな」

「はい。後少しで到着するとは思いますがそれより玄田さん、こっちに来てください」

「ぁん?」

 高山に言われるままにやって来たのは、さらに奥にある仏間だ。それを見た玄田は、細い目を見開いた。

 連れられてきた六畳一間の仏間には、尋常でない量のくすんだ色をした粉が部屋中にぶち撒けられていたのである。窓の横にあしらえてある掛け軸のかかった段差も、大量の粉でその差が分からなくなってしまっているほどだった。

 それはまるで工事現場などに見られる、削られ砕かれ、廃棄されるだけの産業廃棄物のような、あるいは木工所などでしかお目にかかれないほどの、大量の木片粉にも見えてきしまうほどの量だった。

「なんだこいつは」

「分かりません。ただ、灰のように思うのですが……」

 そういって高山は、簡易のキットに付属している小さなポリ袋を取り出して、畳の上に広がった灰をなすりつけるように入れると、玄田の前でそれに触れてみせた。

「確かに灰……っぽいな。だが、なんだってこんな場所に灰がぶちまけられてるんだ? それもこんな大量に……」

「さぁ、そこまでは……」

 そんなことは言わなくても分かる。玄田はそう思いつつも口にはせず、畳の上にぶちまけられた灰を見ながら疑問符を浮かべずにはいられなかった。

「やっぱりこれって……」

 高山が表情を暗くしながら言いかけて口をつぐんだ。目の前の玄田は、徹底的な現場主義であり、現実主義といっても良い人間だ。その上司の前で迂闊なことを口にしては、どんな大目玉を食らったものか知れたものではない。しかし、そう思わずにはいられないほど高山には、それが”ある物”を連想させてしまうのだ。

「ふん、吸血鬼だって言いたいのか。馬鹿馬鹿しい!」

 玄田は何かを振り払うかのように、首を振りながら大声で言った。その大声に、思わず周りの警察官たちも驚き、そちらに視線が集中するのもお構いなしだった。しかし、それはオカルトめいたことを言おうとした若い刑事にではなく、どこか自分自身に言い聞かせているかのようにも聞こえた。

「行くぞ高山! とにかく仕事だ!」

「は、はい!」

 声を荒げてはいるが、どこかいつもの玄田らしくない態度に高山は違和感を覚えつつも、その場を後にする玄田に付き従って老人宅を出た。車に戻っていく二人を遠く、高いビルの上で様子を眺めている人物に気付くはずもなかった。


 運転席にてハンドルを握る高山は、やや緊張した面持ちで努めて運転に集中していた。数年前に免許を取った高山ではあったが、元々の都会暮らしに慣れているため、この仕事に就くまで学生時代はもちろん、警察学校時代も、さほどハンドルを握ったことがない。なので、どうしても慣れない運転には緊張してしまっていた。

 そんな緊張した高山とは打って変わって、玄田は落ち着き払った様子で助手席にて肘をドアの手すりで頬杖つき、ぼんやりと窓を流れていく深夜のネオン街を眺めていた。特に何をすることもないのだから、当然といえば当然だったが。

 そのネオンの流れがゆっくりになり止まった。信号に捕まったらしい。先は大通りとぶつかる大きな交差点である。捕まれば長くなることは確実だが、それも週末の深夜とあって、交通量は平日の倍以上に膨れ上がる。一信号では通過できないことは確実だった。

 そんな動かない車内に訪れた重い沈黙に耐えきれず、若い刑事は恐る恐るといった面持ちで口を開いた。

「あの、玄田さん」

「おう」

「……その言いにくいことなんですが」

 言いにくいことだからこそ言葉を選んでいる様子の高山に、玄田は少し苛立ちを覚えつつもそれを表に出すこと無く言った。

「なんだ」

「その、何かありましたか?」

「なんだ、その何かあったってのは」

「いえ、何ていうか、少し苛立って見えるので」

 何を今更。そんな気分で、玄田はぶっきらぼうに言葉を投げた。

「そりゃあそうだろ。こんなに連日連夜似たような事件が起きてんのに、苛立たない方がどうかしてる。お前こそ何とも思わないのか」

「もちろん、私もストレスがないといえば嘘になりますが、そうではなくて」

「じゃあどういうことだ」

「……いえ」

 矢継ぎ早に交わされた会話は、唐突にそこで終わりを迎えた。玄田が、特に用事がないなら話しかけるな、と言わんばかりの雰囲気を醸し出したのを感じ取った高山が、追及を止めざるを得なくなったのである。

 しかし、玄田も本当はそれを理解していた。この若い部下の言いたいことは十分に理解しているつもりだった。連日連夜とは言葉の綾だが、事実、似たような……いや、全く同じと言っても良い事件が頻発しているのである。それも、別の署でも同様の手口の事件を、何人もの刑事が捜査しているというのだ。

 しかも数ヶ月前、小耳に挟んだ情報では東京のほぼ全域で同じような事件が起きているというから驚きだった。その時は、所轄ではないことなので自分には関係ないと考えていたが、一週間で複数件も今晩の老人のような状況で死んでいるのが見つかったというから、連日連夜というのはあながち間違ってもいない。

 それからというもの、この数ヶ月で、こうした事件が爆発的に増えているというのは間違いない事実だった。別の署で同様の事件があったことを、たまたま再会したかつての同僚から聞いた時は、まさか、という思いだった。

 元同僚から聞くと、驚くべきことに、この事件で発見される死体は大きな共通点があった。犠牲者は老若男女問わないが、まず全員がほとんど血の一滴もない状態で見つかるということ。当然、その死因は全て失血死で片付けられる。死体の発見が遅かろうが早かろうがそれは関係なく、すべからず血がないのだ。

 次に、体のどこか、それも大抵は普段肌が露出しやすい部分に、小さいものの、ぽっかりとした穴が二つ並んだ傷があるということだ。そして、そこからは一滴たりとも血が流れていないこと。時に複数の並んだ二穴が見つかる例もあるようだが、そのぽっかり出来た穴のの状態は全て同じだ。

 ある者は、今回の竹山老人のように自宅の中、またある者はビルとビルの隙間の路地裏であったり、またある者は公園の芝生の上に、道の植木、廃工場、何の縁もゆかりもない他人の家の庭と、発見場所は様々だった。

 中には、どうやったらこうなったのか想像もできないような、建屋の屋上に穿たれた避雷針に、背中から腹部へと突き刺さった状態で見つかった死体もあった。もちろん、血がないから出血はなかった。

 それら全てが玄田の担当する事件ではなかったが、情報が集まるにつれてそんな死体たちが見つかるとあって、今何かが起きていることだけは間違いなかった。

 そんな失血死事件が初めて起きたのは、今から半年前のことだ。半年前のある日の夕暮、もう日もおち、当時小学生の女児が日も落ちたので遊んでいた河原から帰ろうとしたところ、河川敷の監視小屋にて若い女の死体を発見した。

 好奇心でそこを覗き込んだ女児は初め、中で寝ていたんではないのかと思って声をかけたという。ところが、それが死体だと分かって、話を聞いた親が通報したことが顛末の始まりだった。

 当然、すぐに警察が駆けつけ、その異様な死体から殺人事件だと断定されて捜査が始まったが、それはすぐに行き詰まることになる。その女の死体状況も然ることながら、まずは周辺の聞き込みから始まった捜査陣は、周辺の近隣住民の誰もが彼女を知らないことから難航し始めたのである。

 彼女は、身分を証明するようなものは一切持っておらず、何者であるかを特定すること自体が困難だったのだ。結局、行方不明者のリストとを照らし合わせて彼女が誰かを突き止めるまではできたものの、今度は驚くべきことに、わざわざ北海道から東京の河原へとやってきて、そこで死んでいたというからこれが異常でないはずがなかった。

 着ていた服以外は身分証含め、財布なども一切持っていないということで強盗殺人の線でも捜査されたものの、北海道からなぜ東京へやって来たのかその動機も含め、交通手段も分からず仕舞いだったからだった。

 検死の結果判明したのが、彼女が全身から一滴残らず血が抜かれていたことによる失血死であるということと、首筋に件の二穴があったということだけで、後は何一つ分からなかった。どんな目的で、どんな手段で東京へやって来たのか、なぜ東京で死んだのか。それも異様な状態で。その不可解さに、自分を含む捜査陣の誰もが首を捻るばかりだった。

 これが一人目である。そして、彼女の発見から二週間としない内に二人目が見つかった。二人目はまだ二十歳を迎えたばかりの女子大生で、一人暮らしのアパートで見つかった。

 アルバイトにも、学校にも来ないことを怪訝に思った友人やバイト先の先輩らが、訪れたアパート先で発見された。当然、彼女もまた右腕に二穴とぽっかりと開き、血の一滴もない失血死の状態だった。

 捜査本部は立て続けに、同じ所轄で起きたこと、若い女二人が狙われたこと、同様の状態で死んでいたことを理由に、両者に関係ありそうな人物から、最近のことまでを徹底して洗った結果、二人目の被害者にはストーカー行為で迷惑していたらしい男がいることが発覚し、捜査は急展開を迎えたかに見えた。

 ところがその男には完璧なアリバイと、拘束した直後、三人目の被害者が出てしまったことで捜査は振り出しに戻る。今度は二人目からわずか一週間も経っていなかった。

 その数日後には四人目が、翌日には全く違う場所で五人目が見つかり、それは瞬く間に東京二三区に飛び火していったのだ。まるで警察を嘲笑うかのように。

 二人目のストーキング行為を働いた男は、幸運にもこれにより事件の容疑者リストから外れることになったが、三人目四人目に至っては五〇代のサラリーマン男性とまだ年端もいかない一〇歳児とあって、被害者に共通点がないことが捜査を大きく混乱させるに至ったというわけだ。

 それからというもの所轄内外関係なく、東京では毎日のようにどこかで失血死体が見つかるようになった。この事態を重く見た警視庁は、ようやく重い腰を上げて警視庁に捜査本部を置き、同様の事件全てに対して捜査権を委ねる形で、これの捜査をする特別捜査班を結成することになったのが二ヶ月前のことだ。

 元々、最初の被害者の発見時に事件を担当することになった玄田と高山の二人も、その特別捜査班に加わるよう召集されたメンバーであるが、実のところ、思うような成果を残せていないというのが現実だった。

 それでも、玄田にはこの事件の裏には何かある。そう思えずにはいられなかった。なのに、それを挙げることができない自分。そしてそれを一心不乱に解決したい自分。しかしできない自分とその周囲への苛立ち。

 それらがこの二ヶ月もの間、彼に纏わりつき、日に日に重くのしかかってくるようだった。

 

 車はその内にネオン街を抜けて、不自然なまでに煌々と明るく周囲を照らして止まないダウンタウンの摩天楼群をも抜けて、人気のない住宅街へとやってきていた。若い部下に運転を任せ、自分はぼんやりと思考停止させていたために、普段見慣れない場所にやってきていたことに玄田は今更ながら気が付いた。

「おい高山、ここはどこだ。どこに向かってる」

「え? 何言ってるんですか、現場ですよ」

「現場?」

 そんな指示などしただろうか。いや、ぼうっとしていたから、知らず知らずのうちに無線で応援要請がかかったかもしれない。先程から無線からは聞き取りにくく、容量の得ないやりとりがされているのだ。繰り返しになるが、一夜で数件の事件が起こらないとも限らないのも事実だった。

「やれやれ。同じ日に何度も似たような死体を拝まにゃならんとは全く……」

 気玄田は呆れて気が抜けたようにそう言った。

「もう同じ日じゃないですけどね」

 くつくつと苦笑する若い部下に、小さく毒付きながらため息をついた。確かに時刻はすでに日をまたいで、〇時四〇分になろうという時刻だ。このままでは帰宅は三時にはなりそうだな、と再びため息をついて車の周囲を眺める。先程までの住宅街の端の方までやってきており、ますます人気のない暗い地区へと移動してきていた。

「おい、高山。現場とは言ったがどこなんだ」

「もう着きます」

 そういうと高山は速度を緩め、やがて停車させる。やってきたのは、すでに放棄されて何年も経つ廃材置き場の倉庫で、トタンの屋根天井に壁で覆われ、その癖、鉄扉だけはやけに頑丈になっているのがアンバランスに見える。

 すぐに車を降りた高山に、玄田は言い得ぬ悪い予感を覚え、締めていたシートベルトに手をかけたところでその手の動きを止めた。

(何かおかしい)

 現場だというから当然、そこは何も、自分も見知った場所ばかりだということはない。むしろ知らない場所の方が往々にして多いくらいだが、今いるここは明らかにそういうのとは違う何かがあった。

 というよりも、現場とは違う。それどころか、ここは現場ではなく、大きな口を開けて獲物を待ち構える罠にでもかかってしまいそうな、そんな棘々(おどろおどろ)しい感覚があった。

 現場とはいうが、まず周囲に他の警官の姿が見当たらない。まさか、自分たちが最初に来たとでもいうのか。もちろんあり得ない話ではないが、どうもそんな雰囲気ではないように感じられた。玄田にとってこれは刑事の、いやもっと根源的な部分が警鐘を鳴らしているように思えたのだ。

「どうしたんです玄田さん」

「おい高山、本当にここが現場なのか」

「はい。さっきからそう言ってるじゃないですか」

 いつものように人懐っこそうな薄い笑みを浮かべる若い部下に、玄田は何かいつもとは違うものを感じ取った。

 こいつは本当にあの高山なのか――。

 少なくとも自分の知る高山は、良くも悪くも愚鈍で、人好きのする奴だったはずだが、今ガラス越しに見る高山の笑顔はもっと違う、何かに気持ち悪いものに見えてならないのだ。

「どうしたんです玄田さん。早く降りてきてください、仕事ですよ」

「あ、ああ。だが悪いな、少し先に行って見ててくれ。応援が駆けつけるまで時間がありそうだから、少し報告もしておきたい」

「どうしたんですか。いつもの玄田さんらしくありませんね。いつもなら真っ先に現場に行くのに」

「ああ、ちょっとな」

 いつもの俺らしくないだって? それはこっちのセリフだ。玄田は口にせずそう思った。確かにそうだ。普段の自分なら、現場に到着したら真っ先に自分の目で現場を見ておきたい性分であるが、今はどうしてもその気にならない。

 玄田の直感が最大限に警鐘を鳴らしていた。ここは現場ではない。”今から現場になるのだ”。

 適当な理由をつけて一向に車か出ようとしない玄田に、いつもの薄ら笑いを浮かべたまま高山は車に一歩近づき、ドアを開けようと手を伸ばす。

 玄田はそれを察知して、半ば反射的にドアをロックした。キーは車内だから、今中からロックされたら外からは開けることが出来ない。自分でもなぜこんな行動に出たのか理解できなかったが、玄田の本能がそう告げていたのだ。

「あれ? 玄田さん? どうしたんです、なぜロックしたんですか? 早く開けてください。お仕事ですよ」

 浮かべたままの笑みをピクリとも動かさずに、手を伸ばしたドアの取っ手を強引に開けようとする高山の行動は、明らかに普通ではなかった。玄田は締めていたシートベルトを外し、そのまま車内を無理矢理運転席に移った。

「どうしたんですか玄田さん。何をそんなに焦ってるんですか。運転席に移るなんて、まさかこのまま僕をここに置いていこうなんていうんですか」

 その通りだよ、玄田はそう言おうとして高山の方へ顔をあげたが、その言葉が口を出ることはなかった。

「た、高山……お前……」

「ええ、高山です。なんですか玄田さん」

 ゴクンと車内に喉を飲む音が聞こえた。それが玄田自身によるものだと玄田自身気付くことはなかった。

「なんだ、その姿は……」

 玄田の見たもの――それは高山であり高山でないものだった。今時の若者らしく、少しばかし高級感のある濃紺のスーツに、スラリと身を包んだ出で立ちだったはずの高山は、そのスーツを内側から大きく盛り上がらせているのだ。

 痩せた首元も、スーパーヘビー級のプロレスラーと比べても何ら遜色のないほどに太くなり、腕も胸も胴回りも、全てが人間二人か三人分は優にあるほどの質量を体に貼り付けている。しかも筋肉だけじゃない。心なしか身長も伸びてきている。

「どうじだんですが、げんださん」

 野太く、しゃがれた声は高音と低音部分を上手く使い分けて発声させることができずにいた。まるで、人間らしい発声そのものができずにいるかのようだった。

 それを目の当たりにした玄田は、ただ叫んだ。それは恐怖以外に何者でもない。あるいは叫ばなければ、硬直してしまった体を動こすことができなかったのかもしれない。

 玄田はとにかく叫び、顔だけは高山だったはずの得体の知れない化物に向けられたまま、止まった車のエンジンをかけてアクセルを踏み込む。ギュルギュルと地面で高速回転するタイヤから、土埃と摩擦による煙が上がる。

「どゔじだンでじがぁげんンだざんンン」

 車の横で、最早、人のそれとは似ても似つかない声で叫ぶ高山だったソレ。ドアを開けようとするソレから逃れたい一心で、玄田は車を急発進させた。

 ところが発進したはずの車に、ソレは取っ手を掴んだまま離れることなく、一緒に高速移動し始めた車に張り付いた。

「なじぇンニゲルぉオどズルんンでぇズガぁアア」

「うるせえ!」

 ハンドルを握ったままアクセルを踏み込んだまま、急発進させたのがいけなかった。掴まったままでいるソレに気を取られ玄田は、ハンドルを切り損ね、近くの土砂の堆積場に激突した。

 グゲェ――怪鳥が捻り潰されてしまう時に上げるとすれば、こんな悲鳴だったに違いない。今まで聞いたこともない奇妙でグロテスクな悲鳴と合わせて、ソレは堆積物の壁に激突した車とに挟まってしまい、車の窓ガラスと屋根にその身を力なく投げ出した。

「う、ぐぅ」

 車が壁に激突した衝撃で、運転席はハンドルから、横からエアバッグが玄田の周りに出てきていた。しかし、それがクッションになったので、衝突による強い衝撃の中でも、何とか生きていることを実感した。

「うっ……くそ、頭、切っちまった」

 玄田は、毒つきながらのろのろと車から這い出た。ロックを主導で解除して外に這い出ると、立ち上がることもできずに地べたを這いずりながら、車から離れ、一息つくと同時にその場で崩れる。

「畜生……なんだってんだ、アレは」

 それでも玄田は高山が変化していった、アレに目を向けていた。同じセダンの一般車両よりも大きめに設計されているパトカーよりも、遥かに大きな姿形をしたソレは、先程よりもさらに変化を遂げており、高級そうな濃紺のスーツとシャツを突き破り、太い枝の幹を思わせる触覚のようなものを、体から何本も生やしている。

 しかし、さすがのソレも猛スピードで一トン以上もある鉄の塊と、硬い土砂の壁とに激突し挟まれた状態では、為す術もないようだ。ソレが何かは知らないが、とにかくここは何とか生き残ることができたということだろうか。

「高山……」

 徐々に意識が遠のき始めることを感じ取った玄田が、突如として変化し始めた自分の部下の名を口にした途端、ソレが反応した。グググ、と奇妙な唸り声を上げて動き始め、重い鉄の塊であるパトカーを押しのけようとしているではないか。

 その様子を見つめていた玄田は危機感を覚え、懐に忍ばせてある拳銃に素早く手をやると、銃口を変貌した高山に向けた。しかし、それが最後の抵抗となり、いよいよ意識が薄れ行くのを感じた。

 手に持った銃の重みが、いつも以上に重く感じられた。どうせ死ぬのならこのまま死なせてくれ。そう思った彼のすぐ横を、何者かが砂利を踏みしめてやって来た足音が聞こえた。

「やれやれ。こいつはとんだお粗末な奴だ」

 その声と共に、そこに何者かの気配があった。陽気そうで、まるで事も無げに、むしろ面白そうな調子で言う声の主。玄田には聞き覚えのある声だった。その声の主が誰であったか、玄田は思い出せるはずもなく意識を失った。




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