十九、幽=霊の正体

 ――所詮は、四角四面の狭いコンクリートの中の関係。大人になるまでの間、いや、成長するまでの間に残っている人間関係がどれほどあるだろうか。


 周りを囲う四つの仕切り。狭い個室の中で、冬馬は達観的とも感傷的とも取れる思いを抱く。夜中に違法侵入した個室で女子と二人きりという考えてみたら、社会的に死にそうな中々に刺激的なシチュエーションではあるが、スリルは皆無だ。


 ――それでも、俺達にとっての世界はあそこしかなかった。


 逃げ出したくても、どこに逃げ道があるのかを知らない。誰に助けを求めていいのかも。冬馬の父は酒癖が悪く、冬馬が小学生だったころにホームから転落し電車に轢かれて亡くなった。その酒癖に散々悩まされた母は女手一つで冬馬を育て、高校にまで入れてくれた。仕事を幾つも抱え、夜は遅く、朝は早くに出ていく母に心労を掛けられる筈も無かった。


 だが、そんな自分すらまだ「幸福な家庭」で生まれ育ったと思える。


 十六夜佳乃は……彼女の生い立ちは壮絶の一言に尽きる。


 彼女には両親がいない。亡くなったとか、離婚したとかではない。彼女はまだ生まれて間もない頃に道端に棄てられていたのだ。


 誰が、どうして……そんな同情が寄せられる程には話題になったという。彼女は児童養護施設へと引き取られた。


 管理された私生活、明確に定められた上下関係――彼女は家庭という愛を知らないままに成長することとなった。隠蔽体質の強い施設だったらしく、受けた虐待も一度や二度ではなかったという。行政の立ち入り調査、メディアによる実態の暴露によって、施設は立ち行かなくなり、閉鎖。


 佳乃は里親に引き取られることとなった。里親がどんな人物なのか冬馬は知らない。だが、話を聞くに宗教的な信仰の強い両親だったようだ。佳乃は大切に育てられ、ことあるごとに「愛」について教えられたのだという。


 ようやく掴んだ幸せな家庭。そこで教えられた「愛」はいつしか彼女の拠り所となったのだろう。彼女はよく学校でも「愛」について語っていた。


 ――変な奴。


 ――気持ち悪い。


 彼女を見下し蔑むクラスメイト達は、佳乃が「愛」について語るたびに陰で嘲笑した。そして、彼女を「嘲笑う」ことはいつしかクラス内では「ふつう」の事となった。


 冬馬はそんな空気が嫌だった。だから、なのか。気が付けばいつも佳乃と話していた。


 彼女が「変」な人間であることは彼も分かっていた。いや、クラス中の人間が思っている以上に理解していた。なんでこんなことをしているのだろうと、ずっと思っていた。


 だが同時に、彼女は話していて「嫌」な人間でもなかった。彼女の口から紡がれる「変」な言葉がいつしか冬馬にとっての日常になりつつあった。


「冬馬君、どうしたの?」


「あ、すまん……考え事してた」


 冬馬は我に返って佳乃の顔を見つめた。青白くどこか儚げな輪郭。だがその端正な顔立ち、ほっそりとした瞳、長く瑞々しい黒髪は生前のままだ。人形のようだと、不気味がる奴もいたが、この顔が喜び、悲しみ、怒り――感情豊かに変わるのを冬馬は知っている。

 

「あら、思い出に浸ってた? 私達の愛の営みに――」


「……そんな捏造された思い出は記憶にございません」


 油断していると即座に冗談だか本気だか分からない言葉を息を吐くようにすらすらと告げるのも。


 変わっていない。彼女と自分を変えた唯一の出来事は「死」。


「それで、その女王様の教室ってのはなんなんだ」


「そうねぇ。ルールは簡単。女王様は絶対! 女王様の下で皆は愛を学ぶの! 女王は私。冬馬君はそうね。愛玩兼執事にしてあげる」


「光栄なこって……」


 全然そう思っていない口調で冬馬は呟くも、佳乃にとっては冬馬の態度よりも冬馬の言葉の方が重要なようで。


「あら、嬉しい! 女王と執事……誰一人として見られてはならぬ地下室での禁断の恋! 鉄格子と鎖、行き過ぎた恋の果てに二人が待ち受ける運命(さだめ)とは――嗚呼」


「……俺の知っている恋愛要素皆無なんだけどそれ」


 溜息を吐きつつ、画面に改めて目を向ける。


 黒い画面に赤い文字で「女王様の教室」とある。メンバーは31人。かつて冬馬と佳乃が在籍していたクラスの人数とほぼ同じ。冬馬の背筋が凍りつく。


「よくある感じの胡散臭いサイトだな。どうやってメンバーを集めたんだ」


「あら、皆の携帯にお手紙を送って招待したのよ?」と佳乃が言うと、画面が勝手にメールへと切り替わる。それはどこのメール会社の物でもない。暗い画面にぽつんと文面だけが浮かんでいた。


「ごきげんよう皆様、いかがお過ごしでしょうか。十六夜佳乃です。この名を覚えてないという方もいるでしょう。一年前、皆様と一緒に過ごさせていただきましたクラスメイトの一人です。何故、生きている? 誰かのたちの悪い冗談? そう思っている方もいるでしょう。ですから、一度このサイトに遊びにきてください。皆で一緒にゲームをしましょう。そして『愛』について語らいましょう……そして一つになりましょう。そうすれば、みなさんが感じた疑問なんてすぐにどうでもよくなりますから。お待ちしております」


 その下には『女王からの招待状』という項目がある。


「……全員こんな詐欺メールみたいなのに引っかかったのか?」


「えぇ。皆。先生も含めて皆来てくれたわ」


「それで、復讐……するつもりなのか? お前は。幽霊だから、呪い殺すとかできそうなもんだが」


「あらあら。そんなことはしないわ」


 幽霊、呪い殺すといった単語に彼女は怒ることもなくそう答える。再び、画面が切り替わる。そこはチャットルームになっていた。誰々が何日、何時何分に入室しました。発言しました等々わかるようになっているのだろうが、今は、


『女王:幽=霊が入室しました』


 とだけ表示されている。つまり、佳乃一人だ。


「ゆうれい……とはまた捻りも無いネームにしたんだな」


「あら、幽霊じゃないわ。幽(ユ)=霊(リン)よ」


 小さな訂正が入る。すごくどうでもいい。日向が動画内で喋るしょうもないギャグよりかはセンスはいいが。


 冬馬は改めてパソコンを見た。画面は確かについているのだが、幽=霊は一度もスイッチはおろか、キーボードにすら触れていない。冷静に考えなくてもこれは怪奇現象に違いないだろう。一度、彼女の怨念にとり憑かれかけたことのある冬馬はその程度では驚かない。だが……。


「なぁ」


 ここから先の言葉は慎重に選ばなければならない。サイトに挙げられていたクラスメイト達。二人が在籍していた頃の名前に相違ない。だが――。


 冬馬はメンバーのうちの何人かを指さす。佳乃の表情が微動だにもしない事に寒気を感じつつ、子供に言い聞かせるように言葉を絞り出す。

 

「お前は……“知らない”と思うが、お前が死んだ後、クラスで失踪事件が相次いだんだ。そいつらは呼んでも来――」


「あら、知ってるわよ。だってその人達を連れてったの私だもの」


 咄嗟に立ち上がろうとした冬馬は動けなかった。手足にまるで重りでも乗せられたかのように震えている。


 ――金縛り。


 額を汗が流れ落ちる。心臓を素手で鷲掴みにされるような感覚。「まぁまぁ」と当の佳乃は悪戯を仕掛けられて怒る男子を窘めるように笑った。


「殺したのか」


「此方の世界の言葉で言うなら、そうね。そうなるかもしれないわね」


「何のために」


「『愛』の為」


 幽=霊は迷うことなくそう告げた。化け物じみていた彼女の顔に薄っすらとだが人間だった頃の情熱が戻る。


 多分、それはどうしようもなく歪んでる感情だろう。だが、それが彼女にとっての唯一の原動力、この世の大地に魂を縛り付ける信念。


「みーんな、生きているうちに分かってくれると思ったのに。『愛』はね、全ての人の心を救ってくれる拠り所なの。親から子どもへの愛、子どもから親への愛、友達から友達への愛。そして――」


ふと、佳乃の顔がゆっくりと近づいてきた。彼女の目の色が変わる。冬馬の心臓が跳ね上がった。


 頬に触れる彼女の唇、柔らかく蕩けるような感触。身体は硬直して指先だけが死にかけの芋虫のように蠢く。


 だが、


「残念。嫌がる相手にするつもりはないの」


 ふと体が軽くなった。全身の金縛りが解けている。心臓の動悸はまだ収まらなかった。佳乃の言う通り。この動悸は嫌悪から来るものだ。


「俺の知っている佳乃は……こんなことはしない。自分の語る『愛』が誰に信じられる事がなくても、いや、むしろ信じられないことを知ってて、道化に興じているようなそんな『変』なやつだった。誰かを殺したりなんてできるような奴じゃなかった!」


「可哀想に」


 怪物の声が聞こえた。それは佳乃の口を使って語り掛けてくる。俯き、彼女がどんな表情をしているのかは分からなかった。ただ、口だけが動く。


「この憎悪、紛いなく本物、私の物――否定するか、佳乃はお前だけを信じていたというのに、私……に酷い仕打ちをして、心を壊し、嘲笑い、消えればいいのにと、願い、自ら手を下すことなく、佳……を殺し、自らは……素知らぬ、存ぜぬと――、」


 佳乃の体からどす黒い影が噴き出した。佳乃の唇からは獣のような牙が、額から肉と皮膚を割って二本で一対の角が突き出す。華奢な体つきはそのままに、指先の爪は猛禽類のように鋭く変化した。

 その声はノイズが掛かったかのように聞き取れないが、1人の声ではない。

 

 化け物でも、佳乃でもなく。二人が同時に語り掛けてくる。


「貴様は――……ちょっと、静かにして。同時に喋ったら分からないじゃない」


 “佳乃”はそう言って化け物を黙らせた。そっと上げた手が震えていた。友達に隠していた嘘がばれた子どものように彼女は震えていた。


「あぁ……。冬馬君にはもう少し内緒にしておきたかった。この姿――ねぇ」


 月明りが差し込み、彼女の顔がそっと浮かび上がる。


 この世の全てに対する憤激に燃える獣の左眼と、目の前の少年への想いで潤んだ右眼。


「私の事……嫌いになった?」

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