十六 目覚めの口づけ

 ――今のは一体……。


 遠い昔の記憶は一瞬。日向はペタと自分の頬を触る。そうしないと、自分が何者なのか、見失ってしまいそうだった。


 べとりと、触れた先から真っ赤に濡れ、ハッと我に返る。


「あはっ! 二人の恋があまりに甘々だったからつい刺しちゃったわ。さぁ、ここからどうするの? 悲劇のヒロインよろしく最期の言葉を伝えてみる? それとも、ここから奇跡を起こす一言でも呟いてみる? さぁ、さぁ!! 見せて見せて! 命が尽きるギリギリこそ燃え上がるのだから!」


 今にも蕩けそうな甘ったるい声で幽=霊は喋り、星月夜の血で塗れた刃を艶めかしく舐めとる。


 刃が突き立てられた傷口からどくどくと血が滴り落ちみるみるうちに地面を朱に染めていく。顔面蒼白になりながらも星月夜は日向の服を必死に掴んでいた。


 息も絶え絶えに、顔は汗でぐっしょりと濡れていた。今にも消え入りそうな冷たい吐息交じりに囁く。


「だい、じょうぶ」


 日向の手に自身の手を重ね傷口へと運ぶ。鋭く深い朱の一線。放っておけばそのまま出血多量で死ぬであろう傷に、日向の指は怖気づいた。熱いものにでも触れたかのように手が跳ねるが、星月夜の手は微動だにしない。


 触れた指の先、傷に光が集まる。


「ご、しん、けん、如何なる……傷も、病も、癒す力を私は持っていますから」


 話しているうちに星月夜の傷はみるみるうちに塞がる。傷の痕すら消えていた。服が破れた箇所から珠のように白い肌がちらりと見えた。


 致命傷が目の前で無くなった。月並みな表現だが、まるで魔法のようだった。だが、その「魔法」も、無制限にデメリット無しで使える物では無いのだろう。星月夜の顔は汗でぐっしょりと濡れ、青ざめている。そして、もう立ち上がる程の気力すら無いのか、日向の腕の中で震えていた。


 星月夜の小さな身体を抱え、日向は幽=霊の様子を伺う。彼女は何もせず、ただ二人のやり取りを恍惚とした表情で眺めていた。弄んでいるわけでも、強者故の余裕というわけでもない。


 ――純粋に目の前の出来事を楽しんでいやがる。


 日向は今まで何人もの幽霊を見てきた。彼らは揃いも揃って変な連中ばかり。それもその筈。死んで尚、自我を保ちこの世に留まるには、人並み外れた強い思念が必要不可欠となるからだ。少しでもほんの一瞬でも、この世への未練が断ち切られれば、霊体はこの世での存在を維持出来ずに自我を失い、あの世へと送られるのだ。


 非業の死を遂げた者、理不尽に殺されてしまった者等、強い怨念を持った霊が実体化しやすいのもこの為。だが、それ以外の例も勿論ある。


 他人には理解すら出来ないような執念もそのひとつ。


 今、この瞬間二人が生きていられるのは幽=霊の気まぐれに過ぎない。


「命を燃やし、魂を焦がし、あぁ、これこそ愛! いつまでも見ていたい!!」 


 ――ふざけやがって。


 日向には万に一つの勝ち筋も無い。周りは濃霧。仮に逃げ出せたとしても視界0、地理感覚もないこんな場所で逃げ切れる自信は無い。第一、この場で逃げ出したりなどすれば幽=霊は怒り狂う筈だ。


 勝つ手立てではなく、生き残る為の手立て、それは幽=霊を心の底から満足させる事だ。あわよくば成仏させてしまる程の……愛。


 ――愛ってなんだ。熱烈にキスでもすれば引いてくれたりするのか? でも、それは俺が恥ずかしさで死ねる……。


 悶々としながらも思考を巡らす。だが、日向の幽=霊に対する見立ては甘い。


「うふふふ、二人共このまま死ぬの。実らずして果てる恋。最高だわ」


「なっ!?」


 相手にこちらの常識が通じない事は理解していた。だが、その理解はまだまだ浅い。気持ちが昂った幽=霊の背から先程と同じく、鎌状の触手が突き出ていた。それは天高く伸び、周囲の霧を吸ってどんどん大きく膨らんでいく。


 巨大なギロチンだ。あんなものが落ちてきたら二人とも原型をとどめない挽肉になってしまうだろう。星月夜を庇うように強く抱きしめる。腕の中で、星月夜が動いた。


「……日向君」


「あ、だ、大丈!?」

 

 物凄い力で抱き寄せられる。顔と顔が密着しそうな程に近い。甘い吐息が掛かり、日向は身体を強張らせた。そんな日向に、星月夜はそっとその頭を撫でた。


 星月夜の頬を辿って水滴が、日向の顔へと落ちた。


「これしか、方法がありません……嫌かもしれない、私の事も、何も、覚えてなくて、突然やってきたりして……嫌いですよね。……でも」


 ――世界を救う為に私とキスしてください。


 初めて言葉を交わした時。何をふざけたことを言っているんだと、日向は軽蔑した。今になってそれを後悔する。相手に理解されない、嫌われるかもしれない。でも、やらなければならない。やらなくては誰かが死ぬ。


 そんな葛藤や思いと戦いながら出した叫びだったのだと。


 ――馬鹿は俺の方だ。


 星月夜の言う記憶とやらは戻らない。女に口付けをする程大人でもない、目の前の少女が、好きか嫌いかそんなことも分からない。


 ――だとしても、これは俺からやるべきなんだ。


 死の刃が二人を押し潰さんとまさに迫る中、日向は星月夜の唇に口づけした。



 驚く星月夜の唇が柔らかく触れ、舌が混ざり、そして、星月夜から日向へと霊気が流れ込む。




「……あら?」




 幽=霊が首を傾げた。相手を挽き潰すその感触は幽=霊にも伝わるのだろう。だからこそ不審に思う。人間の肉はこんなには硬くない、と。


 歪んだ感情を圧縮して固めたギロチンが下から押し返されている。蒼白い稲妻を纏った半球状の結界。大きさは人間二人分を包む程度に過ぎない。にも関わらず、ギロチンは気圧されるように幽=霊の身体へと戻っていく。

 

 圧倒的な存在を前にして逃げ出す獣のように。


  ――な、なんだこれ。


 日向と星月夜の口付けは続いていた。いや、正確には自分の意志で終わらせる事が出来ない。星月夜は日向から口づけしてくるとは夢にも思わなかったのだろう。瞳を大きく見開き、顔を真っ赤にさせている。何かを言おうとしているようだが、日向も止まらない。


「ン―!! んぅうう!!」


 ――いや何言ってるか分からないってっの!!


 身体の中から力が溢れてくるのを日向は感じていた。とても体の中には収まりきらない程の力。筋肉が痙攣し、血管が浮き出る。身体が張り裂けてしまいそうだった。


 身体の中で二つの霊気が荒れ狂い、混ざり合う。身体から発する蒼白い稲妻と黒い稲妻が宙で結びつき、空が、大地が、木々がびりびりと震える。


 星月夜は震える指で日向の服を掴んだ。びりっと布が裂けボタンが弾け飛ぶ。日向が驚くのも構わず、星月夜の細い指先が肌を撫でた。全身に鳥肌が立った。爪を立てられ、反射的に目を見開く。皮膚が薄く切れる。


 ――動かないで。


 星月夜が目でそう伝えてくる。身体が強張っていたが、日向はされるがまま。


 血のついた指先を微かに震わし、薄く薄く、紋様を描いていく。


 五芒星(セーマン)


 陰陽道における尤も有名な印。不意に身体の中で荒れ狂っていた霊気が五芒星へと集中する。何か硬い物が胸の中につっかえるのを感じた。星月夜の手が導くように、日向の手を取り胸へとあてがう。五芒星の描かれた辺りにぽっかりと空間が開いていた。


 手が触れたのは金属質の柄。心がざわつく。初めて触れる筈なのに、もうずっと使い慣れたかのように手に馴染む感覚。


 ――剣だ。


 すらりと抜けたのは、漆黒に輝く刀身に白く煌めく刃。


「す、すげぇ……なんだこれ、俺の胸から剣が、うわっ!?」


「な、なんで、あなたからキスしてきたんですかぁ!!」


 長い口づけが終わった瞬間、血相を変えた星月夜に日向は押し倒された。未だ顔が青ざめてはいるものの、どこからそんな力が湧いてくるのか、星月夜は何度も何度も日向の胸を拳で叩いた。


「な、なんでって……そりゃ。俺からしなきゃいけないと思って……その、悪かったよ」


「馬鹿です、大馬鹿!!」


 何をそんなに怒られているのか分からなかった。が、理由を聞く暇は無かった。


「素晴らしいわ。まさに、二人が混じり合って出来ちゃった結晶ね!」


 剣を見て意味深に恍惚とした表情を浮かべる幽=霊。 出来ちゃった言うなと、心の中で一言。自分達を殺しかけた亡霊とは思えない独特過ぎるペースに、かき乱されそうになる。だが、日向は揺るがない。それ以上付き合おうとしない。


「黙れ」


「…………」


 ぞわりと、幽=霊の気配が変わる。笑みを顔に張りつけたまま、かくりと首が曲がり、人形のように顔が傾く。


「そっか。あなたもやっぱり、私を拒絶するのねぇ。でも、いいよ。あなた達もお人形にして……、沢山愛してあげるから」


 ゆらりと霧の中で幾つもの人影が揺らいだ。全身真っ黒の影法師のような姿。その背格好は幽=霊と似通っている。制服姿の少年少女達。


「安心してね、一緒の箱庭に入れてあげるから……」

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