十五、護る剣

 幽=霊は二人の頭上を旋回した。腕を広げると真っ黒な霧が左右一杯に広がり、辺りを包み込んでいく。月光も星の光も、人工の光ですら通さない。幽=霊の指先が鳥の鉤爪のように曲がる。掌からどろっとした血のような液体がばしゃりと地面に流れ落ちた。


 血の染みこんだ大地に何かが宿るのを日向は感じた。


「あぁ、やっぱり夜はいいわ。力が漲って溢れる……」


 幽霊のような、だが、いつもとは違う気配。


「日向君、下がってください。こいつ、一体何を」


「……?」


 霊符を構え星月夜は、日向を背の後ろへと下がらせた。慎重差があり過ぎて、隠しきれていないだろというツッコミは、流石に控えた。


 それよりも、星月夜は気が付いているのだろうか。血が垂れた先に嫌な気配が生まれたことを。余計な口は挟まない方がいいのかどうかと悩む暇は無かった。


「ふふ、おいで愛しい子達」


 どぷんと泥のような質感の塊が星月夜目掛けて飛び掛かる。星月夜は舞うようなターンでそれを避けた。べちゃっと地面に落ちて潰れる泥の塊。


 何か得体の知れないものを感じて、日向はその泥へと視線を向け――、


 ――目が合ってしまった。


「いっ」


 泥のようなそれは肉塊――人間の顔のように見えた。


 苦痛に歪んだ醜悪な顔。瞳のある筈の場所は窪み、真っ黒な眼窩がこちらをじっと見つめている。


 恐怖で固まる日向に、満足そうな笑みを浮かべ幽=霊がさっと手を振る。星月夜が、ハッと振り向き符を日向目掛けて飛ばした。


 肉塊が口を広げ、毬のように跳ねあがる。が、それは星月夜の飛ばした符によって弾かれる。


「オォオオオオオオ!!」


 悍ましい叫びと共に、肉塊は燃え上がった。浄化の焔は血の一滴、灰すらも残さずに消滅させる。だが、悪夢はそこで終わらない。


「ふふ、さぁ起きなさい、あの子達を抱きしめてあげるの」


 幽=霊の不気味な囁きに乗せて、霧の中で肉塊が蠢く。身体の部位――手を足を、頭が這いまわり一つの身体へと繋がっていく。


 元々一つの身体じゃない。日向は直感的にそう思った。頭は女性、身体は男性、手足は左右ともに非対称と、アンバランスに組み立てられている。


 一つの身体に複数の魂が縛り上げられ、個として動くように命じられる。その動力源は怨念。もはや、誰に向けられた物なのかも分からない。ぐちゃぐちゃにかき混ぜられた思念が、日向の頭に響く。


 ――よくも、

 ――どうして、

 ――私は、

 ――違う、

 ――苦しい、

 ――やめろ、

 ――出して、

 ――殺して

 ――俺は、

 ――赦して、

 ――許さない、

 ――助けて、


「ぐっ……ぇ」


 押し寄せる言葉の波と醜悪な人間の塊に、日向の喉は干上がり、吐き気と嗚咽が腹の底から押し寄せる。頭が苦痛で割れてしまいそうだった。


「日向君! 声を聞いては駄目!!」


 膝から崩れ落ちる日向を星月夜が駆け寄って抱き起した。そうしている間に、目の前では肉塊人形が三体も出来上がる。


 獣のように四つん這いになった二体がバラバラのタイミングで左右から挟み込むように、最後の一体は正面から不気味な挙動で突進する。


 ――万事休す。


 と、思われたが、星月夜の判断は早い。目にも留まらぬ速さで九字を切る。上下左右、格子状に浮かんだ光が右から迫る肉塊人形の突進を抑えた。そのまま左から接近してきた肉塊人形へと結界ごと叩きつける。


 結界は二体の肉塊を包み込みそのまま浄化する。


 その結果を待たず、正面から突っ込んできた肉塊に対して、パンと足をその場で踏み込み力を溜める。


「グォア!!」


 両手を広げ、死の抱擁を施すその直前、竜巻のような蹴りが顔面へと炸裂する。烏羽が舞い、顔面が潰れ、首があらぬ方向へと曲がる。ぐしゃりと地面へと叩きつけられた肉塊はぴくぴくと意味も無く手足をばたつかせるばかり。


 幽=霊はその様子を見てもニコニコとしていた。いや、そもそも戦いそのものに目を向けていないように見えた。


「ん、まさに愛。襲い来るゾンビを蹴散らし男の子を助ける女の子!」


 普段であれば、そんな「愛」が日常的にあってたまるかとかツッコミの一つや二つを入れているところだが……。


「し、しっかりしてください!」


「……くそ、締まらねぇな」


 地面に吐き出してしまった晩御飯を見て日向は自分の無力さに打ちひしがれた。幽霊の存在もその恐ろしさも、分かっているつもりだった。


 ――だけど、これはなんなんだ。


 化け物、物の怪、妖怪。呼称はなんでもいい。だが、そういった物がこの世に存在し、自分は、それらに対抗する為の『剣』なのであると、少女は仄めかし、何かを思い出すことを期待するような目で何度も見た。


 ――俺にはとても無理だ。


 星月夜に期待されるような力は無い。これでは何かを思い出したところで、自分に何が出来ると言うのだ? ただ震えて、少女に守られているような軟弱な自分に……。


「日向君」


 そっと星月夜の両手が日向の汚れた顔を包み上げた。蒼い瞳は潤んでいた。泣きだしたい気持ちを必死に抑えるように、不器用な笑みを浮かべて、


「あなたが思い出さなかったとしても、私は護ります。だから、大丈夫」


「お前――」


 こんな時だと言うのに、日向の口から少女の名前が出ない。彼女を傷つけたくはない。だが、思い出す事も出来ないのにその名を軽々と口に出す勇気が出なかったのだ。


「だって、私は――、」


 視界の隅で幽=霊が動くのが見えた。


 ぞくっと体の芯が震える。頭から身体へと危機を告げるよりも先に手が動き、星月夜の肩を掴む。強引に横へと倒そうとしたが、身体が動かない。


「ぁ……かっ」


 星月夜の瞳が見開かれる。小さく開いた口から吐き出された血が日向の頬を濡らす。その小さな身体からは鎌のように鋭い刃が、突き刺さり先端が飛び出していた。


「愛は壊す物……壊される物なの」


 幽=霊が何かを呟いたが聞こえなかった。背中から蜘蛛の足のように生えた鎌状の刃を星月夜から引き抜く。糸が切れた人形のように倒れる星月夜を日向は抱き留める。


 ――覆い尽くす闇、燃え盛る炎に、


 ――炭と化した仲間の亡骸。


 ――自らの命を与える少女と、


 ――馬鹿野郎と叫ぶ少年。


 遠い昔の記憶が、脳裏を過よぎる。


 自分ではない自分。



 もう一つの記憶が、日向の口を借りて呟いた。



「また、失うのか、俺は……!!」

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