九、夢中の思い出
中学時代。それは渡辺冬馬にとって、心が死んでいた時期だった。
喩えるなら泥沼の中。暗闇の中で手足を必死になって動かし、ありもしない光に縋ろうと腕を伸ばす。やがて、それが無意味な行動だと知ると、手足を引っ込め、貝のように静かになる。
そんな映像が頭の中で再生される。具体的な事は何も思い出したくは無かった。
ふと闇の中にほんのりとした光が射さす。
天に浮かぶ冴えざえとした三日月。一片の雲が月光に照らされている。
――名前。
――名前は何だったか。
何故か気が合い、不思議と心を許せ、気が付けばずっと喋っている。
――唯一。
――唯一楽しかった思い出。
彼女もまた孤独だった事は、薄々と分かっていた。
――「助けて」
――それが最期の言葉だった。
言葉を残して、彼女は消えた。比喩ではない。彼女は跡形も無く「消えた」のだ。
校舎から飛び降りるのを誰もが見た。だが――、地面に叩きつけられたであろう彼女の身体を見た者はいない。
その後、奇妙な事件が幾度と起きた。
――生徒の失踪事件。
――発狂する教師。
――閉鎖される学校。
――そして、「彼女」を目撃したという証言。
冬馬には見えなかった。だが、まるで誰かに貪られるかのように、胸が痛んだ。
――闇が。
――闇が深くなっていく。
彼と彼の学校を救ってくれたのは、自称陰陽師と名乗る胡散臭い男だった。校長だかが、ダメ元で雇ったのだと聞いた。
陰陽師は、被害に遭った生徒でもなく、教師でもなく、最初に消えた「彼女」と親しかった冬馬に会いに来た。
――「彼女」は君に憑いている。
――だから、君には見えないのだ。
陰陽師は、そっと冬馬の肩に触れた。見えない何かが肩を伝って、陰陽師の腕に絡みつく。
――やはり。
陰陽師は呟いた。冬馬は「どうしたら」と訊ねた。
――大丈夫だ。君は助ける。
そう励ましてくれた陰陽師に、冬馬は首を振った。
――違う、
――違う、「彼女」を助けるにはどうしたらいいか、教えてください。
恐らく、そんな事を頼まれた事は一度も無かったのだろう。陰陽師は目を丸くさせたが、それでも冬馬の言葉を笑う事は無かった。
――「彼女」を君の中から出してあげよう。そして君も「彼女」の事を忘れるんだ。だが、いいかい。忘れはしても、消してはいけない。「彼女」との繋がりを無かった事にしてはいけないよ。
その時は意味が分からなかった。今も、はっきりとは分からない。
――それと、
と陰陽師は少し照れくさそうに言った。
――これが終わったら、息子の友達になってあげて欲しい。
意外な、そして、とても素朴な願いに冬馬は少し驚いた。
――突然ですまない。あの子、友達が少なくてね……それもこれも僕が悪い。
それは、罪悪感で塗り固められた告白だった。
――いいですよ。
冬馬は答え――そこで記憶は途切れた。
「よし、の……」
譫言のよう呟いて、冬馬は目を覚ました。ふと、視線の端に誰かが急ぎ足で出ていくのが見えた。看護師かな、と反応の鈍い冬馬は特に気にする事も無かった。そして反対側を見ると初老の医者が椅子に座ったまま眠り込んでいた。
――疲れてるのかな。
と、根っからのお人好しである冬馬は傍にあった毛布をその医者に掛けてやった。
「そういや……検査、どうなったんだ」と、冬馬は重たい頭で考えた。気が付くと病院で……確か、寝たままの状態で色々と普段の健康状態を聞かれ――いつの間にか眠ってしまったところまでは覚えている。
何気なく、冬馬はベッドを降りた。日向達が救急車を呼んでくれたのだと聞いている。日向の性格からして冬馬の顔を見るまでは帰らないだろう。きっと心配している。
顔を見せるだけならすぐに済むだろう、と冬馬は病室を出た。
日向はすぐに見つかった。星月夜も傍にいる。そしてもう一人。
「日向の姉さん……?」
――冬馬君が抱えている心の負荷を少しだけ和らげたの。大分怖い思いをしたみたいだから。
――その……記憶を丸ごと消すとかは出来ないのか?
「なんの……なんの話をしているんだ」
背筋を嫌な汗が伝い、思わず、影に隠れた。
――心の負荷を和らげる? 記憶を消す……??
何か、何かを思い出そうとする。だが、出来ない。
「なんだ……一体なんの話をしていたんだ……」
顔を覆う。腕を壁に擦りつけ、ふらふらとする身体を支える。
その時だった。
ポケットの中でスマホが震える。彼にメールなり電話なりを送るのは、家族か、日向しかいない。が、そのどちらも、何故か今の冬馬の頭の中では除外されていた。
――まさか。
差し出し人:幽=霊
タイトル:ここに夜9:00にGOなのよ
本文:待っているのだわ。
小さな地図が添付された短い文面だった。ギリっと頭の中で、錆びついていた記憶の歯車が軋む。
「俺は知ってる――こいつを」
――中学時代の同級生で、
――変な言葉遣いの、
――いつも独りきり、
――最期の言葉は、
『助けて』
思わず叫びそうになり、口の中に拳を突っ込んだ。その震える背中に声が掛かる。
「おいおい、君、ダメじゃないか。勝手に抜けだしたら……」
自分でも驚く程、冬馬は冷静に、世界へと引き戻されていた。医者にばれないよう、拳をそっと降ろし、いつも通りの調子で振り返る。
「あはは、すみません。『友達』を探していたもんで」
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