七、カレー戦争

 買い出しもまた、大波乱だった。カレーに入れる材料なんてものは、特にこだわりが無ければ、揉める等ということはない。そう、“カレーに入れる物自体”は。


 問題はカレーそのものについてだった。


「え、えっと、甘口……じゃないと、私」


「甘口なんてカレーじゃない、せめて、中辛をだな」


 二人は静かに火花を散らしていた。辛さ調節をめぐって。流石に店の中なので、二人とも大ぴらには騒いでいない。……なのだが、カレーのレトルトコーナーにだけ、明らかな温度差が生じていた。


 おばちゃん達の激安セール戦場もかくや。両者は一歩も譲らない。


「あんま駄々捏ねていると激辛の方を買っちまうぞ?」


「お、鬼!! 日向さんは鬼か悪魔ですか!?」


「あー、はいはい。二人ともストップ……」


 またしても、冬馬は二人の間に入った。彼にはこの事態を打開できるだけの秘策があった。


「なら、一緒にりんごも買っていこうか。星月夜さんはりんご入れて、甘くすればいい。んで、日向、お前は中辛そのままで食べる。それでいいだろ」


 こうして二人の戦いは停まった。しかし、それは一時的な停戦でしかなかったのである。


「と、鶏肉の方がいいです! 鶏肉にはですね! 足の筋肉にとってもいい栄養素が」


「なんの栄養が入ってるとか知らん! 俺は牛肉の方が食べたいんだ!!」


 鶏肉か牛肉かで揉め、


「や、野菜は沢山入れた方が、栄養が」


「だからってこんなに玉葱は必要無い!」


 玉葱の個数で争い、


「牛乳は要らないだろ!」


「コーラは身体に悪いです!」


 飲み物をどうするかで激闘を繰り広げた。


 そして、お会計を済ます頃には、三人ともくたくたになっていた。周囲には少なからず二人の争いを見ていた人がいたらしい。気のせいか、周囲からニヤニヤとした視線を冬馬は感じた。


「つ、疲れた……」


「うぅ……」


 ぜいぜいと息を吐く買い物騒動主犯の二人。


「ねぇ、お前ら」と冬馬はニコニコとした笑顔を浮かべていた。ぎくっと二人は身を強張らせた。一目で分かる。彼の顔に張り付いている表情と内で煮えたぎっている感情が真逆であるということが。


 表は菩薩、裏は閻魔。これ以上怒らせると閻魔になると、二人は同時に確信した。


「「ごめんなさい」」


「……お前ら、変なとこで息ぴったりだな」


 同時に謝られて、冬馬の怒りもどこかに飛んで行ってしまったらしい。それから三人は買い物袋を手に商店街を後にした。


 だが、波乱はここで終わりではなかった。


 家に向かう途中の住宅街。土御門家がある山ノ内町は坂道が多く、場所によっては傾斜もきつかったりする。おまけに真夏の真昼。太陽が真上からカッと照らしつける。熱せられたコンクリートからもやもやと熱気が反射し、サウナの中にでもいるような蒸し暑さが三人を包み込んでいた。

 道に不慣れな星月夜を先導する形で、日向と冬馬の二人が前を歩く。その途中で、日向はふと気になって振り返った。


「そういえば、星月夜さん家、どこらへんにあるんだ?」


「や、八雲町の方です」


「へぇ、意外と近いんだな」


 三駅先の町だ。が、星月夜はぶんぶんと首を振る。


「あ、歩くと結構な距離でした」


「待て、あの荷物でここまで歩いてきたのか……」


 日向が驚き呆れて聞き返すと、星月夜はこくこくと頷いた。最初に出会った頃よりかは、普通の反応だ。


「えっと、人混みはすぐ酔ってしまうので……」


「歩いてここに来る方が熱さでくらくらになるだろうに」


 星月夜の真っ白な肌は、上気で熱を帯びて仄かに赤い。


 だが、彼女は「あ、熱いのと歩くのは慣れてます!」と、謎の気合を見せている。徐々に、だが、彼女の素顔が見えてきたような気がした。今なら、あのトンデモ発言の真意を聞くことができるだろうか……いや。


 今聞いて、買い物袋を落とされても困る。日向はそう判断した。


「そっかぁ」と無難な返事を返すしかなかった。


「はい!」と律儀に返したところで、星月夜の足がぴたっと止まった。


 同時に、あれ程鬱陶しかった暑さが急にどこかへと消え、いつの間にか周囲は薄い霧に包まれてしまう。


「え……?」


 日向と冬馬の二人もまた、異変に気が付いたのだが、その反応は鈍い。何が起きたのかを把握する事が出来なかった。


「一体……」


「怪異です」と星月夜はそれまでのおどおどとしていた様子からは、想像もつかない程、凛とした声音で二人の疑問に答えた。


「……今、なんて?」


 土御門家は霊感が強く、日向もまた、ずば抜けてその手の感覚は鋭かった。幽霊を見るだけでなく、触れて言葉を交わすことすら出来た。


 幸か不幸か、そのおかげで、今のこの超常現象にも悲鳴一つ上げる事は無い。隣にいる冬馬も霊感の強さから過去に怨霊に襲われ、正春に解決してもらった経験を持っている。その時の記憶が蘇ってくるのか、青ざめた顔をしながらも、取り乱すような事は無かった。


 だが、二人とも、超常現象を経験はしても、それに対処するだけの技も力も持ち併せてなどいなかった。



 そして、この場で最も冷静なのが星月夜だった。


「幻を見せる瘴気。蜃気楼ですね、これは」


「ま、待て、俺には何がなんだか」と慌てる日向の肩に、星月夜は優しく手を置き、「大丈夫です、怖くないですよ」と慰めた。


――なんか腹立つな……。


と思ったが、彼女にはこの場をどうにかできるだけの力があるらしい。部屋で見た符だらけのスーツケースが不意に頭をよぎる。あんな不気味な光景が今になって頼もしく感じる。 


「見せてあげますよ、幸徳井流、符術」


――式紙召喚!


 星月夜の言葉が立体となって耳の中に響き渡る。目に見えない力が彼女の言葉を武器へと変える。


 袖からはらりと、符が舞う。


――一枚、二枚、三枚、四枚、五枚、六枚、七枚、八枚、九枚、十枚、二十枚、三十枚、四十枚、五十枚、六十枚、七十枚、八十枚、九十枚、百枚と、


 紙吹雪が視界一面に降り注ぎ、周囲の霧から水分を吸収していく。よくみるとその符は人の形をしていた。


 古来、人形とは人の代わりに呪いを肩代わりするものとされていた。


 水を吸った紙がパタパタと地面に落下していく。同時に周囲を覆い尽くしていた霧もまた晴れていく。


「す、すげぇ」と、日向は思わず声をあげた。それを聞いてか星月夜は振り返り、得意げな笑みを浮かべた。


 彼女の笑みと同時に、彼女の前に音も無く舞い降りる人影が視界に入った。考えるよりも先に日向の身体は動いた。後ろから抱き着くように星月夜の身体を押し倒す。


 ひゅんという音と共に、星月夜の首筋に赤い線が入る。


「わ、わ、だ、大丈夫か、これ!?」


 星月夜を押し倒すような形になっている事にも気づかず、日向は驚き慌てふためいた。いきなりの事にぽかんとしていた星月夜は顔を赤らめながらも、日向を押しのけた。


「だ、大丈夫ですから、その……どいてください――日向君」


 初めて名前を呼ばれた事に気づき、日向は押しのけられながらも、妙な既視感を感じていた。


――この感覚、前にも経験した……気がする。



 だが、その静寂も一瞬の事だった。



「あぁ……残念。刎ね損なっちゃったのだわ。嗚呼、本当に残念なのだわ」


 星月夜を襲った人影が音も無く揺れる。よく見ると脚が無かった。


 蒼白い人型の輪郭の中に映るのは、整った顔立ちの少女だった。あまりにも整然としているので、人形だと説明されてもなんの疑問も抱かなかっただろう。



 人形のような少女の背後の空間にはぽっかりと大きな穴が空いていた。



「私の名は、幽ユ=霊リン。死ぬまでに覚えておくといいのだわ」と、制服姿の幽霊はそう答えた。



「覚える必要はないわ、怨霊。とっとと成仏しやがれ、です」


 星月夜は首筋の血を軽く拭い、細く、細く、口元に笑みを引く。


「悲しいのだわ。嗚呼、名前をちゃんと呼んでくれないなんて。それに酷い言葉だわ。私はただただ殺したくてここに来ただけなのに。殺して、その魂を閉じ込めて愛でる。ただそれだけの為に――」


 と、意味が分からない事を喋り続けていた幽=霊が無表情のまま顔を斜めに傾けた。黒い髪の束が、駆け抜けた不可思議な力によって切り裂かれる。


「酷いのだわ。髪は女の命! 嗚呼なんて野蛮なのかしら」


「随分とお喋りが好きな怨霊ですね」


 見えない弓矢を引くような姿勢を取り、星月夜は強気に返した。


「今すぐ、殺してやりたいのだわ――でも、私のお目当ての子、様子を見る事が出来たから。今日はこの辺にしといてあげるの。またね――今度は必ず殺す、の」


 幽=霊の足元から濃い霧が溢れるように発生した。間髪入れずに星月夜が再び、見えない矢を放つ。が、濃い霧は一陣の風となって空高く飛びあがり、真っ黒な穴の中へと吸い込まれていった。


 幽=霊の消失と共に穴も閉じ、いつの間にか、夏の喧騒も戻っていた。



「に、逃がしてしまいました……」


「ぁ、ぇっと……そ、そうなのか、そうだよな……逃げてったな」


 掛ける言葉が見つからず、どうしたらいいのか分からず、何を聞けばいいのか思いつかずに、日向はその場で呆然と立ち尽くした。


 どさっと、何かが倒れる音がした。


「冬馬!?」


 後ろで冬馬が仰向けに倒れていた。顔面は蒼白、歯をカタカタと鳴らしながら、間から荒く呼吸している。


「おい、しっかりしろ!」


 駆け寄り、抱き起すも、冬馬の目は焦点が合っていなかった。


「…………そんな……あ……し……だ」


 くぐもった言葉に、「え?」と日向は聞き返した。先程の異常な光景に気が狂ってしまったのか。とにかくなんとかしなければ。焦るが、何をどうしたらいいか、分からなかった。咄嗟に星月夜の方を見る。が、


「あ、えっと……ど、どうしよう」


「俺に聞くなよ! なんとかしてくれ!!」


 同じように慌てふためく星月夜に苛立ち、思わず怒鳴り返してしまう。


――親父に電話するか、それとも今すぐ病院まで行くか、それとも……?


 どう判断すれば正解か分からず、頭の中はパニック寸前だった。


「119番。急いで」


 すぐ傍から上がった声に、日向は飛びあがりそうになった。


「ね、姉さん……」


 バイトがいつもより早く上がったのだろうか、通勤に使っているママチャリを傍に停め、土御門菊里はさっと、日向の手から冬馬を取り上げた。


「ぼっとしない、早く!」


 突然の登場に呆然としている日向に菊里はバシッと言葉をぶつけた。


「あ、ああ、はい!!」


 ようやくまともに身体と頭が動き、携帯をポケットから取り出した。冬馬は未だ、荒い息で獣のように呼吸し続けている。だが、今は菊里が必死に背中を撫で落ち着かせようとしていた。日向はひとまず胸を撫でおろした。


 まだおどおどと涙目になっている星月夜に、大丈夫だと言うように視線を送る――が、伝わってないのか、先程の怒声がまだ怖いのか、びくっと震えるだけだった。


――変なやつだ……。


 気が付けば日はやや傾き始めている。昼飯はお預けになるだろう。嵐のような午前がようやく過ぎ去ろうとしていた。

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