8-6
◆◆◆
さて、話は少し前に遡る。この壮大な茶番の前夜、ヨナを伴ったレグルスが向かった先は、父王の寝室だった。
深夜の「作戦会議」は、何度か王の溜息やノラの叱責で中断したものの、概ね滞りなく終わった。ヨナが何度か「魔女」としての見解を示してくれて助かった、と、一通り確認を終えたレグルスは息を吐く。
レグルスがそうであったように、王やロビンは魔術の仕組みには疎い。彼らにしてみれば、レグルスの言い出したことなど、手の込んだ心中にしか見えないだろう。言った本人のレグルスですら、上手くいくという確信はない。
そんな中、不自然なほど押し黙っていたロビンが、最後にぽつりと呟いた。
「……分かりました。では、そのように。
ですが、兄上には一つ言っておきたいことがあります」
レグルスは目を瞬かせ、最近また背が伸びたらしい弟の顔を見上げる。
「……うん?」
首を傾げれば、ロビンは苦虫を噛み潰したような顔で息を吐き、言葉を継いだ。
「僕、ずっと兄上が嫌いでした。身勝手で、いつも父上と喧嘩ばかりして全然反省しないし。困るの僕なのに。今もやっぱり、何でわざわざそんな危ない計画持ちかけてくるのか理解に苦しんでますよ。真性の馬鹿なんじゃないのかって」
真性の馬鹿。
そんな暴言が、よりによってこの弟の口から飛び出す日が来るとは。
「ば、馬鹿ってお前……。えぇ……?」
嫌いだと言われたことよりそちらに驚いて、レグルスはぽかんと口を開けた。
その顔が余程面白かったのか、ロビンの本音が愉快だったのかは知らないが、突然の兄弟喧嘩を開始した二人を置いて、周りの大人たちは一斉に噴き出した。
他人事だと思って、とレグルスはそちらに恨みがましい目を遣り、ロビンの方へ視線を戻す。当たり前だが、怒っているんだか何なんだか分からない変な顔の弟と、ばっちり目が合った。
どっちを向いても居た堪れない。勘弁してほしい。
「わ……分かってるよ、好かれてないのは。けど、今回だけ頼むから協力……」
「本当に分かってるんですか? 分かってないでしょう、兄上。面倒になるとすぐそうやって逃げるの知ってますよ。とにかく黙って聞いてください」
「……お前、性格変わったな……」
どちらかと言えば今まで猫を被っていたのだろうか。いやまさか。
この一年で、ロビンにもいろいろあったのだろう。元々、お小言の類は昔から言われていたのだし。ここまで押しが強くはなかっただけで。
降参、と肩を竦めれば、ロビンはつり上がっていた眉の形を八の字に戻して頷いた。
「……ヘマした僕の代わりに父上に叱られたり、勉強だって、僕が答えられるまで馬鹿やって怒られようとしたり、それに……母上の時だってそうです。あの時、僕の前では泣かなかったでしょう。おかげで僕は、母上が亡くなったのは兄上のせいだって、気が済むまであなたを恨んでいられた。
僕、兄上は『何もしなくても目立つ』と思ってました。でも違ったんだ。あなたが派手に問題を起こすから、僕はいつも、『優秀な次の王』でいられた。
頼んでもないのにあなたはそうやって、一人で勝手に決めて、中途半端に僕を甘やかすんだ。僕がどうしたいかなんて、全く考えてくれないくせに」
ロビンの言外の圧にたじろいだレグルスは、内容を反芻して、ふと首を傾げる。
嫌いだからこの後は顔を見せてくれるな、という話か、それとも「協力したくない」という意思表示かと、内心恐々としていたのだけれど。どうやら、ロビンの言う通り、自分は読み違えていたらしい。
見解を求めて父の方を見れば、珍しく目尻に笑い皺を刻んだ老父が、くつくつと笑って頷いた。……言いたいことを言えばいい、とでも言うように。
情けなく眉を垂れ、レグルスは言い訳がましく口をとがらせる。
「……だって、俺はお前の兄さんだろ。兄貴面くらい、したっていいじゃねえか」
「そうですよ。兄弟なんです。だから、たまには弟に頼って下さい。守られてばかりじゃ、僕、信用されてないみたいじゃないですか。年だってあまり変わらないのに」
「えぇ? 何だよ、じゃあ手伝うのが嫌なわけじゃ」
「最初に言ったでしょう。『分かりました、ではそのように』って」
レグルスの言葉を先取りしたロビンは、口をへの字に曲げて眉を寄せた。
納得はできてませんよ、と雄弁に語る表情を困惑気味に見つめていれば、弟の纏っていた険しさがほろりと崩れる。レグルスのよく知る困り顔には、かつてのような怯えの色は、もはや浮かんではいない。
「仕方ないじゃありませんか。僕の兄はそういう人で、どうしようもなく全力で馬鹿だから、止めても無駄なんです。だからご無事で、兄上。帰ってきた時、一発殴らせて下さい」
「……嫌いって言ったくせに心配はすんのかよ」
「分かりませんか。好きの対義語は無関心ですよ、兄上」
「何だそりゃ」
じゃあ言うな、とは、言うまい。
再会した時よりスッキリと落ち着いた弟の顔を見て、レグルスは眦を緩ませる。ようやく合点がいったのだ。
季節が一回りする前のあの日、レグルスは、成人を迎えれば大人なのだと思っていた。
もう「大人」だというのに、思うようにならない自分の人生を嘆き、憤り、ただただ「こんなのは嫌だ」と駄々をこねて、何度もリンにぶつけたのだ。
彼女は困った顔をして、そんなレグルスに怒ったり笑ったりもしたけれど、一度だって否定はしなかった。彼を「子ども」だと思っていたからだ。そして、それは正しかったのだと、今では思う。自分にとって、必要なことだったのだとも。
目の前の弟のように、大人の顔で、自分も笑えているのだろうか。
そんなことを思っていれば、ふ、と吐息の漏れる気配を感じ、振り返る。
「……」
すっかりやつれて縮んだ父が、窪んだ目をこっそり擦っていた。
◆◆◆
『これが僕のものだというなら、中に入ってるものなんて『種』しかあり得ない。良いかい、リン、よく考えるんだ。君が知っていること、君が知らなかったこと。忘れてしまったことを思い出して。器の薔薇が咲いたのは、どんな夜だったか』
ヨナに持たされた小箱を見つめ、リンはひとり、空を見上げていた。
暗いばかりで時間の感覚がおかしくなりそうだが、王都から馬車でこれだけ離れたとなると、もう深夜は回っているだろう。下手すると明け方かもしれないけれど、残念ながらリンにもそれを知る術はなかった。ただの日蝕でなく呪いの夜を迎えたためか、空には星すら出ていないのだ。
いやな感じのする靄は、そこら中から噴き出ている。念の為の魔除けを掛け直して、リンは靴を脱いだ。目の前の泉は澱んだ色をしているように見えたが、身を切るように冷たいだけで、まだ変質してはいないようだ。
ホッと息を吐き、気を引き締める。スカートの裾が濡れるのも構わず、ざぶざぶと水の中へ進んでいく。ヨナに預かった小箱は徐々に熱を持ち、完全に泉に浸かると同時、隙間から光が漏れた。
リンは、もう「知っていた」。
最初のキスでリンを鼠から魔女に戻したレグルスが、二度目のキスでも「魔法」を解いたからだ。――誰にも愛されっこない、そうあるべきではないという、リンの千年越しの思い込み。その、あまりに強固な呪いを。
そう、リンは確かに「知らなかった」。
レグルスが薔薇を見失ったのと同じように、リンにも見失ったものがあった。決定的に彼と違ったのは、失って千年もの時を経ていたにも関わらず、彼がその言葉を呟いた時だけは「聞こえて」いたことだ。
「遠い未来、獅子の太陽を持つ者だけがその存在に気づき、見つけ、導く――」
そういうことだったのね、と目を細め、小箱に触れる。
隠れた太陽を見上げ、隠したものが何だったのかを視る。
日蝕は呪いなどではない。ただ、太陽が隠れてしまうだけの自然現象。遥か昔、千年前には当たり前であったこと。リンが忘れてしまっていたことの一つ。
「……お母さま、もういいの。もう、わたしは大丈夫。
ヨナとも会えたの。ロビンさまや、ヨナの格好をしていた女のひととも、きっと仲良くなれると思うわ。わたし、がんばるね。
お母さま、わたし、ずっと寂しかったの。独りぼっちだと思っていたから。
だけど、本当はずっと傍にいてくれたのね。……あのね、ずっとずっと大好きよ。
お母さま、お母さま。聞いて、わたしね、好きなひとができたの。
不器用なくらい真っ直ぐで、ちょっと女心は分かんないけど、わたしを大事にしてくれるひと。こわいくらいきれいな顔してるけど、笑顔はね、ちょっと子どもみたいでかわいいの。
わたし、あのひとのために、心を返したい。
あのひとと、この時代を生きていきたい。だからね、」
人差し指を小箱の金具に押し付ける。
柔い指の腹がぷつりと切れて、真っ赤な血が滴った。
雫が落ちるのを待っていたかのように、蝶番が弾け、周囲に光の粒が舞う。
漆黒の空を映していた泉に、次々と青が咲く。
淡い青色の、控えめな薔薇の花。リンの為だけに、母が生み出した魔法の花だ。
忘れていた。けれど、別れの日だって待っていた。『器の薔薇』が咲いたのは、いつだって月の綺麗な夜だったから。
「ルーナ・カーレン。物語の毒は、もう必要ないわ。
わたしを産んでくれて……愛してくれて、ありがとう、お母さま」
――薄青い光の柱が、どろりと濁った空を貫いた。
◆◆◆
駆ける。
駆ける、駆ける、駆ける。
魔女アクイレギアは誰も愛さない。
不吉とされた美貌でもって、恐ろしき魔女をその身に宿し、穏やかな平和を謳歌していた国を脅かした。果ては実の弟までも魔女復活の贄とすべく、憐れな少女を盾とした。
長い階段を上がり切っても、激しい殺陣を演じても、その息が乱れることはない。最前姿を見せた時より青白い顔は、まるで死んでいるかのようだけれど、それでもなお、彼は圧倒的に美しかった。
「兄上」
「何だよ」
「打ち合いの時、また手を抜いたでしょう」
「抜かなきゃ俺が勝っちゃうだろ」
「そういうとこですよ」
「だろうな」
弟の呆れ顔を受け止め笑うと同時、刃の欠けた剣が弾け飛ぶ。
敗者の身体がぐらりと傾ぐ。痛みに喘ぐ声など聞かせるまいと、奥歯で噛み潰す。
国中を覆った暗闇を、光の柱が切り裂いた。
『彼女』に返事をするかのように、はたまた生まれたての赤子が泣き叫ぶように、薄青の宝玉が輝いた。
屁理屈には屁理屈で。
アクイレギアの心臓ならば、ここにも一つあるではないか。
左胸。深々と突き刺さった宝剣が、細かな光の粒子となって散る。
「ありがとう」
そう囁き、穏やかに微笑んだのは、一体誰だったのだろう。
花弁のようにあっけなく、頼りなく、「魔女」は谷底へと落ちて行く。
レグルスの姿が見えなくなるまで、ロビンはその場に立ち尽くしていた。
そうしてその場へ崩れ落ちる彼に、騎士たちが駆け寄った。
馴染みの騎士の肩を借り、立ち上がったロビンは、「英雄」と呼ばれるには少々頼りない顔でくしゃりと笑う。
「預言は果たされ、呪いは解かれました。物語の、魔女の時代は、これで終わりです。何しろ、望みの『心臓』を取り戻した魔女は、あんなにも穏やかに感謝を述べて……死を、受け入れたのですから。最早、心なき魔女などどこにもいない。
眠りについた兄も、いつかきっと、愛する人の手によって救われる日が来る。……だって、ね。『よくある話』でしょう?」
窓の外へと目を向ける。今はまだ、ぼんやりと暗い空。
けれど、じきに「それ」が訪れると、ロビンは確信していた。
「……さあ、夜が明ける」
果たして、その言葉のとおり。
兜を外した騎士の一人が、ぽつんと呟いた。
「ああ、『炎』だ……」
カーレンバルトの第一王子は、獅子のように勇敢で、恐れを知らぬ若者となる。
しかしその太陽の如き美貌は人々を惑わし、古の魔女との邂逅を経て、地平線の彼方までも焼き尽くす炎となるだろう。
――春も近いのに、雪を被ったままの山脈を、真っ赤な朝日が照らしていた。
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