8-5

 女教皇。そう呼ばれていた女が、一体どのような名であったのか。どのような生い立ちの、どのような人物であったのか。後の世に伝わる「物語」の中で、それは不自然なほどに曖昧なものとなるだろう。英雄ロビンの物語に登場する彼女は、名もなき道化、記号の一つに過ぎないのだから。

 歴史という名で語られるようになる頃には、もしかしたら彼女の名も、「聖俗逆転の切欠を作った無能者」として話にのぼるかもしれない。けれどそれは我々「物語」の人間には関係のないことだ、とヨナ・ウルフズベインは言う。


「下手に火種を残して、今回みたいなことを繰り返さないとも限らないからね。きちんと終わらせるため、彼女には敵役の座からも降りてもらったんだ。まあ、さっさと舌でも引っこ抜いて、人の噂にも上らなくなった頃にこの世からもご退場願うよ」


 がたごと揺れる馬車の中、リンの向かいでの肩を支えるヨナは、天気の話でもするような調子だ。結構恐ろしいことを言っていると思うのだが、人生二度目ともなると、このくらいでは動じたりしないのだろうか。「一度目」の記憶があるのだと、さらりと暴露された時は目を剥いたが、言われてみれば納得しかないのが何となく悔しいリンである。

 何とも言えない顔で視線をヨナから隣へ移せば、同じく微妙な表情の「死人」――もとい前王と目が合った。白い髭の下から溜息を吐き出して、しかし、声音はどことなく愉しげだ。


「まったく。卿といい、うちの聞かん坊の長男といい、若い者は恐ろしいな」

「僕は見た目ほど若くはないですけどね。レグルス様はもう何かレグルス様ですし仕方ないとして。それよりロビン様が承諾した時の方が驚きましたよ、いろいろと」

「……いろいろと、か」


 顔を見合わせ、にやりと目を細めたヨナと老王に、リンは首を傾げる。けれど、その答えを得られる前に、馬車が一際大きく揺れて、止まった。

 王都を守る外壁は遥か遠く、暗闇の中では城の尖塔すらも見えない。不気味な靄の立ち上る中、馬車から降りたヨナがリンに手を差し出した。

 リンは頷いて、その手を取る。降りたつと同時、地面から湧き出た「魔性」の手を、吐息一つで地に返す。得たばかりの心臓は緊張でどきどきと跳ねていたが、魔女の肉体としては、成る程「完成」したらしい。

 左胸にそっと触れれば、息づく温かさに切なくなる。けれど、リンだって「託された」のだ。母からレグルスへ、そして彼からリンへと繋がれた、ハッピーエンドのチャンスは一度きり。不安に震える指を叱咤して、ぎゅっと拳を握った。

 呪文と共に踵を鳴らし、馬車の周りに魔物避けを張ると、リンはヨナに向き直る。どこか吹っ切れたような笑みを浮かべ、ヨナが頷いた。


「うん、行っておいで。最後の仕上げだ。今の君なら、『母さま』の魔法にも打ち勝てるだろう。……と、背中押さなきゃいけないんだけど。その前に、いいかい?」

「? なあに?」


 きまり悪げに頬を掻き、ヨナは口を開く。


「本当ならもっと早くに、何回だって言えてたはずなんだ。あの人もそう願って、そうなると思って僕を『鳥籠』に隠した。なのに僕は逃げて、ずいぶん長い間独りきりにさせてしまって……謝ろうにも、君もあの人もに怒る気はないっていうし、どうしたらいいか……いや、だから、つまり……。……おかえり、ロザリンド」


 躊躇いがちに紡がれた声は、リンの知る「ヨナ」の言葉なのだろう。

 沙汰を待つかのような顔でリンの言葉を待つ彼に、リンははにかんで、ぎゅっと抱きついた。


「ごめんなさいって言わなかったから許してあげるわ。ただいま、お兄さま!」



◆◆◆



 表舞台から一時撤退した「魔女」たちが、舞台裏で暗躍している間。

 ただ青ざめる者、逆に顔を真っ赤にして怒鳴る者、鎧をがちゃつかせて右往左往する騎士たちを、杖の一叩きで黙らせたのは、魔法使いではない「魔法使い」だった。

 いつ何時でもにこにこと笑みを浮かべている老宰相は、うぉっほん! とわざとらしく咳払いをすると、肩を竦めて片眉を上げた。


「落ち着かぬか、みっともない。王太子殿下も顔を上げなされ。まだ希望はございましょう。望み通り『心臓』を返してやれば良い」

「ウルフズベイン卿!? 何をおっしゃるのです、それでは殿下が……」

「まぁまぁ、待ちなさい。ほれ、ヨナ、これへ」


 ほっほ、と髭を撫でながら「息子」を呼びつける。一瞬交わした親子の視線が、あまりに生き生きと楽しそうなので、ロビンは人知れず肝を冷やした。こんな計画持ち掛けてきた兄も、首を縦に振った自分も大概どうかしているが、一番「どうかしている」のはこの老人に違いない。こんな状況を楽しんでいるというのだから。

 ヨナの姿をした女――ノラが進み出て、ロビンに大仰な礼を取る。吐き出しかけた溜息を慌てて飲み込み、ロビンは話を促すよう、頷いて返した。


「エストレイア伯、ヨナ・ウルフズベインが申し上げます。

千年の長きに渡り裏切り者の末裔と誹られ、数多の迫害を受けようと、この地へ戻り、彼の王に仕えることを目指し、祖の血を繋げ続けたこと――全ては、この時のため。起こり得る悲劇を覆すためでございました。

祖の贖罪は、祖によって成されねばならぬと、私は自らの名をヨナといたしました」

「……自ら?」


 誰かが思わず聞き返し、ざわりと空気が動く。

 その名はさすがにどうかと思ったが、誰に似たのか言い出したら聞きませんでな、とウルフズベイン卿は苦笑していた。ふさふさした眉の尻がちょっと悲しげに下がっているので、おそらくこれは本音なのだろう。

 産まれてすぐ教団に連れ去られ、魔女になって戻ってきた「エリヤ」は、自ら「ヨナ」との同化を選んだ。その危険性を周囲が理解していたかどうかは定かでないが、もしかしたら、ウルフズベイン卿はいくらか察していたのかもしれない。


 自分より頭一つ分ほど背の高い「息子」の隣に立ち、老宰相は髭を縒る。


「知っている者も多いじゃろう。ウルフズベインの嫡男は、産まれてすぐ何者かの手で連れ去られた。帰って早々矢次の如くわしに減らず口を叩きおったから、戻ってきた息子が本当に我が子か疑う暇もなかったのは不幸中の……まぁそれはよいか。

実はその時、息子が信じがたいことを申しておりましてな。念の為にと、禁書の隅々に至るまで調べさせておりましたことが幸いいたしました」

「信じがたいこと、とは?」


 ロビンの促しに、一際楽しそうな目をしたノラが、指先を壇上へと向けた。


「私が幼少期を過ごしたのは、この教会の地下深く。紅いアクイレギアの花が咲く、『魔女作り』の部屋でした、と。――ねえ、?」

「――は、……っ!? な、何……何を……」


 突然矛先を向けられた女教皇は、一瞬何事かと静止した後、はくはくと喘ぎながら後ずさる。心得たように杖を振るウルフズベイン卿に従い、近衛騎士たちが壇上を包囲した。


「は、放しなさい無礼者! 神の御前で、神の代理人たる私に、王冠のない王如きが! その臣下如きが、このようなことをして許されると!! 神官兵たちよ、この者たちを捕えよ!! 魔女の手先め、私は、私は何も――」

「ええ、何もしてないでしょうとも。手を汚さずに、大勢子供を殺しただけでね」

「――ッ、エリヤァ!!! 貴様、何をしている!! ッ!!」


 ヨナが裏切らない、などという慢心さえなければ、或いは上手く立ち回れたかもしれない。そうでなくとも、彼女自身が魔女の力を手にしていれば、この場から逃げだすことはできただろう。けれど。


「不正解だよ、『お母様』。

『子供』は礼拝堂から遠ざけたから助けも来ない。僕があんたを助けてやることもないし、命令もできない。死んだ子供の名前なんて、憶えちゃいないんでしょう?」


 引きたてられていく女教皇が隣を通り過ぎる一瞬、「ヨナ」がスッと顔を寄せた。見る見るうちに青ざめ、腰を抜かした女を、せいせいしたように笑って見送る「ヨナ」の瞳は、とろりと濡れ光るような漆黒だ。

 戻し忘れてますよ、と言う代わりに咳払いをして、ロビンは少し上擦った声を上げた。


「か、彼女の! ……処遇は、後で決めるとして! まずは、魔女の呪いからこの国を取り戻さねばなりません。ウルフズベインの末裔よ、彼の人が遺した助言があるというのなら、私に授けていただきたい」


 あら、と片眉を上げたノラは、ぱちりと目を瞬いた。

 器用に眉だけ垂れて「ごめんなさい」の顔を作ってみせるノラに、濃紫に戻ったことを確認したロビンは頷いて返す。何事もなかったかのような顔のウルフズベイン卿をチラと見て、ロビンは再びノラに視線を据えた。


「では、エストレイア伯に問いましょう。この国を救うことはできますか?」

「はい、殿下」

「魔女に囚われたあの少女を救うことは、できますか?」

「勿論です、殿下」

「では……私の命を差し出さず、魔女を打ち倒し――兄を救うことは、できますか?」


 皆が固唾をのんで見守る中、ノラはスッと目を細め、華やかな笑みを浮かべた。


「可能ですとも、殿下。魔術など、所詮は屁理屈を理屈で固めたものに過ぎません。悪い言葉を背負わされたのなら、良い解釈で上書きしてしまえば良いのです。

――魔女の心臓を、殿下はお持ちでしょう?」

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