8-4

 レグルスに抱えられたリンが降り立ったのは、見覚えのある部屋の中だった。リンが城に上がる前、二人が最後に言葉を交わした、ヨナ所有の別邸だ。リンには行き先を指定した覚えはないので、おそらくレグルスの意思なのだろう。

 館に人の気配はなく、窓にはカーテンが引かれている。シンと静まり返った室内に、窓の外から人々の戸惑いが聴こえてきた。今の時間、まだまだ高いところで輝いているはずの太陽は、すっかり空からその姿を消している。今はまだ形のない不安で済んでいるが、礼拝堂での一件が民衆に知れれば、町中が大混乱に陥りかねない。


 テーブルの上には、この事態を予期していたかのように、火の灯った蝋燭が用意されていた。ゆらめく灯りに照らされたレグルスの横顔を見上げ、今度こそ一言文句を言ってやろうとしたリンだったが、またもや一拍遅かった。

 はあ、と息を吐いたレグルスがリンを抱えたまま座り込み、がっちり腕の中に閉じ込めてしまったからだ。


「ひぁっ!? え、あの、レグルス? ちょっと離し」

「やだ」

「や、やだって子供じゃないんだから……もう! 苦しいわよ、ねぇってば!」


 痛いし、ぬくい。

 さっきまで兵士相手の大立ち回りを演じていた人に、加減もなく抱きしめられれば当たり前だが。いや。そんなことを考えている場合ではなく。何を言おうとしていたのだったか。


 混乱極まるリンの頭上から、再度深々とした溜息が降ってきた。


「……無事で良かった」


 リンの冷たい首に、レグルスの柔らかい金髪が触れる。くすぐったいわ、と照れ隠しに呟いて、リンはおずおずと手を伸ばした。

 出会った時より頼もしくなった背に、そろりと両手を回す。


「あなたこそ、元気そうで良かった」

「うん」

「いろいろ聞きたいことはあるけど……わたしの名前、ちゃんと見つけられたのね」

「ああ。無理やり黙らせるようなことして悪かった。二度としない」


 首筋に額を擦り付け、珍しく甘えるような仕草を見せるレグルスに、リンは抱擁で返した。どうやら彼は、リンの気分を害すことが余程恐ろしかったらしい。

 おかしな人だ。大勢の刺すような視線には、まるで怯みもしないくせに。

 大体あれくらいで怒るつもりなら、最初から名前なんて託さなかったのだ。何だかんだと真っ直ぐで、たまに大きな子供みたいな彼が、やはり可愛くて仕方がない。言ったら、やっぱり怒るだろうか。


 レグルスの体温が移った気がする掌で、彼の背を撫でながら、リンは問うた。


「……どうして、魔女だなんて名乗ったの?」

「お前から『アクイレギア』の呪いを剥がしたかった」

「それは分かるわよ。わたしだって、魔女だもの。でも、」


 言葉を探して口ごもる。レグルスは先ほど、「二度としない」と言った。ということは、少なくとも彼の中に、「この先」は存在するのだ。リンの代わりに死ぬつもりではないのだろう、そのことに安堵はしたものの、一体どうする気なのかは全く分からない。

 あれだけ煽ってしまえば、もう後には引けないだろう。日蝕は魔女の呪いであると、無知な民衆がこの国を「呪い」、かつての預言は今まさに成就する。となれば、解決する方法などレグルスがあの場で言ったとおり、魔女アクイレギアを正しく復活させるしかない。

 具体的には、リンに心臓を与えることだ。

 誰の心臓でもいいというわけではない。カーレンの末裔のものでなくては、魔女の心臓にはなりえない。こちらは、具体的にはロビンと――


「……まさか」


 ひとつ、可能性に行き当たる。胃の中に氷が飛び込んできたような気がした。

 ぴくりと震えたリンの肩を掴み、レグルスはそっと身体を離す。熱いくらいの体温が去り、不安げに瞳を揺らすリンを、凪いだ緑の双眸がじっと見つめた。


「リン」

「や……いや、聞かない! そんなの絶対だめ!」

「こら、耳塞ぐな。聞けって」

「だって」

「大丈夫だから。約束したろ、お前より先に死なないって。お前が聞かなきゃあんな茶番やった意味なくなるし、大体お前、どうなるか分かってるんじゃないか」

「分かるわよ、分かるからだめって言ってるの! だって、上手くいく保証なんてないし、こんなの……あなたに背負わせたくないの、分かってよ、お願い……」


 レグルスに捕まれた、頼りない手首に目を落とす。脈動のない、青白い肌。千年も姿かたちの変わらない、生き物と呼べるかも怪しい己の姿と、ただただ孤独だったこれまでの人生が脳裏に蘇る。

 ふ、と苦笑を漏らすような吐息が聞こえ、レグルスの右手が外れた。リンの細い顎を指で掬い、するりと頬へ滑らせる。

 リンが渋々目を上げれば、額同士がこつんと触れあった。


「……俺に、選択肢は二つ用意されてたんだ。例えば父上の思うとおりにしていれば、国は救われただろう。お前が心臓を取り戻して、俺が今のお前みたいになるか、もしくは死ぬか。だけど、それじゃお前が泣くじゃないか。だから駄目だ」

「……うん」

「もう一つ。もしロビンの考えたとおりにしていたら、何もかも変わらずにいられた。お前の名前を俺が握って、早いとこ逃げる。そもそも教団の連中の思惑通りに運ばせないだけで良かった。でも、それじゃお前も『今のまま』だろ。だから、これも駄目なんだ、俺にとっては」

「……」


 どことなく不満顔のリンに、レグルスは少し笑ったようだ。

 今日は俺の顔見て逃げないな、と今更な軽口を叩きながら、リンの頬を包んだまま、色のない唇を親指でなぞる。逃げないというより動けないのだ、心臓があったらきっと死んでいる、近過ぎる、と泡のように浮かんでくる文句の数々は、やはり泡のように弾けて消え、言葉にはならない。心を一つに定めようにも、不安が過ぎて気もそぞろなのだ。

 リンの内心を見透かしたかのように、「大丈夫だよ」と再び呟いて、レグルスは眦を緩めたまま言った。


「ロビンに『アクイレギア』を倒してもらう。は少し眠るだけだ。物語の定番どおりにさ」

「そんなこと言って、目が覚めなかったらどうするのよ」

「お前が起こしに来てくれよ」

「わたしにできる?」

「できるよ。王女様だろ」

「……違うわよ。…………帝国、だし」


 喉の奥から絞り出すように答えれば、レグルスはリンの目尻を撫でた。涙なんか出るはずないのに、本当に泣いているような気がしてきて、リンは唇を噛む。それを諌めるように、淡く唇が触れる。驚き、薄く開いたところにもう一度。慌てて目を白黒させるリンを見て、レグルスが可笑しそうに目を細める。抗議しようと口を開いたら、声ごと全部食べられた。

 何が起きているのか。鼠の時とは訳が違う。彼は「リン」にキスしているのだ。何度も何度も。しかも何だかちょっと楽しそうに。リンにはもう訳が分からない。

 硬直したリンの鼻にトドメのキスをちょんと落として、レグルスは再びリンの額に自分のそれを寄せた。


「嫌だった?」

「い……や、じゃないけど……じゃなくて! した後でそれ聞くの!?」


 仮にもリンだって乙女の端くれだ。傷つけるかもとか、そういうことは考えなかったのだろうか。自分がどんな顔かたちをしているかの自覚はともかく、レグルスはそこまで自惚れ屋ではなかったと思ったのだが、リンの記憶違いだったのだろうか。

 目をつり上げたリンに、レグルスは首を傾げて返した。


「だって魔女が名前を預けるって、そういうことなんだろ」

「!? そ、そそそれはそう……だけど……、ん? 待って、知ってたの!? 誰に聞いたの!? やだ、うそ、……わっ、わたしで遊ばないでよ! いじわる!」

「馬鹿、遊んでねぇよ」

「じゃあ何で」

「好きだ」


 あまりに、何でもないように告げられて。

 心臓のない魔女リンでなければ、気付かなかったかもしれない。


 ぽかんと口を開けたリンの喉から、ひゅん、と奇妙な息が漏れた。

 同時に、キンと耳鳴りがした。空気の塊を吐き出し、背を丸めて蹲る。左胸が痛い。全身が痛い。否、熱いのだろうか。とにかく苦しくて、つらくて、何でもいいから縋りたい。思わず手を伸ばす。床を掻こうとした指先を、レグルスの手が攫った。すぐに身体ごと抱きかかえられ、暴れるリンの身体を閉じ込める。

 リン、と呼ぶ声が、耳に優しい。発火したように熱い背中を撫でる手も、優しい。

 咳き込み、荒い息を吐くリンが落ち着くのを待って、彼は息を吐いた。


「上手くはいったな。平気か?」

「……っは、ぁ、っ……ど、して……」

「さあ。気が付いたらお前のことばっか考えてた。お前だってそんなもんだろ?」

「そ……っれは、そ、だけど……ちが……」


 ぽろぽろと涙がこぼれていた。千年ぶりの涙は、ひどく熱くて塩辛い。


「うそだもん」

「嘘じゃない。隷属だって解けたし、お前の呪いはもう俺には効かないぞ」

「同情なんて、いいのよ」

「そんなもんに命賭けるほど人間できてねぇよ」

「……っ、だって、でもどうして、……どうして言っちゃうの」

「言わなきゃ分かんないだろ。お前に心臓も渡してやれない」

「いらない、……要らない! 返す! だってこれじゃレグルスが、それに、わたし、わたしだってあなたのこと……んむっ」


 先の宣言通り、レグルスはリンの声を封じることはしなかったが、物理的に口を塞がれた。口で。さっきからもう何回目かもよく分からない。

 キス魔だ。現実逃避気味にそんなことを考え、リンはじたばたともがいた。ただの呼吸でさえ上手くできないのに、これでは不死から解放されて早速死んでしまう。

 息が継げずに軽くぐったりしたところで、リンの唇は解放された。弱々しい非難の目を向ければ、レグルスは呆れたようにこちらを見ていた。


「返すな馬鹿、ちゃんと持ってろ。じゃなきゃ俺が死ぬだろうが」


 それはそうなのだけれど。……そうなのだろうか?

 あまりに怒涛の展開、ついで久々の酸欠に喘ぐリンをあやしながら、レグルスが言う。


「リン」

「……うん」

「好きだよ」

「……う」

「好きだ」

「そ、そんなに何回も言わなくていい!」

「顔真っ赤だな」


 お前いつもそんな風だったのかと、からかい交じりに言われて、リンはもごもごと口ごもる。真っ赤に熟れた頬に、冷たい唇を寄せて、レグルスが言った。


「俺はお前より先に死んだりしない。約束するから、ひとつ我儘聞いてくれ。

目覚めて最初に見るものは、お前の笑った顔がいい。……待ってていいか?」

「……うん」


 小さな桃色の爪先と、長く、蝋のように白い小指が絡む。

 するりと解けると同時、リンの目尻から、最後の涙が一粒落ちた。

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