7-4

◆◆◆


 強烈な眩暈と共に、レグルスにとって何度目かの覚醒は訪れた。


 一体どれくらい眠っていたのだろう。

 何回か目を覚ました記憶はあるが、同じ夢を見続けていたせいで、夢と現の境目が限りなく怪しい。


 長々と見続けたその夢も、幼い自分を抱いた母が窓から飛び降りるという結末に終わった為、実に後味が悪い目覚めとなった。


(……なんて。夢じゃないよな)


 多少の「混同」はあったものの、後半は紛れもなく自分の記憶だ。

 おかげで、額の傷が事故じゃなく心中未遂の結果だったと思い出したレグルスだが、できれば一生忘れていたかったとも思う。


 母はああ言ったけれど、お空の向こうに国などなかった。

 包帯でぐるぐる巻きにされたレグルスが見つけたのは、泣きじゃくる弟と強張った顔の父と、墓石になった母だった。


 感傷に浸りかけたレグルスだったが、ふと引っかかるものを感じて眉を寄せる。


「……ん? 『お空の向こう』?」


 そんな言葉を最近聞いた気がするのだけれど、誰が言ったのだったか。

 ありふれた言い回しとはいえ、日常生活でそう何度も耳にする言葉ではないだろう。


 考え出すと同時に悪化した眩暈を堪え、レグルスは眉間に皺を寄せる。


「あら、漸くお目覚め?」

「!」


 突然聞こえた女の声にぎょっとして顔を横向けると、水差しを片手に入ってきた少女と目が合った。

 ふわふわの銀髪に小柄な体躯、薄青の瞳――特徴だけ見ればリンに違いないのだが、何かが違う……気がする。


 鼻歌交じりに水差しを置いて、リンによく似た少女はレグルスの顔を覗き込んだ。近くで見ても恐ろしい程そっくりだが、香水にも似た濃密な花の香りや妙に艶っぽい笑みは、どう考えてもリンのものではない。


「ちょっと顔色悪いかしら? まだ眠い? キスでもしてあげましょうか?」

「……誰だ、お前」


 本当にキスされそうになったので、思わず顔を背けてそう言うと、レグルスは女の肩を押し返した。

 誰だと言われて女は驚いたようだが、すぐに元通り微笑みを唇に乗せる。ふうん、と目を細め、別人であることをあっさり認めたかのように。


 何故この女はリンの姿をしているのだろう。

 リンは、そうだ、教団の「猊下」――ヨナに【お母様】と呼ばれていた女教皇に狙われているのだ。

 記憶が途切れる直前の出来事が脳裏にまざまざと蘇り、得体のしれない怒りと焦燥感が交互に顔を出す。


 八つ当たりに近い苛立ちを瞳に宿らせて、レグルスは女を睨み据えた。


「ふざけてんのか。リンはどこだ、何か知ってんのか、お前」

「もう。せっかちね、王子様。余裕のない男はもてないわよ?」

「答えろ」


 レグルスの指が女の肩に食い込む。

 ちらりと眉を顰めて息を吐くと、女はがらりと雰囲気を変え、半目でレグルスを睨み返した。


「ったく、冗談通じない子ね。教えないわよ今は。言ったら飛び出して行くでしょうが。あんた一週間以上寝てたのよ? 出て行っても何もできやしないわ。……何か腹に入れて、ちょっと落ち着きな、坊や」


 媚びた甘さをばっさり取り払い、女は鋭い眼差しでレグルスを射抜く。

 突き放すようでいて、実はこちらを案じてくれているらしい言葉は、悔しいくらいに真実だった。


 剣呑に絡み合っていた視線を外し、レグルスは手を下ろす。


「……悪い。助けてもらったんだな。名前は?」

「分かればよろしい。……呼び名は、そうね。エレナ・エランティスって名乗ってる。馴染みもないから、ノラでいいわ」


 ふっと吐息だけで笑うと、女――ノラは、レグルスに毛布を掛け直して踵を返した。本当に食事を用意してくれるつもりらしい。


 長く細い息を吐いて、レグルスは辺りを見回した。


(花屋……か? 何でそんなとこに……)


 ノラが作ったのかは分からないけれど、簡素な木机の上にはいくつもの花束が重ねてあり、部屋の隅に並んだ細い筒には切り花が活けられている。

 閉じたカーテンの隙間からは明るい昼の日差しが差し込んで、絨毯すら敷かれていない古い床に線を描いていた。


 慎ましやかな下町の花屋、その主人の家と思しき小ぢんまりとした部屋には、レグルスが寝ているベッド以外にそれらしきものは見当たらない。

 唯一の寝所を占領し、女性に雑魚寝を強いてしまったらしい。幾分冷静になったレグルスの胸を、罪悪感がチクリと刺した。



 しばらくしてミルク粥とティーポットを手に戻ってきたノラは、既に変装を解いていた。

 年の頃は二十代の半ばか、それより少し若いくらいだろう。

 ぽってりと厚めの唇、とろんと濡れ光る垂れ目に豊満な胸元と、ともすれば下卑た欲の象徴ともなりそうな姿かたちをしているが、不思議といやらしさは感じない。

 さばけた口調と、あっけらかんとした態度のせいかもしれない。


 湯気と共に器から立ち上る、ほの甘く懐かしい匂いに空腹を思い出し、レグルスはぎこちなく微笑んだ。


「……ごめん、ありがとう」

「十代なんてまだ子供みたいなもんなんだから、甘えられる時は甘えときなさい。起きられそう?」


 ノラの手を借りて身体を起こすと、レグルスは粥を一口掬う。

 口に入れると、久々の温かさが急速に沁み渡って行くような感覚を覚え――ふと、喪失感に視線を落とした。

 いつもなら、一口ちょうだい、とリンがねだってくるところなのだ。

 しかし今、彼女はいない。


 匙を置き、レグルスは俯いたままぽつんと尋ねた。


「……リンは……」

「本当そればっかりね、あんた……。全部食べたら何でも教えたげるから。元気になんなきゃ、助けられるもんも助からないわよ。あたしたち、あんたに賭けてんだから、しっかりして」


 助けられるものも助からない。

 その言葉に、レグルスは内心で肩を落とした。


 おそらく、レグルスが眠っている間に、リンは教団の手に落ちたのだろう。

 今や誰が味方で誰が敵なのか分からないけれど、教団がレグルスにとって憎むべき相手であることは間違いない。


 無言のままレグルスが粥を平らげ、一息ついたのを見て、ノラはぽつりと話し始めた。


「想像ついてると思うけど、リンちゃんなら聖堂の地下室に幽閉されてるわ。けど、こっちの仲間が付いてるから、まず今は無事だと思ってくれて構わない」

「……仲間って?」

「エリヤ・オルテス。……ヨナ・ウルフズベインって言った方が分かり易い?」


 エリヤ。

 確かに、ヨナは女教皇からそう呼ばれていた。


 見る限り、親子なのか恋人なのか判別の付かない関係だったが、唯一はっきり分かるのは彼らが主従関係にあるということだ。

 ヨナは彼女の命令に従って王に毒を盛り、リンを誘い出した。

 しかし一方で、レグルスの額を撃ち抜くかと思ったあの時、確かに彼は意図的にレグルスを逃がしてもいる。


 戻れなくなるって忠告したのに――その言葉を聞いた時、もしやと思ったのだ。

 そしてそれは、無音の呟きに気付くと同時に、確信めいた予感へと変わった。


 あの銃に弾は入っていない。

 引き金を引くと同時に、幻術で人の目を惑わしただけだ。

 あの時、ヨナが呟いたのは呪文だった。そしてレグルスは、その呪文を知っていた。


 いつかの夢とまるきり同じことを、逆の立場でヨナはやってのけたのだ。


(じゃあ、やっぱりあいつ……)


 いつの間にか難しい顔になっていたレグルスは、ノラの苦笑ではたと我に返った。


「混乱するわよね、そりゃ。……あたしたち、孤児院育ちの魔女なのよ」


 唐突な感のある告白で切り出し、傍にあった切り花の束に手を伸ばす。

 すいと一本抜き取って、花占いでもするかのように花弁を取ると、掌に乗せてふっと息を吹いた。


 舞った花弁はそのまま空中に留まり、色を変え、一つの形を作り出す。

 赤い星に白い花、間違いなく教団の紋章だ。


 居住まいを正したレグルスに、ノラは流し目をやって指を鳴らす。


「これ、実はね、星と花じゃないの。見てて」


 ぱちんと小気味よい音と同時に、紋章は溶けるように消えてしまった。

 花弁の代わりに、ぽたりと床の上に落ちたのは、尖った赤い萼の中心に白い花弁を持つ――


「……アクイレギア……?」


 父の手紙に同封されていた、白茶けた方の押し花と全く同じ花に、レグルスは呼吸も忘れて見入っていた。

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