青い薔薇は存在しない

7-1

「……すみません、驚かれたでしょう」


 話がある――そう言ってリンを別室に案内してくれた黒髪の貴公子は、申し訳なさそうに眉を垂れた。


 小柄なリンから見ると巨人に等しい長身の彼だが、近寄りがたい印象は不思議と無い。

 おっとりとした控え目な口調といい、人懐こいチョコレート色の瞳といい、気の優しい大型犬を思わせる雰囲気のせいだろうか。


 彼が手ずから淹れてくれたお茶は、ふわりと温かな湯気を立て、辺りに芳香を漂わせている。

 どうぞ、と困ったような笑顔で勧められ、リンはティーカップを手に取った。


「えっと……いただきます」


 透き通った琥珀色の液体は、海を越えてやってきた珍しいお茶なのだそうだ。口に含むとほのかな甘さが広がって、爽やかな風味が鼻に抜ける。


 おいしい、と目を輝かせたリンに、ホッとしたような声が返ってきた。


「よかった、お口に合いましたか。千年前には同じものは?」

「なかったと思います! ほんと不思議なお味……ん? あの、王太子殿下って……」

「ロビンでいいですよ。兄がお世話になってます、リンさん」


 ぺこりと頭を下げられて、リンは慌てて神妙な顔を作る。

 この落ち着き払った態度にしっかりした受け答え――むしろロビンの方が兄に見えると言ったら、レグルスは怒るだろうか。


 気を取り直して、リンは口を開いた。


「じゃあ、その、ロビンさまは……魔女が、怖くはないんですか?」

「ええ、そんなには」


 思いがけずあっさりと答えられてリンは面食らった。

 穏やかな物腰や柔和な表情は概ね想像通りだったが、話に聞いていたより肝が据わっている気がするのは何故だろう。


 リンの戸惑いを察したのか、ロビンはふと目を伏せる。


「どこで誰が聞いているか分かりませんから、滅多なことはなるべく口にしないことにしてるんです。僕は、僕個人である前に次の王なので……母の血のこともありますし」


 どこか苦い顔をしたロビンに、リンはこの部屋に来た時のことを思い出した。

 念入りに人払いをしていたのにはそんな理由があったらしい。


 行儀よく膝の上に置かれた手をじっと見つめ、ロビンは物憂げに息を吐いた。


「父が失礼を。手首、痛みがあれば仰って下さいね。冷やす物をお持ちしますから」

「あ、いえ……そんな。平気です。丈夫なだけが取り柄なので!」


 果たして不老不死を「丈夫」と表現していいのか謎だが、それは脇に置いておく。


 できもしない力瘤を作るような仕草で力説したリンだったけれど、その実、あれから密かに胸を刺す棘があることに気付いていた。

 腑に落ちない思いが燻っていることにも。


(……どういう意味だったんだろう。治さなくていい、なんて)


 リンが「薬湯」の正体に気付いたあの時、予想外の強い力でぎりぎりとリンの細腕を握りしめていたのは、誰より病の原因を知りたいはずの王だった。


 痛みに顔を顰めたリンを苦悶の表情で見つめ、王はゆるゆると頭を振ったのだ。


『よいのだ。元より快癒は望まぬ。気づかぬふりをしておけ、【カーレンの魔女】よ』


 耳を疑った。

 王があれを薬でなく、薄めた毒だと知って服用し続けていたなんて、聞いたところで簡単に納得できる話ではない。


『で、でも、そんな……どうして』

『……。罪滅ぼしになど、なるとも思えんがな』


 自嘲気味にそう言うと、王は突然背を曲げて激しく咳き込み始めた。何が何だか分からないけれど、こんな様子を見て放っておくなんてリンには不可能だ。おろおろと病人の背中を擦るリンに、王はか細い声で問うたのだ。


『……レグルスは……少々、気は回らぬが、……美しい男だったろう、魔女殿』

『へ? そ、それはそうですけど、今はそんなこと言ってる場合じゃ……』

『あれの心臓は、お気に召したか?』

『……え?』


 そこでいよいよ理解が追いつかなくなった。

 レグルスを殺したんだろうと言外に責められていると気付くや否や、リンの手足から力が抜ける。誤解や偏見は覚悟してきたつもりだったが、まさかそんな疑いを持たれるとは思いもしなかった。


『そんな……まさか! 違います! あのひとなら、ちゃんと生きて……』


 いくら言い訳したところで、悪党の言葉になど説得力はないだろう。

王にとっては息子を殺した憎い仇、そんな魔女の手なんて借りたいはずがないのだ。拒まれた理由を見つけて悄然と俯いていたリンは、しかし、王の虚ろな声にそれが間違いだったと悟った。


『生きている、だと? ……どういうことだ、あれは貴女に【花】を見せたのでは……いや、それよりウルフズベインの倅はレグルスに何も言わなかったのか?』

『……花? 待ってください、どういう……』


こうして事態が呑み込めず、双方ともに混乱する中に現れたのが、ロビンだ。

言葉を連ねようとする父王を「お身体に障ります」と窘め、物言いたげなリンの背を押して、この部屋に通されたのがつい先ほどのこと。


 ぬるくなったお茶を口に運び、リンはぼんやりと問うた。


「……わたし、何のために呼ばれたんでしょうか」


 王は、ヨナの名前を出しただけでリンが何者なのか悟った。

 彼らの間には初めから何らかの打ち合わせがあったに違いないが――そして、それはレグルスに関わるもので、行き違いがあったことも想像に難くないが――魔女の力を利用したくて呼んだのなら、命の危機に瀕した今使わずして何とするのだろう。


 リンの呟きに視線を彷徨わせたロビンは、やがて腹を決めたように言った。


「父は……兄を、殺すつもりだったんです。貴女に兄の心臓を与えて、【カーレンの魔女】のあるべき姿に戻そうと――そうでもしなければ、国を守れないと思ったから」

「……え?」


 言葉を失うリンに、ロビンは少し表情を改める。


「話というのはそのことで。僕は兄を死なせたくない。だけど、国を守るのもまた王族の義務。両立させるには、貴女の力が必要なんです。協力して頂けませんか」

「そ、そんなの! もちろんです! それでわたし、何をす、……れば……?」


 パッと身を乗り出しかけた時、ぐにゃりと視界が歪み、リンはよろめいた。

 焦点の合わない目でロビンを見つめると、彼は張りつめた顔でリンの様子をじっと見ている。


「この先何があっても彼を信じて下さい。……すみません」


(彼……って?)


 目蓋を裏側から引っ張られているような、痛みに近い強烈な眠気を感じた。

 朦朧とする意識の中、半分になった視界に、黒い影が立ち上がったのが見える。


「……ああ、お疲れのようですね。少し休まれては?」


(疲れ? これが?)


 夢の上澄みを漂っているような心地の中で、リンの中に淡い疑念が生まれたけれど、ロビンはレグルスの弟で、彼の味方なのだからという思いが全てを掻き消してしまう。

 それに、疲れていること自体は事実なのだ。今日は一日、緊張し通しだったから。


 それなら少しだけ、と思うや否や、リンの意識は途切れた。


 気を失い、椅子から転がり落ちそうになったリンを横抱きに抱え、ロビンは部屋の戸に視線を走らせる。

 示し合わせたかのように扉が開いて、灰茶の髪の青年が姿を現した。


 眉を寄せ、ロビンは問う。


「……です?」

「こっちですよ、殿下」


 そう言うと「ヨナ」はぱちんと指を鳴らし、どこからか現れた薔薇の花を口元に寄せる。

 それで得心したように頷くと、ロビンはぐったりとしたリンをヨナに預けた。


「……睡眠薬、効くんですね」

「まあ、不老不死って言っても年取らなくて死なないだけみたいですから。矢が刺されば痛いし毒を盛られれば苦しいし、感覚自体は意外に私たちと変わりませんよ」


 そうですか、と沈痛な面持ちで言うと、ロビンは目を伏せる。


「……お願いしますね。『死体』の回収の方も」

「はいはい。任せといて下さい」


 たっぷりと音が出そうなウィンクを投げ、ヨナは部屋を後にしたのだった。

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