6-3
◆◆◆
「彼、多分それじゃ気付いてないよ」
「いいのよ」
城門へ向けて馬車に揺られながら、リンはどこかすっきりした顔でそう答えた。
不服そうに首をひねって、ヨナは言う。
「君が化粧してることにすら気付いてなかったんじゃないか?」
「……言わなかっただけかもしれないわ」
自分で言っておいて、まあ彼のことだからやっぱり気付いてないんだろう、と否定し、リンは苦笑する。
血色の悪い肌を誤魔化すべく実は薄化粧を施していたのだが、案の定、見事に反応が無かったのだ。レグルスに女心への理解など求めてはいけない。そして、それが見込み違いであると指摘する者は、残念ながらこの場にいなかった。
「ねえ、リン。本当にいいんだね。殿下に名前を任せても」
どことなく心配そうなヨナに、リンは曖昧な笑みを返す。
一体どういう風の吹き回しか、今日の彼はいつにも増して過保護だ。
普段のヨナだったら「君の好きなようにするといい」と涼しい顔をしていそうなものなのに。……大体、レグルスへの気持ちをはっきりさせろと言ったのは、彼だったはずなのに。
「うん。あのひとなら、悪いことには使わないもの。それに、自由になれば、あのひと喜ぶわ。わたしができることなんて、そのくらいだし。……いいの、それで」
そう答えると、ヨナは呆れたように溜息を吐いたけれど、それ以上は何も言わなかった。
門番に医者だと紹介され、リンはにこやかに会釈する。
魔法で黒く染めた髪のおかげか、特に不審には思われなかったようだ。――それはそれで不本意だけれど。
「……どうしてわたし、お母さまに似なかったのかしら」
リンの小さな独り言に返事はなかった。ヨナの耳には届かなかったらしい。
やがて馬車が止まり、外から戸が開けられた。先に降りたヨナが、リンに手を差し伸べる。
その手を取った時、不意に、甘い香りが鼻孔をくすぐった。まったりとした花の匂いはヨナの袖口から漂ってくるようだ。
ふんふんと動物のように鼻を動かし、リンはヨナを見上げて問うた。
「いい匂いね。薔薇?」
「え? ……ああ、匂いが移ってたか。まあ、ちょっとね、人に会ってたから」
どことなく艶めいた笑みに彼の言わんとすることを悟り、リンは呆れて息を吐く。
「なんだ、そういうこと? 遊び歩くのもほどほどにしなさいよ、困ったお兄さまね」
「はは。ほーんと、どっかの女に刺されないうちに落ち着いてほしいもんだよねえ」
「自分のことでしょ! もー!」
「ああほら、陛下のいらっしゃる宮殿に入るよ。静かにしなきゃ」
唇の前に人差し指を立ててヨナがそう言ったので、リンは慌てて口を噤んだ。
冷たい風の吹き抜ける回廊を通り過ぎ、二人は長い廊下を進む。城主の居室へと続く大理石の床は、渋茶の上品な織物で覆われており、リンの足音を吸い込んでいく。
明かりの量を控え目に抑えたこの先に、奥の間――王の寝室があったはずだ。
隣に立つヨナを見上げれば、彼は優しく微笑んで頷いた。
「護衛には話を通してある。邪魔しちゃいけないから僕は扉の外で待ってるよ」
「え……大丈夫なの? 誰かが見てなきゃさすがに怪しまれるんじゃ……」
平気だよ、と言ってリンの背中を押し、ヨナは片目を瞑ってみせる。
納得できたわけではないが、今から診るのは原因不明の難病患者なのだ。確かに集中力不足は大敵だろう。
きゅっと眉をつり上げて気合を入れ直し、リンは奥の間の扉を押し開けた。
「……誰だ?」
どう声をかけるか迷っている間に、重々しい声が寝台の方から飛んできて、リンはびくりと肩を跳ねさせる。
他に人の気配がないのだから声の主など王に決まっているが、すぐにでも回れ右して逃げ出したいこの威圧感は、病人のものとは到底思えない。
おっかなびっくり近付いて、ごくりと唾を飲み込むと、リンは震える声で答えた。
「……い、医者でございます、陛下。エストレイア伯にお話を伺い、陛下のお力になれればと、参りました。伯は、扉の外におられます。……お呼びいたしますか?」
やっぱり不審者だと思われたのでは、とリンが怯えていると、寝台の影から驚いたような顔の老人が現れた。
病み衰え、かさついた印象の強い面貌だが、緑色の瞳にはレグルスとよく似た強い光が宿っている。
なるほど、確かにこの人が彼の父親らしい。
「本当に連れてきおったか……」
溜息交じりにそう言って、王は片手で顔を覆った。
安心したような、それでいて悲しそうなその表情は不可解だが、まずは仕事だ。
気を取り直してリンは寝台の傍に膝をつく。
「あの、横になってくださって大丈夫ですよ。おつらいでしょうから……ごめんなさい、もっと早くに到着するはずだったんですけど、トラブルがあって……」
取り留めのない話をしながら、リンはサイドテーブル上の薬湯に何気なく視線をやった。
王の様子を見るに、この薬湯が役に立っているとは思えないけれど、少しでも参考になればと手を伸ばす。
薬湯を口に含み――リンはさっと表情を変えた。
「う……ぐっ、これ……、っ!?」
掠れた声で呟いたリンは、思いがけず強い力で腕を引かれ、息を呑んだ。
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