5-4

◆◆◆


 沈む夕日を眺めながら、リンはベッドの上で膝を抱えていた。


「……怒っちゃったかな」


 ぽつんと呟き、扉の方へ視線を送る。リンが戸口を見つめてみたところでレグルスが帰ってくるわけではなく、静まり返った室内に、何度目かも分からない溜息が響いた。


(怒るわよね。当たり前だわ。ひどいこと言っちゃったもの。顔見たくない、とか)


 リンは寝巻の胸元を握りしめ、抱えた膝の上に突っ伏す。がらんどうの胸は、やっぱりぴくりとも動かない。昼間はあんなに、どきどきしたように、感じたのに。


 熱っぽさを覚えた冷たい頬を両手で覆い、温度も湿度もまるでない吐息を漏らす。夕暮れの窓に顔を向ければ、青白い肌はひと時だけ赤く染まるけれど、それはただ夕日を映しているだけ。……リンのものではないのだ。残念ながら。

 つまり、この気持ちの正体を、リンは知っていると思う。

 思う、というのは、自信が無いからだ。


 初めは同情だった。自分と同じ境遇に立たされたレグルスが、堪えきれずに涙を流すのを見て、放っておけないと思った。この子を守りたい、それだけのはずだった。

 彼がまた泣いてやしないかと思うと目を離せなくて、事あるごとにリンの身なりを叱るから彼の視線が気になって、目で追って、笑顔を見ると嬉しくて、声が聞きたくて。


(だからってどうかしてるわ。ばかって怒鳴られたのに、それでもうれしいなんて)


 真摯な眼差しを受けて、リンはあの時、傷の痛みさえ忘れてしまった。緑の瞳がリンだけを心配して、リンだけを映していたから、今なら死んでもいいかなと思った。

 それで、漸く気づいたのだ。


(なにが弟よ。友だちよ。違うじゃないの、ぜんぜん、そんなんじゃ足りない)


 目蓋の裏に浮かぶのは、華やかな蜂蜜色の髪に、すらりと通った鼻梁、そこらの女性より余程きめ細やかな肌。無駄なく鍛えられた身体と、すらりと長く均整のとれた手足は、堂々とした立ち姿を殊更引き立てる。


 涼しげな横顔が、触れると実は温かいのだと知っている。大きな手は、剣を握る人だからか、結構硬い掌をしていた。薄い唇は、ああ見えて柔らかい。


 無意識に自分の唇をむにむにと弄っていたリンは、溜息交じりに呟いた。


「……はしたないのかしら、わたし」

「いやあ完全に恋する乙女だね、リン。兄代理としては複雑だなあ」

「ひぇ!? ヨ、ヨナ! いつからいたの!?」

「窓見て君が黄昏れてた辺り。声かけたのに返事が無いからさ。で、やっぱり惚れた?」


 人の悪い笑みを浮かべて、いつの間にか丸椅子に掛けていたヨナが、悠々と足を組む。リンは強張った顔を苦心して元に戻し、こほんと咳払いをすると、ぼそぼそと小声で言った。


「そ……そんなんじゃ、ないわよ、べつにレグルスのこと考えてたわけじゃないし」

「僕も別に殿下がどうとは一言も言ってないんだけどね」

「!! ち、ちが……そうじゃない! だって! それはその! ……笑わないでよー!」


 リンはあれこれ反論を試みたが、何を言っても後の祭りだ。ここまで見事に引っかかる子がいるんだねえ、と満足げに微笑まれ、リンはばつが悪いといったらない。


 そんなリンの機嫌を取ろうと砂糖漬けの花や木の実入りのチョコレートを怒涛のように押し付け「お土産だよ」と言う様はいつものヨナだったが、纏う空気が少々違う気もする。

 訝るリンの視線に気づいたのか、ヨナは大げさに肩を竦めて苦笑した。


「疲れちゃってさ。何しろ目が回るほど忙しいもんだから」

「大丈夫なの? 少し仮眠取った方が……ベッド、貸しましょうか?」

「はは、怪我人から寝場所奪うまで追い詰められちゃないよ。……で、どうなんだい?」


 一瞬問われたことが分からずきょとんとしたリンは、話を戻されたのだと分かると両手を振り上げる。


「どうもこうもないわよ! もう! 大体、どうでもいいじゃないの!」

「どうでもよくないから聞きたいんだ。リン、殿下のことが好きなんだね?」


 急に真面目な調子で言われ、リンはたじろいだ。

 追及を避けようと口を噤み、顔を逸らしても、ヨナはじっとこちらを見ている。

 普段であればリンの嫌がることは絶対にしないヨナなのに、何故だか今回は譲れないようだった。


 シーツの上に片手をついて、ヨナはリンの顎をくすぐる。リン、と宥めるように低い声で呼ばれ、リンは渋々ヨナの方に振り向いた。


「……すき。でも、だめなの。気づいちゃだめだったの、こんな気持ち」

「どうして? 伝えてみないと駄目かどうかなんて分からないじゃないか」

「伝えちゃいけないのよ。わたし、心臓のない魔女だもの」


 自分で言ったことなのに、その言葉はリンの胸をちくちくと苛んだ。弟だ子供だ何だと誤魔化して気付かないふりをし続けていた、最たる理由が、それだった。


 魔女アクイレギアは誰も愛さない。

 皆がそう言ったけれど、彼女は愛さないのではない。愛してはならなかったのだ。

 魔女が囁く愛の言葉は魅了の魔法、そして魔女に心奪われるとはそのまま、魔女に心臓を奪われることと同じである。


 ただの魔女であれば、気にするほどのことでもなかったかもしれない。

 魔女がきちんと愛を返せば、魔女の心臓が入れ替わりに相手の物となるからだ。


 けれど、リンには心臓が無い。返すべき、愛が無い。


「……だから、欲しくなっちゃだめだわ。それに、嘘ならいらないの。魔法で手に入れたって、うれしくない」


 レグルスとの友情がいつまでも続くのだと、この前までは暢気に考えていた。

 気付いたって苦しいだけだから、知らないふりをしておけばいいと思っていたのかもしれなかった。


「……罰が当たって怪我したんだわ。どうして好きになっちゃったのかしら。わたし、あのひとに優しくしてもらう価値なんてないのよ。知られたら、嫌われちゃうに決まってる」

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