5-5

 ――帰っていきなり入り辛い。


 レグルスは自分の間の悪さを呪い、何とも言えない顔で廊下に立ち尽くしていた。


 話題に上がっているのは、どうやら自分のことのようで。

 リンの気持ちを考えれば、聞いてはいけない類の話なのだが、そう思えば思うほど耳は室内の音を拾い上げてしまう。

 もちろん具体的な話はさっぱり見えないし、何がどう駄目なのかもレグルスには分からない。何故リンがここまで萎れきった声で、先行きを悲観しているのかも分からない。


 心臓が無いから何なのだろう。

 出会った時から既にその状態なのだから、今更ではないか。

 どうして、「好きになっちゃった」だとか、「罰が当たった」だとか、そんなことばかり言うのだろう。

 レグルスの気持ちも、考えも、何もかも置いてけぼりで、リンは勝手に傷ついて、勝手に落ち込んでいる。


 空気が読めないだの女心が分からないだのと罵られるだろうし、ヨナに後でからかわれるのも確定したようなものだが、めそめそされるくらいなら、いっそ今すぐ踏み込んだ方がいいのだろうか。

 そう思い、ドアノブに手を掛けたところで、レグルスははたと気が付いた。


 踏み込んで、何を言うのか。

 リンの気持ちにどう答えるつもりなのだ、自分は。

 ……答えなら明確だと思う。リンの喜ぶ返事を、確かに持っているはず。だが。


 ただ、一日の間に急激に浮き沈みしたせいで、何とも内心が落ち着かない。躊躇っている間に聞こえた衣擦れの音で、ヨナがリンを抱き留めたのだと悟る。

 途端、いろいろあって忘れていたはずの苛立ちが、ひょっこり顔を覗かせた。

 今すぐ扉を開けて行って二人きりの雰囲気なんかぶち壊してやりたいが、そうなると先の自問自答が脳裏をよぎって動けず、しかし足はその場に釘づけのまま。おかげで更に二人の会話に耳をそばだててしまい、もう何も聞かなかったことにして扉を開けてしまおうかと後悔し始めた頃だった。


「リン、たとえ君が殿下の心臓を奪ったとしても、彼なら死にはしないよ。君と同じ、カーレンの血筋だ。君との契約を通して、アクイレギアの毒も既に回ってる。今の殿下は、本物以上に『魔女アクイレギア』に近い。

確かに、魅了の魔法が掛かるのは避けられないだろうけど……それだって今更じゃないか。君との契約が成立した時点で、彼は君をんだから」


 一瞬、レグルスは耳を疑い、呼吸を忘れた。


(嫌えない?)


 魅了の魔法。心臓を奪う。本物以上に、今の自分が魔女アクイレギア?

 照れや見栄を取り払いさえすれば明瞭だったはずの「答え」が、急に遠くなる。


「……分かってるわ。狡いのは最初からだってことくらい。だから優しくしたの。嫌われない理由が欲しかったの。レグルスがわたしの傍にいてくれるのは、魔法のせいじゃなくて自然なことだって思いたかったのよ。

それに、死なないから良いって話でもないでしょ。心臓がなくなって、温度がなくなって、年を取らなくなって……こんなの『生きてる』なんて言わないわよ」


 不老不死になったって、わたしは何も嬉しくなかった、と。

 ぽつんと零れ落ちた、泣き笑いのようなリンの囁きに、レグルスはぐちゃぐちゃになっていた思考回路を放り出した。


 魔術を使役し、魔術に縛られ、そのことに傷ついているだろうリンの傍に、彼女が望む限りいつまでだって居たいと思う。けれど、その自分の気持ちさえも、信じてはいけないと言われてしまった。少なくとも、リンは信じてくれないのだと。


「……っ、んだよ……!」


 衝動的に踵を返したレグルスは、柱に拳を叩きつけ、そのまま宿を飛び出した。

 自分の気持ちなんて自分が一番分かっていたはずだ。一瞬でも躊躇した自分を殴りつけてやりたい。それで拳を痛めて腫れようと、リンの示した優しさが「狡い」ものだろうと、どうだってよかったのに。なのに、吐き気がする程悔しくて、泣きそうだった。


視線を落とすと自分の左手が目に入り、無遠慮に抱き寄せた柔らかな感触を思い出す。目を閉じてみても、耳を塞いでみても、リンのことばかり頭に浮かぶ。


(それが、全部勘違いだって、お前は言うのか?)


 リンの怪我にあれほど動揺し、彼女がヨナばかり頼ることに腹を立て、顔を見たくないと言われて凹み、子供扱いを面白くないと思った。気づかないふりをしていただけだ。

 いつの間にか、好きだった。

 信頼でも、友情でも、何でもなかった。


 盗み聞きしてしまったリンの告白を思い出し、レグルスは顔を覆う。


(馬鹿みたいだけどさ、あんなのでも、嬉しかったんだぞ、俺は)


 謝罪も、父への助けも、何も要らなかった。許す理由なんて必要なかった。

 魔法をかけたって、嘘を吐いたって、訳を話してくれさえすれば、それだけでよかった。確かに、リンを嫌いになんてなれないけれど、こんな気持ちが夢や幻であるはずがないのに。


 だのに、この首輪がある限り、彼女はレグルスを信じないのだ。


「……どうしろって言うんだよ……」


 消え入りそうな呟きは、そのまま闇に溶けていった。




◆◆◆




 だん、と激しい物音が階下から聞こえ、リンは身を縮こまらせた。


「な、なに? 喧嘩……?」

「……さあ、誰かベッドから落ちたんじゃないかな」


 気にすることは無いとリンを宥め、ヨナは扉の向こうを見透かすように視線を送る。


(初めから聞いていた、とは思うけど。さて、どこまで気付くかな?)


 リンは決して馬鹿ではない。けれど、甘いのだ。

 何かあれば、自分がレグルスの盾になればいいとばかり考えている――まさか、自分の方こそが「彼ら」の目的だとも知らずに。


 だが、まあ、そこまでは想定内として。

 問題はレグルスだ。

 先日の襲撃でリンが彼を庇ったことで、彼には餌としての価値が生まれた。

 また、レグルスが咄嗟の判断と実用的な剣術に長けていたのは、ヨナにとって嬉しい誤算だった。あの状況で、即座に撤退の判断を下せるだけの器量があると知れただけでも、わざわざまどろっこしい手を使った甲斐があったというものだ。

 しかし、どれもこれも今ここでレグルスが逃げだせば、全てが水の泡。


(手を取る相手を間違えてはいけないよ。その心臓には、替えがたい価値がある)


 まあ、レグルスの性分を考えれば、そう心配はしていない。落ち着いたら戻ってくるだろう。リンに事情を問いただすようなことも、おそらくできないだろうけれど。

 今はまだ、その方が都合がいい。それならどう転んでも、「ヨナ」の独り勝ちだ。


 少年少女が夢見るほどに、世界は単純な善意で出来てはいない。己が物心ついてすぐ、嫌というほど思い知ったそのことを、さあ、どう伝えてやるべきか。

 ゆったりと口の端を持ち上げて、ヨナは目を細めた。

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