独りぼっちじゃない
3-1
自棄を起こした後特有の妙な高揚感が去った途端、我に返ったレグルスを後悔が襲ったけれど、何もかも杞憂だと思い直すのにそう時間はかからなかった。
まず、魔法というのは膨大な計算や実験を経て漸く完成する「学問」に近いもので、リン曰く万能でも何でもないらしい。
初めこそその力に驚いたものの、せっせと地道な勉強を続けるリンを見て、魔女も大変だなとこの頃は同情を覚えつつある。
そして何より、冷酷無比な恐ろしい魔女という巷のアクイレギア像とは異なり、このリンという女は何かと詰めが甘く、良くも悪くも気の抜けた、当たり前の少女だったのだ。
「魔法なんて疲れるから嫌だって滅多に使わないし、魔女らしいとこ全然ねえよな」
床の上に放り出されたリンの蔵書を拾い上げ、レグルスは呟いた。開いてみれば、何処の言葉かも分からない、記号のような文字がずらりと並んでいる。
図版から植物図鑑か何かだろうとは判断できるものの、描かれた植物には見慣れないものが多く、絵を楽しむ以外の用途は見出せそうもなかった。
とはいえ、これと同じ文字で書かれた本や巻物は総じて古く擦り切れていて、リンが何かを調べようとしたとき最初に手に取ることも多い。
他の言語と比べて読む速さが段違いであることを考えても、これが彼女の母国語――つまり、帝国の言葉である可能性は高いのだ。
せめてこれが読めれば、少しは彼女の「真名」に近づけるのだろうけれど。
残念ながら、自由への道は遠いようだ。
「リン、これ何て花だ?」
適当に開いたページを指さして、レグルスは顔を上げる。
向かいで無心にパンを頬張っていたリンが、ふぐ、と間抜けな声を発して眉を寄せた。
――喉に詰まらせたらしい。
呼吸していないのだから詰まったところで特に問題なさそうなものだが、やっぱり苦しいものは苦しいのだろうか。
言葉にしろ、魔法にしろ、相変わらず分からないことだらけだったが、今のレグルスにとって最大の謎は彼女の身体の仕組みそのものだった。
華奢で小柄な体躯に似合わず、彼女はよく食べる。
心臓も血液も代謝もない彼女が普通の人間と同じように食事をすること自体不思議だが、その食欲たるや恐ろしいほど。それこそ胃袋に魔法陣でも描いてあるのではと、初めは疑ったものだ。
容姿は彼女曰く心臓を失った時のまま、何世紀も変わらないらしい。
裁判所に掲げられたアクイレギアの肖像とリンは、改めて見れば、確かによく似ていた。
もっとも、似ていると判断するにはまず、小汚い今の装いを脳内修正せねばならなかったし、長生きの割に落ち着きのない言動や子供っぽい表情も、頭から追い出さねばならなかったけれど。
表情云々を差し引いても実際少々若返っているのではないかとレグルスは思うのだが、肖像画というのは得てして信用ならないものだ。
血のように赤かったと伝わる瞳だって、絵によって緑や榛色に塗られているし、今の彼女は涼しげな薄青色だった。詳しい事情は知らないが、もしかすると、血が流れていないことも関係しているのかもしれない。
「うぐ、ぐぐ……ぷは! み、見てないで助けてよ!」
「え? あ、悪い」
暢気にとりとめもない思いを巡らせていたレグルスは、慌てて視線を前に戻した。
いつの間にか自力で立ち直ったリンが、こちらを睨みつけている。
勢いよく机に叩きつけられた木製のマグは、高い音を鳴らして、空であることを主張した。
「もう! レグルスが急に話しかけるから!」
頬を膨らませてぶうぶうと不満を呟くリンに、レグルスは半眼を向ける。
「何でだよ。慌てて食うからだろ」
「うっ……それはそうだけど。だって、おいしいのよ」
「ただの黒パンじゃねえか。ちょっと焦げてるし」
「こっちの、おいも潰したやつとピクルス乗せるの。あとベーコン」
言いながら最後の一口を口に放り込み、リンは幸せそうに表情を緩ませた。
その平和な顔ときたら。
女帝の威厳や魔女の禍々しさなど、欠片も見当たらないから困ったものだ。
もごもご咀嚼して口の中の物をすっかり飲み込んでしまうと、彼女は指や唇の周りについた屑をぺろりと舐め、机の上に身を乗り出した。
「で? どの花のこと?」
「……お前さあ」
レグルスの問いに答えるつもりでいてくれたのは嬉しいが、子供じゃあるまいし、行儀が悪いにも程がある。
謎の植物が植わった鉢や大量の本でごった返す机の隅に、所在無げに置かれているハンカチを指さし、レグルスは顔をしかめた。
「いい年して口いっぱい頬張んな。あと汚れた手拭くならそれ使えって言ったろ」
「減るもんじゃないし、いいじゃない、べつに。レグルスって口悪いけどやっぱり王子さまよね。変なとこ真面目で」
「変なとこって……つか、他人事かよ。大昔はお前だって女王様だったんだろ」
「違うわよ。帝国だし」
堂々と屁理屈で返し、何が悪いと言いたげにリンはツンと顎を上げる。
「あのなあ……」
深々と息を吐いて、レグルスは額に手をやった。
食事の席では父に叱られるのが日課だったレグルスに、よもやこんな日が来るとは誰が想像しただろう。
上には上がいるということか。それとも、下には下がと言うべきか。
とはいえリンも、レグルスの呆れたような視線を受けて我を通しきれるほど頑固者ではない。
こういう場合、しばらく睨み合いが続けば、折れるのは大抵リンの方だ。
「……。わ、わかってるから! そんな目で見ないでってば!」
今日も結局すごすごと椅子の上に戻り、「わたしの方がお姉さんなのに」とか何とか口の中で文句を転がしながら、リンはハンカチを手に取った。
過去の反省によるところかもしれないが、引き際はリンも心得ているのだろう。
自由奔放で気まぐれで、いつでも自分に正直なところは物語のアクイレギアそっくりだったが、レグルスが眉を顰めるような我が儘を繰り出したことは一度もない。
そうこう考えているうちに手を拭き終わったリンが、どうだと胸を張ってすまし顔などして見せるので、レグルスはつい苦笑を浮かべた。
得意げな顔に、いつぞやの鼠を思い出す。
姿が人間になったところで、食い意地や振る舞いが変わるというわけでもないらしい。
「はいはい、偉い偉い」
レグルスは思わず手を伸ばし、小ぢんまりしたリンの頭に置くと、そのまま髪の毛をぐしゃぐしゃにかき回した。
元から無造作極まりなかった彼女の銀髪は、おかげで洗い立ての羊の毛みたいになってしまったが、それが何だか無性に面白くてやめられない。
突然のことにリンはしばらく絶句していたが、むず痒そうに一度唇を震わせたかと思うと、「ちょっと!」と叫んで眦をつり上げた。
「あなたね、すぐそうやってわたしの頭なでるけど! 子供じゃないのよ!」
「はあ?」
それはまあ、外見や言動はともかく、千年生きた人間を子供とは呼ばないだろう。千年も生きられた心臓のない生き物を、まだ「人間」と呼んでいいかは疑問だが。
そんなの分かってるよと口を開きかけて、レグルスは顔を強張らせた。リンの目はますますつり上がり、眉間にしわが寄って、爆発寸前の様相を呈している。
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